序.実を結ぶ人生とは

・バンクーバー・オリンピックが始まりました。オリンピックの選手は皆、メタルを獲得することを目指します。オリンピック選手に限らず、スポーツ選手は皆、野球選手でもサッカー選手でも、「結果を残す」ことを目指します。スポーツの場合、結果は勝敗とか点数や記録ではっきりと出ます。

・では、私たちの人生のレースにおいてはどうでしょうか。勝ち組、負け組などというイヤな言葉がありますが、人生の勝ち負けは、必ずしもはっきりしているわけではありません。まして、人生を点数で評価することは出来ません。しかし、私たちは誰でも、豊かな実を結べる人生にしたい、結果を残せる人生を歩みたい、と思っているのではないでしょうか。何のために生きて来たのか分からないような人生ではなくて、たとえ貧しくても、大成功とは言えないまでも、<こんな実りがあった>と言えるような、実りある人生にしたい、と思っています。

・しかし私たちは、なかなか思い描くような人生を歩めないものであります。一生懸命に働いてよい仕事をし、よい家庭をつくり、充実した人生にしたいと願って頑張るのですが、いつの間にか年を重ねて、振り返ってみると、人に誇れるような仕事が出来たと言えるのかどうか、立派に子供を育て上げたと言い得るのかどうか、――若い頃に思い描いていたような実を結んでいない自分の人生に、忸怩(じくじ)たるものがあるのではないでしょうか。  中には、自分のこれまでの人生に一定の満足をしている人もあるかもしれません。社会に大きな功績を残すような貢献はしていないし、贅沢な暮らしをして来たというわけではないけれども、人から後ろ指を指されないだけのことはして来たし、子供たちも人並みに育て上げた。自分の趣味や好きなことを仲間と楽しむことも出来る。僅かながら、奉仕の業を通して社会貢献もしている。自分はそれで満足だ、という人もおられるかもしれません。

・では、結果を残す人生とはというのはどういう人生なのか。人生において、豊かに実を結ぶというのはどういうことなのでしょうか。世間に誇れるような仕事が出来ることなのでしょうか。子供たちを立派に育て上げることなのでしょうか。立派な家に住んで、おいしいものを食べ、贅沢に暮らすことなのでしょうか。自分の趣味や楽しみに没頭できることなのでしょうか。それとも、人に喜ばれるような奉仕の業をたくさんすることなのでしょうか。

・今日の箇所で主イエスは、ぶどうの木の譬えを用いながら、豊かに実を結ぶ生き方について教えておられます。主イエスはどんな生き方を<実を結ぶ生き方>としておられるのでしょうか。どうすれば、豊かな実を結ぶ人生を歩むことが出来るのでしょうか。

1.まことのぶどうの木

・まず、1節で主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と言っておられます。

・「ぶどうの木」とか「ぶどう園」というのは、旧約聖書の中でよく用いられた比喩で、それはイスラエルの民のことを表わしていました。先程朗読しましたエゼキエル書1910節から14節で、「ぶどうの木」と言われているのは、ユダ王国のことで、前半の10節、11節では、「園のぶどうの木のように…豊かに実を結ぶ枝を張った」と語られていて、ユダ王国の繁栄の姿に譬えられ、後半の12節から14節では、「木は引き抜かれ」とか「枝はもぎ取られ」という表現で、ユダ王国の滅亡の姿が歌われています。ユダヤ人は、自分たちが神様から特別な選びを受けて、豊かな実を結ぶ「ぶどうの木」とされている、と思って来ました。それが彼らの誇りであり、望みでありました。しかし、その「ぶどうの木」が引き抜かれ、枯らされ、焼き尽くされるのであります。

ところが主イエスは、イスラエルの民が「ぶどうの木」であるのではなくて、「わたしがぶどうの木である」と言われたのであります。イスラエルの歴史を振り返るならば、イスラエルの民は神様から特別な恵みを受けて来たことは事実ですが、彼らはそれを裏切るようなことばかりをして来ました。とても神様が喜ばれるような豊かな実りを結んで来たとは言えないのであります。

神様はそのようなイスラエルの民に、独り子イエス・キリストを遣わされました。それは、実を結ばないイスラエルの民に代えて、イエス・キリストを信じる人たちによって、新しいイスラエルを建て直すためでありました。主イエスは、ただ「わたしはぶどうの木である」とおっしゃったのではなく、「わたしはまことのぶどうの木である」とおっしゃっています。実を結ばない「ぶどうの木」であるイスラエルの民に代えて、豊かな実を結ぶ「まことのぶどうの木」として、キリストのからだである教会をこの世に植えられたのであります。

ここで、「わたしの父は農夫である」と言っておられるのを聞き落としてはならないでしょう。父なる神様がぶどう園の園主であり、神様が土地を耕し、ぶどうの木を植え、水を遣って育てて下さる農夫なのであります。父なる神様がキリストのからだである教会を建て、育て養って下さるということであります。

2.実を結ばない枝――神による剪定

・ところが2節では、こう言われています。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」――父なる神様は、ぶどうの木が育つように水を遣り養分を与えて下さるだけでなく、実を結ばない枝を取り除いて、実を結ぶ枝がますます豊かに実を結ぶように剪定されるのであります。私たちは主イエスの弟子となって、主イエスというぶどうの木につながっても、実を結ぶことが出来なければ、父なる神によって取り除かれてしまう(剪定されてしまう)のであります。今日は、実を結ぶ生き方を学ぼうとしたのですけれども、まず私たちが聴かなければならないのは、実を結ばない枝は取り除かれるという、厳しい言葉であります。事実、イスカリオテのユダは、主イエスの弟子とされていながら、裏切ったために、弟子の群れから取り除かれなければならなかったのであります。それは、ぶどうの木である教会が豊かな実を結ぶための神様の手入れなのであります。

・では、私たちは実を結ぶ枝なのでしょうか。それとも取り除かれてしまう、実を結ばない枝なのでしょうか。自分自身を含めて、教会につながっている人の人生や生活を見ても、とても実を結んでいるとは言えない、様々な問題を抱えていて、キリストにつながっていることが何の解決にもなっていないようにさえ見えるのであります。クリスチャンとそれ以外の人を比較しても、クリスチャンの方がうまく行っているとは必ずしも言えない。クリスチャンでない人でも、成功している人はたくさんいるし、その人が豊かな実りを享受しているだけでなくて、他の人にもそれを分け与えているような立派な人もたくさんおられる。キリストにつながっていることのメリットというか、具体的な実りが何も見えて来ないではないか、などと思ってしまうのであります。

・ユダは主イエスにつながっていることに失望して、裏切ってしまい、弟子から捨てられました。キリストにつながっていても、人生の実りが見えて来ないと嘆いている者は、ユダのように取り除かれなければならない、という宣告を受けているのでしょうか。他の、豊かに実を結ぶ枝のために、邪魔になる枝は神様によって取り除かれなければならないのでしょうか。

3.御言葉によって清くなる

・しかし、神様の手入れは、実を結ばない枝を取り除くだけではありません。3節を見ると、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とおっしゃっています。ここで「清くなっている」言葉は、2節の「手入れをなさる」という言葉と同じ言葉から来ています。つまり、農夫である父なる神様の手入れは、実を結ばない枝を取り除かれる一方、主イエスの御言葉をもって、一層豊かな実を結ぶようにされるのであります。神様は実りが期待出来ない人間を取り除いて、有望な人間だけを生かされるというように考えては間違いであります。誰でも、その内側には、良い実りをもたらさないような要素があります。それは罪であります。神様は罪があるからといって、その人を直ちに取り除こうとはされません。むしろ、主イエスの御言葉を注ぐことによって、私たちの中にある良い実りをもたらさない部分、即ち「罪」を赦されて、清くされるのであります。「あなたがたは既に清くなっている」と言われます。これから精進して清くならなければならないとか、これから清くしてあげよう、と言っておられるのではありません。既に主イエス・キリストによって罪が赦されて、実を結ぶことが出来る者とされているのであります。だから、ぶどうの木から取り除かれることはないのであります。

13章で、主イエスが弟子たちの足を洗われたときに、ペトロが、「足だけでなく、手も頭も」と言うと、主イエスは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」とおっしゃいました。「体を洗った」というのは、洗礼を受けて弟子になったという意味です。一度、洗礼によって罪が赦されたなら、洗礼を繰り返す必要はありません。既に主イエスの御言葉によって、清くなっているのであります。


4.つながっている(とどまっている)

・では、清くなった者は、自動的に豊かに実を結ぶことになるのでしょうか。4節で、こう言われています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」

ここでは主イエスにつながっていなければ実を結ぶことが出来ないと言われていて、主イエスとつながっていることの大切さが強調されています。一度洗礼を受けて、罪を赦されて、清くされただけでは、主イエスにつながったことにならないし、実を結ぶという結果につながらないということでしょうか。洗礼を受けるということは、主イエスにつながることのように思えるのですが、ここで「つながる」と言われていることには、もっと深い意味があるようであります。そのことを考えてみたいと思います。

・ここで疑問になるのが、2節の言葉との関係であります。2節では、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」とおっしゃいました。つながっていても実を結ばないケースがある(例えばユダのようなケースがある)とおっしゃったのに、ここでは、つながっているかいないかが、決定的であるように語られています。そのことは5節になると、もっとはっきりと語られています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と断言されています。2節と5節は矛盾しているようにも思えます。しかし、5節で言われていることは、形の上でつながってさえおればよいということではありません。「つながっている」という言葉について、もう少しよく見る必要があります。4節から10節までの間で「つながる」とか「とどまる」と訳されて10回出て来るのですが、この言葉は、このヨハネ福音書に、これまでにも何度か出て来た重要な単語であります。例えば、8章の31節では、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とおっしゃっていて、御言葉が主イエスと私たちをつなぐのであります。そのことは、今日の箇所の7節でも同じで、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と言われていて、御言葉によるつながりがあることによって、私たちの望むことが、主イエスがかなえて下さることに結びつくのであります。また、656節で、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」と言っておられますが、この「内にいる」と訳されている言葉が、ここで「つながる」とか「とどまる」と訳されているのと同じ言葉なのであります。6章の方では、正に聖餐式において示される十字架の贖いのことが言われています。ですから、「つながる」という言葉は、単に細い糸のようなものでかろうじてつながっているような関係ではなくて、主イエスの十字架の犠牲と御言葉によって、しっかりと結ばれた関係を表わす言葉なのであります。単に物理的につながっているとか、洗礼とか入会とかいう形式によってつながっているというのではなくて、ぶどうの木から枝へと養分が流れて、枝についているぶどうの実に供給されるように、命を支えるものが注がれる、生きた命の関係なのであります。上辺だけの形式的なつながりでは、実を結ぶことはなくて、2節で言われていたように、父なる神によって取り除かれてしまいます。しかし、主イエスの肉と血と御言葉によってつながれた関係は切れることはないし、実を結ぶことが出来るのであります。

5.愛にとどまる

・それでは、私自身は、そのような生きた関係でぶどうの木につながっているのだろうか、主イエスの御言葉と肉と血によってつながれた関係になっているのだろうか、豊かに実を結ぶ関係になっているのだろうか、そのことが問われなければなりません。

・その主イエスとの生きた関係ことが8節ではこう言われています。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」――つまり、ここでは、豊かに実を結ぶ生きた関係とは、「わたしの弟子となる」ということであり、その結果、父なる神様が「栄光をお受けになる」ことだと言われているのであります。私たちが主イエスの弟子になることによって、神様が神として崇められるようになると言われるのであります。主イエスの弟子になるということであれば、ユダも弟子でありましたし、ペトロも弟子でありました。しかし、ユダは弟子としての実を結ぶことが出来ず、神様の栄光を表わすことが出来ませんでした。ペトロも裏切ってしまいましたが、復活の主イエスによって、もう一度弟子としての役割を担う者とされ、神様の御栄光に仕える者とされました。ユダとペトロのどこが違ったのでしょうか。

910節ではこう言われています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」主イエスは父なる神の愛のうちとどまるお方として、父なる神の命じられるままに生きられ、十字架に至るまで、愛にとどまり続けられました。そのことを主イエスは、先に13章に記されていたように、弟子たちの足を洗うことによって示されました。そして、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とお教えになりました。それは、主イエスの十字架の愛を模倣せよ、ということであります。これが主イエスの「新しい掟」であります。この掟を守っているなら、主イエスの愛にとどまっていることになるし、それが主イエスの弟子にとどまっていることになり、父なる神の御栄光を表わすことになるのであります。

結.実を結ぶ枝として

・そんな風に言われても、自分には大きすぎる課題で、とても担い切れない、という思いになるかもしれません。しかし、主イエスは、ぶどうの木から離れたところで、自立して愛の掟を全うしなさいと言われているのではないのです。あくまでも、ぶどうの木の枝としてつながって、身に余る愛の養分を受けながら、私たちも人を愛することが出来るようになる、ということであります。養分とは、先程聴いたように、主の御言葉と主の十字架の肉と血であります。具体的には、礼拝で説教によって聴く御言葉と聖餐式を通して与えられる罪の赦しであります。これらによって、私たちはぶどうの木である主イエスと命の関係、愛の関係が結ばれているのであります。だから、私たちのような者も、人を愛することが出来るし、神様の御栄光を表わすことさえ出来るのです。

・今日は、私たちがぶどうの木の枝であることを聴いて来ました。主イエスが言っておられることは、私たちが努力して、豊かな実を結ぶ枝になりなさい、と勧めておられるのではありません。もっとしっかりと主イエスにつながっていないと、切り落とされてしまいますよ、と脅かされているのとも違います。そうではなくて、今、主イエスが、この礼拝において、御言葉において、私たちに愛の養分を注ぎ込みながら、私たちをしっかりと御許につなぎとめて下さっているのであります。

・私たちは、ぶどうの木につながっている恵みを忘れ勝ちであります。豊かな実を結んでいるとは言い難い現実があるかもしれません。神様の御栄光を表わしているというよりは、御名を汚し、人を躓かせることの方が多い者であります。父なる神様から切り払われなければならない枝であるように思えます。 

けれども、主イエスは今日も、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と断言して下さっているのであります。実を結ぶとは、私たちがこの世において成功することや、私たちが人から誉められるようなことではありません。実を結ぶとは、主イエスが私たちを愛して下さったように、私たちも人を愛することであり、そのことが、神様の御栄光を表わすことになるのであります。私たちの歩みは失敗が多く、不信仰な歩みではありますが、そのような私たちであっても、主イエスが十字架の愛をもって私たちをつなぎ止めていて下さるので、主イエスの愛を証しすることができるし、主にあって豊かな実を結ぶことが出来るのであります。 ・祈りましょう。

祈  り

・私たちを育て養って下さる父なる神様!

・あなたの憐れみのゆえに、今日も私たちを切り捨てるのでなく、御言葉とこの後に行なわれる聖餐をもって、ぶどうの木につなぎ止めて下さり、必要な養分を送って下さることを覚えて感謝いたします。どうか、ぶどうの木の枝とされていることを喜び、更に主の愛と慈しみのうちに生きる者とならせて下さい。どうか、主から養分を受け続けて、豊かな実をむすび、御栄光を表わすものとならせて下さい。

・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年2月14日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書15:1-10
 説教題:「ぶどうの木につながる」
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