序.礼拝において何が起こるか

・ヨハネによる福音書の14章から16章までは、主イエスの別れの説教であります。主イエスが死へと向かっておられるのではないかとの不安の中で、弟子たちは心を騒がせていましたが、その弟子たちに向かって語られた説教であります。

1424節まで(先週までの箇所)で語られていたことは、一つは、「わたしは道であり、真理であり、命である」のだから、私を信じているならば、父なる神のもとへ行くことが出来る、ということであり、今一つは、主イエスが地上を去られた後にも、「弁護者(真理の霊)」が遣わされるので、父なる神とキリストと弟子たちが愛で結び合わされると共に、弟子たち同士が愛し合うという主の掟が守られることになる、という約束でありました。

・このような弟子たちへの説教は、今日の私たちへの主イエスの説教でもあります。しかも、ここで弟子たちに言われていたことは、その後に、主イエスの十字架と復活、そしてペンテコステの聖霊降臨によって起こることでありましたが、そのことは、既に起こったのであります。ですから、ここで主イエスが語っておられたことは、今や、私たちに起こっていることであり、これからも起こることであります。

・礼拝というのは、御言葉の説教を聴くと共に、聖霊の働きが起こる場であります。今日も、1425節から31節までの主イエスの御言葉を聴きますが、そこで語られていることも、単に昔、弟子たちに話されたというに留まらず、この礼拝において、私たちに向かって語られるのであり、しかも、そこで語られることは、今ここで成就するのであります。今日の箇所で主イエスは、何が起こるとおっしゃっているのでしょうか。耳を澄まして、心を傾けて聴いて参りたいと思います。

1.主イエスの教えを思い起こさせる

・まず、25節でこう言われます。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。」――「これらのこと」というのは、直接には14章の初めから24節までに話されたことでしょうが、同様のことは、弟子たちが召されて以来、色々な形で語られて来たことであります。しかし、彼らは未だに、主が言われることがよく分かっていませんでした。そのような状態から脱出する決定的なことが、「弁護者(真理の霊)」が遣わされるということ、即ち聖霊を賜わる、ということでありました。

・それでは、聖霊を賜わると、弟子たちや私たちはどうなるのでしょうか。そのことが前回の15節から24節までに続いて、今日の26節以下で語られています。

まず26節では、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言っておられます。聖霊が働くと、主イエスが地上の歩みの中で教え話されたことを、私たちが思い起こすというのです。礼拝において、聖書が読まれ、説教が語られます。そこに聖霊が働くと、かつて主イエスが語られたことが、今語っておられるかのように、鮮明に思い起こされるのであります。思い起こすというのは、単に記憶が甦るということではありません。日常生活の中では忘れかけていた御言葉を改めて思い出すというだけでもありません。御言葉に込められた主イエスの思いと愛が、私たちに迫ってくるということであります。私たちは御言葉から離れていると、神様を忘れ、自己流の、命を失ったような生き方になっています。それに対して、聖霊が働くと、神様の方に向き直って、神様との霊的な交わりが甦って、生き生きとした新しい生き方が始まるということ、それが「思い起こす」と言われていることであります。それは、かつて洗礼を受けた時のような、高揚した気持ちが甦るというようなことではなくて、私たちの具体的な生き方の中で御言葉が力を持ち始めるということであります。

・先週の箇所の中で、15節では、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われ、23節では、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われていました。「掟を守る」とか「言葉を守る」というのは、律法の規定を守るように、型どおりの正しい生活をするということではなくて、イエス・キリストによって示された神の愛=赦しの愛を思い起こして、私たちもその愛に生き始めるということ、私たちも人を愛し、人を赦すことが出来るようになる、ということであります。聖霊が働くとき、そのような主の愛による生き方が、私たちのものとなるのであります。

2.主イエスの平和

・このような聖霊の働きによって与えられるものを、27節では別の「平和」という言葉を用いて語っておられます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」

・「平和」はどのようにしてもたらされるのでしょうか。普通、「平和」とは争いや戦争がない状態を言います。わが国は戦後65年、戦争に巻き込まれることなく平和であります。この平和は、平和憲法があり、アメリカとの同盟関係のもとで守られて来ました。その背後には、東西の間での核による抑止力というものがありました。これも、一つの平和を維持する手段でありました。今は、核廃絶に向けての努力がなされています。これもこれからの平和にむけての貴重な努力であります。テロ対策を国際間で協力して行なうのも平和を守るための努力であります。戦争やテロがないだけでは平和とは言えません。様々な犯罪を防いだり、差別や貧困をなくすための努力も必要ですし、病気や災害を防ぐ対策をすることも平和への大切な働きであります。また、人と人との交わりを豊かにしたり、生き甲斐のある社会にすることも、平和な社会を築くために必要なことです。このような、平和のためのマイナス要因を取り除いたり、逆に、平和を産み出すプラス要因を育てる努力は、必要なことであり、大切なことであります。

・しかし、ここで主イエスは「わたしの平和を与える」と言っておられます。主イエスの平和とは、どのような平和なのでしょうか。「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言っておられます。それは、先程、私が挙げたような平和への様々な取り組みとは違うということであります。26節からの文脈では、神がお遣わしになる「弁護者」即ち聖霊が、主イエスの語られたことを私たちに思い起こさせることによって、平和が与えられる、ということになります。平和は聖霊によってもたらされるのであります。では、聖霊によって思い起こさせられる主が語り給うたこととは何でしょうか。それは、弟子たちがよく理解出来なかったことでありますが、この時から主イエスがしようとしておられること、即ち、次の28節で言われていることであります。「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた」と言っておられます。つまり、十字架にお架かりになって、この世を去られるけれども、三日目に復活され、また昇天されたのち、聖霊という形で戻って来られるということであります。ですから、主イエスの言われる「わたしの平和」とは、主イエスが御自分の血をもって勝ち取られた神様と人との間の平和であり、御自身に代って遣わされる聖霊の働きによって私たちに戻される平和のことであります。

・ここで「平和」と訳されている言葉は、口語訳では「平安」と訳されていました。旧約聖書のヘブル語では「シャローム」と言われているものであります。この「平和」または「平安」とは、人間同士の間の「平和」であるより以前に、神様と人間との間における平和であります。神様に背いている私たちの罪の状態から、主イエスによって解放されることが、主イエスの平和であり、聖霊によって与えられる平和なのであります。この世の戦争をはじめ、様々な争いやいがみ合いも、その大元にあるのは人間の罪であり、その大元が、主イエスと聖霊の働きによって取り除かれなければ、地上に真の平和は訪れないのであります。

28節の後半では、「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである」とおっしゃっています。今、弟子たちは主イエスが捕らえられて殺されるのではないか、という不安の中で、心を騒がせています。そのような弟子たちに対して14章の初めでは、「心を騒がせるな」と言われ、そのあと、父の家に「場所を用意しに行く」と言われて、弟子たちの救いを約束されました。だから主イエスが父のもとへ行かれることは、弟子たち(私たち)にとって喜ばしいことなのであります。しかし、それだけではありません。ここでは、「父はわたしよりも偉大な方だからである」と言っておられます。主イエスの十字架の死は、屈辱に満ちたものであります。しかし、主イエスは復活して、父なる神様のもとに昇られました。ですから、主イエスの救いの御業は、確かに私たちのために身を低くされた御業でありますが、偉大なお方である父なる神のもとへと凱旋される、栄光の御業でもあります。だから、弟子たちも私たちも、全く心を騒がせる必要がなくて、諸手を挙げて喜んで良いのであります。栄光を賛美したらよいのです。

3.世の支配者はどうすることもできない

29節では、「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」と言っておられます。主イエスが十字架にお架かりになったとき、弟子たちは、一旦は傷心のうちに、何も出来なくて、閉じ篭ってしまうしかありませんでした。しかし、復活のキリストが弟子たちに現れたときに、彼らはこの時に主が語っておられたことを思い出して、主を信じることが出来ました。そして、弟子たちはその後、聖霊を受けて、全世界に主を宣べ伝えるために立ち上がるのであります。主イエスはここで、その時のための備えをしておられるのであります。

・更に30節では、「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」――「多くを語るまい」とおっしゃるのは、時が迫っていて、もう何度も語る機会がない、という意味でしょう。「世の支配者」とは、具体的には主イエスを捕らえようとしているユダヤ人の指導者たちのことですが、その背後には、人間の罪があり、それを支配している悪魔の力があるということを言おうとしておられるのだと思われます。けれども、悪魔は主イエスを「どうすることもできない」のであります。悪魔はユダヤの指導者たちを用い、ローマの権力をも用いて、主イエスを滅ぼそうとしましたが、主イエスはそれを逆手にとって、自らを人間の罪の贖いとすることによって、罪の力に勝利されるのであります。こうしてもたらされた「平和(平安)」は、もはや悪魔によって損なわれることはないのであります。もちろん、主イエスの救いの業によって、直ちに戦争の無い社会になったとか、人と人との争いがなくなったとか、何の不安もない世の中になったということではありません。しかし、戦争や争いやあらゆる不安の根は既に断たれたのであります。既に、主の愛がそれらに勝利したのであります。

31節では、「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである」と言われます。主イエスがなさったことは、父なる神様の御意志そのものである、ということで、主の十字架の御業は、苦渋の選択であるとか、やむを得ないことであったというのではなく、神様と主イエスの深い愛の関係の中で行われた御業であり、神様の御意志と御計画が行われたのだということを知るべきなのであります。

結.さあ、立て。ここから出かけよう

31節の最後で、主イエスは「さあ、立て。ここから出かけよう」と弟子たちを促しておられます。このとき既に、主イエスを捕らえようとする者たちが迫って来ていたと思われます。十字架への道はまっすぐに引かれています。弟子たちはまだ、その道がよく分からないまま、心を騒がせております。「ここから出かけよう」というのは、そのような不安の中に身を置くのではなく、主が備えられた道を歩み出そう、ということであります。

・もちろん、弟子たちだけで出かけるのではありません。主イエスが先頭に立って行かれます。この主に従って行くならば、そこには主イエスの十字架がありますが、それは罪に対する勝利であります。そして、復活があり、聖霊によって、すべてを思い起こさせてくださり、真の平和(平安)が与えられるのであります。

・「さあ、立て。ここから出かけよう」という言葉は、かつての弟子たちにだけでなく、私たちにも礼拝ごとに語りかけられている言葉であります。私たちも様々なことに心を騒がせております。これからの人生の行き先が見えていない不安があります。解決していない問題を持っています。将来に対する展望が開けていない社会の中にいます。教会の将来についても、必ずしも明るい展望が開けているわけではありません。

・しかし、主イエスは、そのように心騒がせている私たちに、「さあ、立て。ここから出かけよう」と言っておられます。私たちが心騒がせている場所から出て行こう、と言われるのであります。ペトロは「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いました。私たちは、主が歩まれた道を既に聖書によって教えられております。それでもなお、私たちは逡巡しております。確かに、歩む道も、行く先も目に見えるような姿で見えていません。しかし、独りで出かけるのではありません。主イエスが一緒に出かけようと言って下さっているのであります。主イエス御自身が道なのであります。また、主イエスが約束して下さったように、弁護者である聖霊が伴って下さるのであります。

・出かけて行く先は、相変わらずの日常の生活のように見えます。様々な不安が相変わらず待っています。明るい展望がすぐには見えてこないように思われます。しかし、主イエスは、12節のところで、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と言われておりました。その箇所の説教でも申しましたが、この御言葉の意味は、主イエスによって始められた業が、弟子たちによって継続されて、もっと大きく発展する、ということであります。それは主イエス・キリストによって成された救いの業の福音が、世界に向けて広がって行くということであります。それが「大きな業」であります。私たちは今、そのような大きな業を行うために、出かけるのであります。その大きな業は、私たちの日常生活の中で行われるのであります。私たちの日常生活の中にも聖霊において主が伴って下さって、主の御業が行なわれていくのであります。「さあ、立て。ここから出かけよう」――主イエスは、そう言って私たちと一緒に立ち上がって下さるのであります。
・祈りましょう。

祈  り

・愛する主イエス・キリストの父なる神様!

・この地上に御子イエス・キリストを遣わし、罪の赦しの御業を成し遂げ、私たちのような罪深い者にも、あなたとの平和を与えて下さいましたことを感謝いたします。

・どうか、この平和の道を、勇気をもって、信仰をもって歩む出す者とならせて下さい。どうか、絶えず、御言葉と聖霊の助けが伴って下さいますように。

・どうか、更に多くの兄弟姉妹と共に、この平和の道を歩むことが出来ますように、一人一人にあなたが働いて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年1月24日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書14:25-31
 説教題:「さあ、立て。出かけよう」
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