序.信じることと愛することと聖霊の働き

・先週の礼拝で聴きましたヨハネによる福音書141節から14節の箇所では、主イエスが逮捕されるのではないかという不安をつのらせた弟子が、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問うたのに対して、主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われて、「わたしは道であり、真理であり、命である」という有名なお言葉を語られました。「道」とは、父なる神の所に備えられた家に至る道であります。主イエス・キリスト御自身が、父なる神に至る「道」だと言われるのです。だから、主イエスを信じて、その道を歩めば、父なる神のもとに行けるのであります。そこでは、主イエスを信じるということが重要なことになって参ります。

・そのようなことが語られたあと、今日の箇所の冒頭の15節では、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とおっしゃって、「主イエスを愛する」ということが出て参ります。そして、ここで「掟」と言われているのは、1334節で語られた「新しい掟」のことだと考えられますが、そこでは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と勧められています。この新しい愛の掟と、先週聴いた、道である主イエスを信じることとがどう結びつくのでしょうか。

・更に、16節になりますと、突然のように「弁護者」というのが出て来て、17節ではそれが「真理の霊」と言われていて、聖霊の話が続くのであります。そして、21節になると、また、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」と言われていて、「愛の掟」の話に戻っているのです。一体どうつながっているのでしょうか。――どうも、話しが、あっちこっちへ行って、つながっていないようにも思えるのであります。

・そこで、この時の主イエスと弟子たちの関係を、もう一度考え直してみたいと思います。主イエスは弟子たちを愛しておられて、その愛は、弟子たちの足を洗われたことで象徴されているように、十字架に向かわれるというところまで進んでいるのであります。一方、弟子たちの方は、主イエスを尊敬し信頼して従って来たし、37節でペトロが言っているように、場合によっては主イエスのためなら命をも捨てようとさえ思っているのですが、主イエスがどこへ向かおうとしておられるのか、よく分かっていないのであります。従って、主イエスへの愛は揺れているのであります。一人は既に、主イエスを裏切ろうとしています。しかし、主イエスは十字架を決意しておられて、やがて地上の命を終えて、弟子たちのところからは去って行かれます。その中で、主イエスのなさった全人類のための愛の業を弟子たちは伝えて行かなければなりません。そのためには、弟子たち自身の主イエスへの信頼と愛が確実にされなければなりませんし、弟子たちの間で互いに愛し合う兄弟姉妹の愛が強められなければなりません。主イエスは「わたしは道である」とおっしゃって、主イエスこそ父なる神に至る道であって、主イエスを信じておればよいことを示されたのでありますが、トマスもフィリポも、まだ理解できずにいます。そのような中で新しく持ち出されたのが、16節の「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」という話であります。

・加藤常昭先生はこの箇所の説教の中で、こういうことを言っておられます。13章の終わりから主イエスの別れの言葉が始まって17章まで続いていて、最後の17章は「祈りの言葉」になっているのだけれども、それまでの弟子たちへの話も祈りの言葉ではないか。主イエスは弟子たちの方を向いて話しつつ、同時に父なる神様の方を向いて祈っておられたのではないか、と言うのです。確かに、主イエスは、何とかして弟子たちに分かってほしい、何とかして自分を信じてほしい、そして地上の命を終わった後も、弟子たちが愛をもって仕え、働いてほしい、という願いの中で、弟子たちを助ける弁護者としての聖霊を、父なる神様が遣わして下さるようにと、祈っておられたのでありましょう。

・ですから、今日の箇所の鍵は「弁護者」と言われている聖霊であります。聖霊が、弟子たちの信仰と愛と守り導いて下さるのであります。当時の弟子たちだけではありません。今の弟子である私たちの信仰と愛を守り導いて下さるのも、聖霊の働きであります。

1.共にいる弁護者(真理の霊)

・そこで、16節以下の「弁護者」について述べられている所から見て行きたいと思います。ここで「弁護者」と訳されているギリシャ語は「パラクレートス」といいますが、口語訳では「助け主」と訳されていました。元々は「傍らに呼ぶ」という意味の言葉で、「慰める者」とも訳すことが出来ます。つまり、色々な意味で助けを必要としている人、孤独の中にある人、困難に直面している人、罪を犯して苦しんでいる人の味方となって慰め、弁護し、助けて下さる者であります。主イエスはこの世を去って行かれます。弟子たちは敵の中に放り出されます。弟子たちだけでは戦うことが出来ません。その時に、主イエスに代って弟子たちを慰め、励まし、助けて下さるのが「弁護者」であります。一時的に助けるだけではありません。「永遠にあなたがたと一緒にいる」とおっしゃっています。弟子たちの在世中だけでなく、終わりの日に神の前で審きを受ける時までも一緒にいて弁護して下さる、ということでありますし、更には、主イエスの直接の弟子だけでなく、彼らが去った後に次々と召される弟子たち(私たちキリスト者)ともずっと一緒にいて下さる、ということでありましょう。

17節では、「この方は、真理の霊である」と言っておられます。「真理」という言葉は、6節で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われた中にも出て来ました。キリストが父なる神に至る道であるのと同様に、真理の霊も私たちを父なる神のもとへ導くのであります。このあとの1526節を見ていただきますと、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」とありますし、1613節には、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とありますように、「真理の霊」というのは、主イエスがどのようなお方であり、何をして下さったのかを証しし、悟らせて下さるのであります。

1417節に戻りますと、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」とおっしゃっています。「世」というのは、キリストを信じない人々のことであります。信仰のない人たちは聖霊を見ようとも知ろうともせずに受け入れられないけれども、弟子たちは聖霊を知っているだけでなく、聖霊はあなたがたと共にいるのだと言われるのであります。聖霊はキリストを信じることと密接に結びついているのであります。信仰を与えられることと、聖霊が共にいることとは一つのことなのであります。つまり、聖霊が働くことによって信仰を与えられ、信仰が与えられると聖霊が共にいて働いて下さるのであります。

・では、弟子たちはいつから聖霊を与えられ、いつから確かな信仰を持つことが出来るのでしょうか。17節によれば、既に「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり」、と言われています。主イエスが共におられる間は、霊も共におられるのは当然でしょう。しかし、主イエスが地上におられなくなったらどうなるのでしょう。1820節では、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と言っておられます。主イエスが十字架にお架かりになって、地上を去られても、弟子たちはみなしごにはしておかないで、戻って来ると言われます。それは、聖霊として戻って来られるという意味でしょう。主イエスが天に昇られると見えなくなりますが、聖霊において、永遠に共にいて下さるのです。

・ここで「かの日」とはいつの日のことを言っておられるのか。色々な受け取り方があります。主イエスの復活の日とする者、ペンテコステに聖霊が降った日とする者、主がもう一度来て下さる再臨の日とする者があります。しかし、いずれにしても、主イエスが地上の命を終わられて主のお姿が見えなくも、みなしごとされないということですから、主イエスの働きが中断することはないのであって、主に代って聖霊の働き続くのであります。

2.父と子と私たち――聖霊による愛の働き

・むしろここで注目しなければならないのは、聖霊の働きによって弟子たちや私たちがどうなるのか、ということであります。19節では、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と言われています。主イエスは十字架にお架かりになって命を失われるのでありますが、復活して生きられます。それだから、私たちも生きることになる、というのであります。私たちは地上で生きています。そのことは信仰を持たず聖霊を与えられていない人も同じであります。しかし、ここで言われている「生きている」というのは、地上の命ではなくて、キリストが生きておられる復活の命であります。聖霊の働きによって、キリストの命に生きる者とされる、ということであります。6節の「わたしは道であり、真理であり、命である」というところで、「命」とは、神様との生きた関係のことだと申しました。聖霊によって与えられる新しい命とは、神様との生き生きとした関係に生きる命のことであります。20節では更に、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と言われています。この時弟子たちは、主イエスがこれからどうなるのか、父なる神様と主イエスとの関係はどうなのかということが、はっきり捉えられていませんでした。しかし、聖霊が働くと、キリストが父なる神の内におられ、弟子たちがキリストの内にしっかりと捉えられていることが、はっきりと分かるようになる、と言われているのであります。こうして私たちと父なる神様との関係は、主イエス・キリストを通して、しっかりと結ばれるようになるのであります。

・続いて21節は、愛の掟の話になります。今日の説教の冒頭で、13章から14章にかけての主イエスの話は、あっちこっと飛んでいて、どうつながっているのか分かりにくいということを申しましたが、今見てきた聖霊の働きを知ることによって、つながってくるのではないでしょうか。21節ではこう言われています。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす。」――聖霊の働きというと、何か神秘的な力が働くことのように受け取り勝ちでありますが、ここに言われているように、聖霊が働くところには、愛の関係が結ばれるということであります。ここで「わたしの掟」と言われているのは、冒頭でも申しましたように、1334節で言われていた「新しい掟」のことで、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということであります。ここでは弟子たちの間での愛のことが言われています。聖霊の話の中で、弟子たち相互間のことは語られなかったように見えますが、実は17節で、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」と言われたところで、聖霊が弟子たち(私たち)の内にいるということが言われていて、聖霊が「わたし」とキリストとを結びつけるだけでなく、わたしたち相互の間を結びつけるものでもあることが述べられていたのであります。つまり、主イエス・キリストを信じて主を愛するということは、聖霊において、主の愛の掟を守る者とされるということであり、それは父なる神様との愛の関係が結ばれることであると同時に、弟子たち同士の間(キリスト者相互の間)を、聖霊によって愛の関係に結ばれるということでもあるのです。

・愛の関係というのは、主イエスが足を洗うことで示されたように、互いに仕え合うということであり、主イエスが十字架を担って罪の赦しの業をなさったように、赦し合う関係になるということであります。聖霊が働く所には、主の赦しの愛を受け入れる信仰が生まれ、父なる神との関係が修復されると共に、兄弟の間、隣人との間で、主の赦しの愛に倣う赦し合いの関係が結ばれるということであります。私たちは人を審くことは簡単にしますが、人を赦すことはなかなか出来ません。自分の名誉につながるような善い事は喜んでしますが、自分の名誉が傷つけられるようなことは赦せません。しかし、主が求め給う愛とは赦しの愛であります。そして、主を信じている、主を愛しているということと、そのような赦しの愛は別々ではあり得ないのであります。聖霊が働くならば、主を信じる、主を愛するということと、兄弟や隣人を愛し、赦すということが起こるのであります。もしまだ、赦し得ない関係があるとしたら、聖霊の働きを祈り求めなければなりません。

3.愛する人は言葉(掟)を守る

22節以下には、主イエスを裏切ったイスカリオテとは別の、もう一人のユダが質問したことが取り上げられています。ユダは、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と尋ねました。信仰を持っていない人に御自分を示されないのはなぜか、という質問です。私たちも関心のある質問です。私たちの周りには未信者の方がたくさんおられます。そういう方々に、主が聖霊において直接出会って下さって、御自身をお示し下さったらと思います。しかし、主イエスは、この質問に直接お答えになりませんでした。主イエスが復活された後、裏切ったペトロと出会われて、もう一度羊を飼う弟子とされた場面で、ペトロが横にいる弟子について、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と質問したところ、主イエスは「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるのか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われました(ヨハネ2120以下)。その場面を思い出します。私たちが周りの人の信仰のことを配慮しなくてもよいということではありませんが、それよりも自分自身の信仰のことをまず問わねばなりません。

・主イエスは2324節でこう答えておられます。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがた聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」――ここに言われていることは周りの人にも適用できることですが、何よりも私たち自身に適用できることであります。21節では、主の掟を守る者は主イエスを愛する者であると言われていたのに対して、ここでは、主イエスを愛する人は、主イエスの言葉(掟)を守ると言われています。つまり、主イエスを愛することと、隣人を愛することは一つのことであって、どちらが先行するというようなことではない、ということであります。むしろ、<あなたは主イエスと隣人を愛しているのか>と問われているのであります。そして主イエスは今日も、聖霊において私たちに十字架の赦しの愛を働きかけていて下さり、私たちがそれに応えて、主と隣人を愛する者になることを待っておられるのであります。

結.かの日は、礼拝の中で

20節で、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と言っておられました。「かの日」とは、最終的には主の再臨の日と言えるかもしれませんが、主イエスは既に十字架に架かり、復活して下さり、ペンテコステ以来、教会に聖霊を送って下さっています。ですから、「かの日」は今すぐにでも来るのであります。主は既に父なる神の内におられますが、その主は聖霊において私たちの内にも来て下さって、私たちも主の愛を知ることが出来るようにされ、私たちも主を愛し、隣人を愛し、赦す者とされるのであります。「かの日」は、このような礼拝において、御言葉を聴く中で来るのであります。主はそのようにして、今も、救いの業を教会の歴史の中で進めておられるのであります。

・感謝して、祈りましょう。

祈  り

・主イエス・キリストの父なる神様!

・十字架に向かおうとされる主イエス・キリストの御言葉を通して、あなたの深い愛に触れることを許されて感謝いたします。

・私たちは、この愛を見ることを怠って、人を裁いたり、躓かせたりしております。どうか、お赦し下さい。

・どうか、聖霊の助けによって、心から主を信頼し、隣人を愛し、主の言葉を守る者とならせて下さい。

・まだあなたとの真実の出会いに至っていない方々に、聖霊が働いて下さり、あなたの愛の交わりの中に入れて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年1月17日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書14:15-24
 説教題:「聖霊が共にいる」
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