序.友と呼ぶ

・今日与えられておりますヨハネによる福音書1511節以下の箇所の中の15節で、主イエスは弟子たちに「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言っておられます。この言葉はまた、今日、私たちに向けて語られている言葉であります。主イエスは私たちを「友」と呼んで下さるのであります。

・「友」という日本語は、「友情」とか「友愛」という言葉から連想するように、仲間に対する親しみを込めた呼び方のように感じられますが、主イエスと私たちの関係は、そんな馴れ馴れしい関係だったのだろうかという戸惑いを覚えます。親しみを込めた呼び方としては、主イエスが中風の人に言われた「子よ」というのがありますし、主イエスの母上や御兄弟方が探しに来た時に、御自身の周りに座っている人々のことを「わたしの兄弟」と呼ばれました。つまり、御自身に従う弟子たちのことを「兄弟」と呼ばれたのであります。そういう言葉を使わずに、なぜここでは「友」という言葉を使われたのかという疑問も湧いて来ます。私たちを「友」と呼んで下さることに、どのような意味が込められているのか、どのような恵みが示されているのか、そのことを問いつつ、今日の箇所の御言葉を聴いて行きたいと思います。

1.愛の掟

・先週聴いた151節からの箇所では、主イエスは「ぶどうの木」の譬えを用いながら、主イエスと私たちがぶどうの木と枝のように、生きた関係でつながっていることによってはじめて、豊かな実を結ぶことが出来るということを話されました。そこで何度も使われていた「つながる」という言葉が、今日の箇所のすぐ前の9,10節では「とどまる」という言葉に変えて訳されていますが、こう述べられています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」――ここでは、主イエスの愛にとどまる(つながる)ということが、「掟を守る」ということと結び付けられています。「掟」というのは、13章で主イエスが弟子たちの足を洗われた時に言われた「新しい掟」のことで、1334節でこう言っておられました。「あなたがたに新しい掟を与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

・そして、今日の箇所の12節を見ると、同じことを語っておられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」 また、今日の箇所の最後の17節でも、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と、「掟」が「命令」という言葉に代わっていますが、同じく「愛の掟」を行うように命じておられます。

弟子たちや私たちを「友と呼ぶ」ということが、今日の箇所で、突然のように語られるのですが、今見たように、前後では、「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という「愛の掟」が語られていて、その文脈の中で、「友と呼ぶ」という言葉も出て来たのであります。ですから、主イエスが「友と呼ぶ」とおっしゃる場合には、単に<仲良し>とか<気が合う>といった友人関係を思い浮かべるのは間違いで、「愛の掟」で語られているような、より深い愛の関係を考えなければならないと思われます。

・先ほど、旧約聖書の出エジプト記33章の一部を朗読していただきました。そこには、モーセが十戒を与えられた直後に、イスラエルの民を代表して「臨在の幕屋」と名付けられた所で神様の御心を伺う場面が記されていて、そこで、「主は人がそのと語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」3311)と書かれているのでありまして、非常に厳粛な場面であって、決して馴れ馴れしい関係ではないのであります。主イエスはおそらく、その場面を念頭に置きながら、十戒に相当する「新しい掟」を新しいイスラエルである弟子たちに示された時に、「友と呼ぶ」という言葉が出て来たのではないかと思われます。ですから、「友」というのは、「新しい愛の掟」によって結ばれる深い愛の関係を示しているのであります。

2.自分の命を捨てる愛

・そのことが一層はっきりと示されるのが、13節の言葉であります。こう言っておられます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」つまり、主イエスが「友」とおっしゃる時には、友のために自分の命を捨てるような愛のことを考えておられるのであります。先週の「ぶどうの木」の譬えの説教の中で、ぶどうの木と枝とが<つながっている>という関係の中味は、7節にあるように、主イエスの御言葉がいつもあることと、更には656節で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」と言われた、十字架の上で肉を裂き血を流された関係のことが示されているということを申しましたが、同じことが「友」という言葉で表わされている主イエスと私たちの関係の中にも含まれているということであります。主イエスが私たちのために命を捨てられたこと、その大きな愛のゆえに、主は私たちを「友」と呼んで下さるのであります。

・ただし、次の14節を見ると、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と言われています。「わたしの命じること」とは、「互いに愛し合いなさい」という「新しい愛の掟」のことであります。私たちが主イエスから「友」と呼んでいただくためには、「互いに愛し合う」という「新しい愛の掟」が実行されていることが条件になる、ということであります。この主イエスの言葉に耳をふさいだり、割り引いて聞いてはならないでしょう。私たちが互いに愛し合うことをしないままで、「友」と呼んでもらうことは出来ないのだということを、しっかりと弁えるべきであります。しかし、主イエスは私たちに何もしないで、道徳的な戒めとして「互いに愛し合いなさい」とおっしゃっているのではないことは明らかであります。その前には、「わたしがあなたがたを愛したように」という、大きな前提がついています。主イエスは私たちのために、既に御自分の命を捨てて下さったのであります。「これ以上に大きな愛はない」と言われるような愛を行なって下さったのであります。既に私たちを実質的に「友」として扱って下さったのであります。そうであるのに、そのように愛された者たち同士が、愛し合うことが出来ないとすれば、主イエスの愛を受け取ったとは言えないし、「友」と呼んでいただく資格がないのは当たり前であります。

・私たちは、教会の兄弟姉妹の交わりが、主イエスの大きな愛を受けた者として相応しい関係になっているかどうかを顧みる必要があります。家庭や職場などにおける身近な者との関係において、主イエスから「友」とは呼んでいただけないような関係になっていないかを反省する必要があります。もちろん、主イエスが私たちのために命を捨てて下さったと同じように、私たちが隣人のために実際に命を捨てるような場面が、日常的にあるわけではありませんが、何らかの犠牲を払うことの出来る場面は決して少なくない筈であります。これは、友愛精神とか奉仕の教えといったものとは違います。主イエスの愛に押し出されて、自然と出て来るものであります。

3.僕とは呼ばない

・次に15節では、こう言われています。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。ここでは、「僕」と対比して「友と呼ぶ」ことの意味が語られています。「僕」とは「奴隷」を表わす言葉であります。パウロは自分の手紙の中で、よく「わたしはイエス・キリストの僕」と言っております。主イエスの弟子である者たちにとって、主イエスは主人であり、弟子たちは僕(奴隷)であります。ここでそのことが否定されているのではありません。私たちは罪の奴隷でありましたが、今やそこから解放されて、主の奴隷(主の僕)とされた者であります。

・ここで主イエスが私たちを「僕とは呼ばない」と言っておられるのは、それとは意味が違います。ここでいう「僕」というのは、主人から何かを言いつけられた時に、<なぜそうするのか><何のためにするのか>ということは知らされずに、ただ主人に言われたままをする者のことであります。そのような「僕」に対して、主イエスの弟子たちには、父から聞いたことをすべて知らせている、という点が違うと言われるのであります。主イエスはここに至るまでにも、御自分が何のために父なる神から遣わされたのかということを、何度も何度もお語りになって来ました。ただ口で教えるというだけでなく、身をもって、行動をもって示して来られました。そして、ついには十字架の御業をもって、父なる神の御心を私たちに知らせて下さいました。だから、私たちが「愛の掟」を聞くのも、理由なく、ただ命令されるのではありません。父なる神様が主イエスに命じられ、それを主イエスが行なわれるという形で、神様の愛を実際に私たちに示されたのであります。私たちはもはや、<なぜ友を愛さなければならないのですか>とか<どのようにして愛すのですか>などと尋ねる必要はないのであります。私たちは愛するとはどういうことかということを、はっきりと知らされているのであります。だから、「僕」ではなく、「友」なのであります。

・<愛とは何か><愛するとはどういうことか>というのは、実際の愛を見聞きしたり、自分で体験しないと分かりません。子供は親の愛を受けて、人を愛することを知ります。しかし、人間の愛は不完全であります。だから、愛に失望することがあります。けれども、神様の愛は完全であります。その完全な愛を主イエス・キリストの実際の御業によって、私たちは知ることが出来ました。だから私たちは、愛するということを知る者となりました。何も知らずに、ただ「愛せよ」と言われているのではありません。だから、「僕(奴隷)」ではなく、「友」と呼ばれるのであります。

4.わたしが選んだ

・ところで、なぜ、他でもないこの私を「友」と呼んで下さるのか。なぜ、私が神様の愛を知るようになったのか。なぜ、「ぶどうの木」である主イエスの「枝」とされているのか。――そのことについては、16節でこう言っておられます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

・人間同士の友人関係であれば、お互いに気が合うとか、認め合うことで成立するのでありますが、主イエスが私たちを「友」と呼んで下さるのは、私たちが主を気に入ったとか、主が私たちの良さを認められたということではありません。ただ主イエスが一方的に選んで下さったのであります。

・主イエスと私たちの関係は、どのようにして決るのか。主イエスのことをあまり知らないうちは、私たちの方が何かのきっかけで信仰を求めるようになって、主イエスに出会って、最終的には自分で決断して、主イエスを信じるようになるもの、だと思っています。しかし、信仰に入った人の多くは、自分が主イエスを選んだのではなくて、主イエスが自分を選んでいて下さったことに気付くのであります。信仰に入るとは、自分で捜し求め、自分で納得し、自分で極め尽して到達するものではなくて、主イエスがその愛をもって私を選んで下さり、捉えて下さり、愛を注いで下さっていることに気付かされて、主の大きな御計画の中にある自分を認めることなのであります。

・主イエスはここで、「わたしがあなたがたを選んだ」とおっしゃると共に、「わたしがあなたがたを任命した」ともおっしゃっています。口語訳では「立てた」と訳されていました。<務めに就かせる>という意味であります。主イエスが私たちを選ばれるのには目的があります。それは、ここの言葉でいうと、「行って実を結び、その実が残る」ということであります。「実を結ぶ」とは何か。それは「互いに愛し合う」という「愛の掟」が実現することであり、ひいては前回に8節のところで申し上げたように、父なる神様が御栄光をお受けになるということであります。

・「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」とあるのは、私たちの勝手な願望が叶えられるというようなことではありません。「互いに愛し合う」という「愛の掟」が実現するという願いは、愛し合うことが如何に困難と思えるような関係においても実現する、ということであります。主イエスは私たちを、この世における愛の関係改善の特使として選んで下さっている、ということであります。そのことはまず、主イエスが私たちを愛して、神様と私たちとの間で壊れていた罪の関係を改善されることから始められたのであります。その愛に応えて、私たちも互いに愛し合う者になるというのが、「ぶどうの木」につながっているということであり、実を結ぶということであります。

・今、読書会では芳賀力という人が書いた「大いなる物語の始まり」という書物を読んでいます。「大いなる物語」とは、聖書に記されている神様の救いの物語であります。先日読んだところでは、現代は物語が失われた時代であるということが書かれていました。無目的で、ただ流れに身を任せるような生き方をする人が多いということであります。もちろん、そういう人ばかりでなく、自分なりに目的意識を持って生きる人もいるのでありますが、それは自分なりの物語であって、往々にしてそれは挫折するのであります。挫折して新たな物語を見出す人もいるのですが、結局は人間が作り出したものにすぎません。本当の物語は、神様の救いの物語であります。神様は大いなる御計画をもって、私たちを御自分の救いの物語に加えようとしておられるのであります。神様はその物語を進めるために、ただ私たちを配役に選んで、将棋の駒を動かすように、働かせておられるのではありません。人類が互いに愛し合う者となるために、まず御自分の独り子であるイエス・キリストを遣わして、壊れた愛の関係を修復することから始められました。その大きな神の愛を受けて、互いに愛し合うことを、教会という共同体の中から実現して行こうとされているのであります。それが神様の「大いなる物語の始まり」であります。私たちは、その「大いなる物語」に招かれているのであります。

結.喜びが満たされるため

・最後に、11節で言われたことに立ち戻りたいと思います。こう言われています。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」

・「これらのこと」とは、直接的には「ぶどうの木」の譬えで語られたことでありますが、今日聴いたことも含めて受け取ってよいのではないかと思います。主イエスが私たちをぶどうの木の枝として下さって、生きた愛の養分を送って下さること、そして、私たちを選んで、私たちに父なる神の愛の御心を知らせて下さり、私たちを「友」と呼んで下さって、互いに愛し合う者たちとして下さること、――これらのことは全て、主イエスの喜びが私たちのものとなって、私たちの内に満ちあふれるためだとおっしゃっているのであります。

・「わたしの喜び」とおっしゃっています。主イエスは私たちのために御自分の命を捨てて下さいました。それが、主イエスの喜びなのであります。それは、主イエスの愛が、私たちの間でも実現して行くからであり、そのことが私たちにとっても喜びとなるからでありましょう。愛し合う喜び、これに勝る喜びはありません。神様の「大いなる物語」とは、愛の喜びが広がって行く物語であります。その喜びの物語は、この小さな礼拝からも広がって行くのであります。
・祈りましょう。

祈  り

・大いなる愛の物語を進めておられる父なる神様!

・私たちをもその物語に招いて下さいましたことを感謝いたします。

・どうか、イエス・キリストによって私たちのところにもたらされたあなたの愛を、私たちのうちにも生かして下さい。どうか、私たちも、主イエスの愛に押し出されて、互いに愛し合う者とされますように。そして、絶えず、主イエスの愛の喜びによって、私たちの内を満たして下さいますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年2月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書15:11-17
 説教題:「僕ではなく友」
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