「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」                       (ヨハネによる福音書1515
 主イエスは弟子たち(私たち)を「僕とは呼ばない」で、「友と呼ぶ」と言われる。戸惑いを覚えるが、前後の文脈を見ると、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(12,17)との「愛の掟」が語られており、その愛とは「友のために自分の命を捨てること」(13)であって、主がまず私たちのために命を捨てて下さることによって、私たちを「友」として扱って下さったのだ。
 ただし、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたは友である」(14)とも言われるように、主の愛に応えて、「愛の掟」を実行するのでなければ、「友」と呼ばれる資格はない。
 けれども、標記のように、私たちを「僕」ではなく「友」と呼んで下さるのは、「僕(奴隷)」のように、主人の意図を知らされずに、ただ命令されるのではなく、主イエスが十字架の業を行なわれることによって、父なる神の愛の御心を、すべて私たちに知らせて下さっているからである。
 そのような主イエスと私たちの「友」としての関係は、「わたしがあなたがたを選んだ・・・任命した」(16)と言われるように、主の一方的な選びと任命による。その目的は、「行って実を結び、その実が残る」こと、即ち「互いに愛し合う」という「愛の掟」が実現することであり、更には、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11)と言われているように、主イエス御自身が喜んで下さり、私たちも喜びで満たされるためなのである。神は大いなる御計画をもって、救いの物語を始められた。神は人類が互いに愛し合う者となるために、ご自分の独り子であるイエス・キリストを遣わして、壊れた愛の関係を修復することから始められた。その大きな神の愛を受けて、互いに愛し合うことを教会という共同体の中から実現して行こうとされている。私たちはその「大いなる物語」に招かれているのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年2月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書15:11−17
 説教題:「僕ではなく友」
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