「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとにいくことができない。」
                 
(ヨハネによる福音書146

 主イエスを捕らえようとするユダヤ人たちの圧力が強まる中で、主イエスは弟子たちの一人が裏切ろうとしていると断言され、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と言われたので、弟子たちは不安になって、ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と問うた。
 それに対して主イエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われ、「わたしの父の家には、住む所がたくさんある。・・・あなたがたのために場所を用意しに行く」と告げられ、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われるのであるが、弟子たちはまったく理解できず、トマスが「主よ、どこへ行かれるのかわたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と問い直した。これに対して主イエスは標記のように語られた。主は、良い道のあり場所を示したり、道を切り開く方法を伝授されるのではなく、御自身を天国への道そのものとして提供なさるのだ。天国に至る道は色々なルートがあるのではなく、主が御自身を投げ出して開かれた十字架の道しかない。主イエスによって罪から自由にされることこそ「真理」であり(ヨハネ83132)、神との生きた関係が回復されることこそ「命」に生きることなのである(ヨハネ635)。
 更に主は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と語られた。「知る」とか「見る」とは、知的に理解したり、感覚器官によって認識することではなく、相互の人格的な交わりを通して理解することを意味する。礼拝において、御言葉を通して、主イエスと交わりをもつことで、父なる神を知り、見ることが出来るのである。それだけでなく、世界に向けての証しという「もっと大きな業」(1412)を行なうようになると約束して下さっている。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年1月10日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書14:1−14
 説教題:「神のもとへ行く道」
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