序.主よ、どこへ

・今日与えられておりますヨハネによる福音書14章からは、主イエスが弟子たちとの最後の食事の席で語られた「別れの説教」と言われていて、16章まで続いております。しかし、よく見ると、主イエスと弟子たちの対話は13章でイエス様が弟子たちの足を洗われた後から続いているのでありまして、イスカリオテのユダが裏切りのために席をはずした直後の1331節以後を「別れの説教」と見ることも出来るのであります。どこからが「別れの説教」なのかということ自体はあまり大切なことではありませんが、今日の箇所は突然始まっているのではなくて、13章と続いていることに注目しなければなりません。

11月に1336節以下の箇所で説教をいたしましたが、そこには、ペトロが言った、「主よ、どこへ行かれるのですか」という問いかけがありました。これはラテン語で「クオ・ヴァディス・ドミネ」と言って、小説の題名にもなっているというお話をしました。ペトロがなぜ、「主よ、どこへ行かれるのですか」というような質問をしたかと言うと、その前の33節で主イエスが、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」とおっしゃったからであります。このとき既に、主イエスを捕らえて亡き者にしようとする人たちの圧力が迫っていることを、弟子たちも感じていました。それで、ペトロは「あなたのためなら命を捨てます」とまで言いました。しかし、弟子たちは、これから何が起ころうとしているのか、主イエスが何を目指しておられるのか、どこへ行こうとされているのか、全く理解していなかったのであります。

・今日の141節から14節までの箇所の中で、最も有名な言葉は、6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」という御言葉だろうと思います。「今月の聖句」にも取り上げておきました。この主イエスの御言葉を引き出したのは、5節の「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」というトマスの問いでありました。このあと、フィリポも8節で、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言っております。弟子たちは皆、主イエスを理解出来なかったのであります。そして、主イエスがどこか自分たちの手の届かない遠くへ行ってしまわれるのではないか、自分たちとの関係が切れてしまうのではないか、もうこれまでのように、困ったときにおすがり出来なくなってしまうのではないか、ということを恐れているのであります。

・私たちもまた、大きな困難に出遭ったとき、手に負えないような問題にぶつかったとき、神様に祈り求めても具体的な返事が返って来なくて、不安になることがあります。現代社会の病んだ姿を日々見せつけられていて、その中で教会も殆ど力を発揮できないでいるかに見える現状を見ていると、主イエスはどうしておられるのか、神様は本当におられるのだろうか、私たちが信仰を持つことにどれだけ意味があるのだろうか、などと思ってしまうのであります。「主よ、どこへ行かれるのですか」という弟子たちの問いは、私たち自身の問いでもあります。

・フィリポの問いに対して、主イエスは9節で「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」と、嘆きとも、叱責とも受け取れる言葉を語っておられますが、そのあとで、主は諦めずに、懇切に説明を続けておられます。私たちも主イエスから見るならば、弟子たち以上に物分りの悪い者たちでありましょう。しかし、主イエスは諦めることなく、今日もこうして、私たちに御言葉をもって臨んで下さっています。襟を正して、ここで語られている主の言葉を聞いて参りたいと思います。

1.心を騒がせるな

・まず、1節から3節までのお言葉ですが、ここは、11月に行なった召天者記念礼拝の時に、少し先回りして取り上げさせていただきましたし、その後にペトロの「クオ・ヴァディス・ドミネ」の箇所を取り上げました時にも触れましたが、主イエスは「心を騒がせるな」とおっしゃって、その後、<父の家には住む所がたくさんあって、そこにあなたがたのために場所を用意した上で、また戻って来て、あなたがたを迎えるのだから、あなたがたと私とはずっと一緒にいることになるのだ>ということをおっしゃったのであります。これは、主と別れなければならないのではないかと不安に思っている弟子たちにとって、そして、本当に主イエスは現実の問題を解決して下さるのだろうかと疑問に思っている私たちにとって、大変慰めになる、力強いお言葉であります。

・今日は、それに加えて、1節の後半の言葉に注目してみたいと思います。そこでは、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言っておられます。ここでは、神様と主イエスを「信じなさい」という命令の言葉が重ねられています。しかし、原文は、どちらも「あなたがたは信じている」と、現在形に訳すことも出来るのであります。欽定訳と呼ばれる英国の権威ある翻訳では、前の方を現在形で訳し、後の方を命令形に訳しています。そうすると、こうなります。「あなたがたは神を信じている。(そうであるなら)わたしをも信じなさい」。弟子たちは主イエスがこれからなさろうとしておられることが分からなくて、信じられなくなって、不安になっている。だけど、主イエスは、<あなたがたは神様を信じているではないか>、と言われるのであります。弟子たちは何を信じてよいか、分からなくなって、うろたえています。その彼らに、主イエスは神様への信仰を思い起こさせて、更にその信仰を、主イエスを信じる、より確かな信仰へと引き上げようとなさっている、と受けとめることが出来るのであります。信仰というのは、疑い出せば、どんどん不安に陥ってしまいます。しかし、私たちの消えそうな信仰であっても、「私を信じなさい」という主イエスの御言葉を聞くことによって、強められ高められるのであります。なぜなら、主イエスが父なる神への確固たる信仰をもって、事を進めておられるからであります。主イエスは私たちが神との信仰の関係を失わず、永遠に神と共に住むことが出来るために、自らが確かな信仰をもって十字架の御業をなされて、私たちが住む場所を用意しに行って下さるのであります。

2.わたしは道である

・主イエスはそのような約束を語られたあと、4節で、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われました。弟子たちは、主がどこへ行かれるのか分からないと思っています。しかし、主イエスは、行き先ばかりでなく、行く道までも知っているはずだとおっしゃるのであります。主イエスはこれまでに、何度もなさろうとしておられることを弟子たちに教えて来られました。父なる神との関係についても述べて来られました。十字架と復活のことも、間接的に予告して来られました。

・ところが、その主イエスの言葉に対して、トマスが5節で、こう言います。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」―弟子たちの中でトマスが特別に鈍いわけでもありませんし、特別に疑い深いわけでもありません。トマスは弟子たち皆を代表して問いかけたと言ってよいでしょう。「道」という言葉は、主イエスが4節で初めて使われた言葉でありますが、トマスはその主の言葉に引き込まれるようにして、今、「どうして、その道を知ることができるでしょうか」と問いかけます。

・それに対する主イエスのお答えが、「わたしは道であり、真理であり、命である」というお言葉であります。

・「わたしは道である」とおっしゃいます。主イエスは、<どこそこに、良い道がある>とか、<こうすれば、道が開かれる>というようなことをおっしゃいません。主イエスはどこかにある道をお示しになるのではありません。新しい道を切り開く方法を伝授されるのでもありません。主イエスが<道そのもの>なのであります。主イエス自身が天国への道なのであります。十字架の主イエスが天国への道を開いて下さったのであり、この主イエスの道を歩むことによって、父なる神の家、永遠の憩いの家に住むことが出来るのであります。

・私たちが天国に至る道というのは、色々なルートが用意されている、というわけではありません。山の頂上に至る道であれば、色々なルートがあるかもしれません。どのルートをとっても、行く先は同じです。天国に行く道も、色々なアプローチがあっても良いような気がいたします。色々な宗教が説いていることの到達点は同じではないか、という受け取り方があります。道は一つしかないような偏狭なことを言うから、宗教間の争いになるのであって、目指すところは一緒なのだから、互いに認め合ったらいいのではないか、という考え方であります。しかし主イエスは、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃっているように、天国に至る道は主イエスしかないのであります。天国に入るとは、罪が赦されることです。十字架の道しか、私たちの罪が赦される道はありません。主イエスが単なる道の案内者であるなら、他の人も道を示すことが出来るでしょう。しかし、主イエスは道を指し示すだけのお方ではありません。主イエス御自身が、その身を十字架の上に投げ出して、自ら道となって下さったからこそ、天国への道が開けたのであります。

・では、「わたしは真理であり、命である」とおっしゃっているのはどういう意味でしょうか。「真理」というのは、一般的には、事物の本質を意味しますが、聖書では一般的な意味での真理ではなくて、特にヨハネ福音書では117節に、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」とあるように、真理とは神様の啓示に関わることであり、また、8章では、主イエスが「わたしの言葉にとどまるならば、…あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(83132)とおっしゃっているように、真理とは主イエスの御言葉のことであり、罪からの自由へと解放するものとして語られていますから、ここと同じく、真理とはイエス・キリスト御自身のことと言ってよいわけであります。

・また、「命」というものも、聖書においては、自然的な生命のことではなくて、神との生きた関係をあらわすものであります。ヨハネ福音書の中でも、主イエスは「わたしが命のパンである」(635)とおっしゃいました。それは、罪によって死んでいる私たちと神様との命の関係を、主イエスによって、永遠の命(神様との永遠の関係)へと甦らせて下さるとの約束であります。ですから、命とはイエス・キリストそのものだと言ってよいのです。

・ですから、ここで、「わたしは真理であり、命である」とおっしゃっているのは、「わたしは道である」とおっしゃったことの言い換えであって、<人々が一般的な意味で真理を求めたり、命を求めたりしているけれども、イエス・キリストによって罪から解放されて、天の父のもとへ行くことこそ、真理に到達することであり、真の命に生きるということなのだ>、ということを、このような表現で語っておられるのであります。ですから、ここで聞かなければならないポイントは、父の家に入って、真理に到達し、命を得るためには、主イエス・キリストという道に自分を委ねるしかないということであります。

3.父を見る

・続いて7節で主イエスは、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」とおっしゃいます。ここには、「知る」「見る」という言葉が出て来ます。更にこの後のフィリポとの対話の中で、「分かる」「信じる」という言葉も出てきます。ここで知っておかなければならないことは、「知る」とか「分かる」ということに対するユダヤ人の感覚であります。ユダヤ人にとって「知る」とか「分かる」ということは、目や耳という感覚器官を通して知るということではないし、頭でもって理解するということでもなくて、相互の交わりを通して認識すること、互いに関わりをもつことを通して理解することを意味します。ですから、神様を知るという場合も、知識において、理念において知るということではなくて、歴史における神様との人格的な関わりを通して知るのであり、また、神様を礼拝するという生き生きとした関係を持つ中で神を知るのであります。「見る」とか「信じる」ということも、ここでは同じような意味で使われているとみてよいと思われます。

・トマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言ったのに対して、主イエスは、<私は道であり、あなたがたはその私と人格的な交わりをしていて、私を知っているのだから、父なる神様を知ることになるし、既に父を見ていると言ってもよい>とおっしゃっているのであります。

・ところが、フィリポは主イエスのおっしゃることがまだ理解出来なかったようで、8節で、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言います。フィリポは、主イエスと父なる神との関係がよく理解出来ていないのであります。そこで、主イエスは、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」とお叱りになるのですが、そこには、何とか分かってほしいという、主イエスの深い愛が込められているように思います。ですから、言葉を続けられます。「わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」911a節)――ここには、主イエスと父なる神様が一体である、同じ本質を持つお方であるということが、言葉を尽して語られています。このことは、これまでも主イエスに敵対するユダヤ人たちに対して何度か語って来られたことでありますが、弟子たちも分かっていなかったのであります。しかし、このことは、ヨハネ福音書が最も伝えたかった重要な教理であります。

・私たちはどうでしょうか。私たちも、ペトロやトマスやフィリポと同じように、「主よ、どこへ行かれるのですか」、<これから先、私たちはどうなるのでしょうか>と、心を騒がせております。私たちはまだ、父の家(天国)を見ていません。神様のお姿を見ることも出来ません。しかし、私たちは聖書によって主イエスを知ることが出来ます。主イエスのお姿をこの目では見ることは出来ませんが、主イエスの御業を知り、御言葉を聞くことが出来ます。そして、主イエスとの人格的な交わりが出来るのであります。そうであれば、主イエスと一体である父なる神様も見ることが出来るし、交わりを持つことも出来るのであります。礼拝とは、正に、主イエスの御業を覚え、御言葉を聞き、人格的な交わりを持つ場であって、それは同時に、父なる神との交わりの場でもあります。

結.もっと大きな業

・最後に、12節の御言葉に耳を傾けたいと思います。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い。また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

・ここで「わたしが行う業」と言われているのは、主イエスがなさった奇跡の業をも含めて、十字架に至るまでのすべての業のことでありましょう。それらはまた、10節に述べられていたように、父なる神の業でもありますが、それらは、単に力を示し、人を驚かすだけの業ではなくて、神がどのように人を愛し、人を救おうとしておられるかを証しする業でありました。その証しの業を、主イエスを信じる者も行うようになる、と言われるのであります。そして、「もっと大きな業を行うようになる」とも言われます。主イエスによって始められた業が、弟子たちによって継続され、もっと大きく発展する、ということであります。世界に向けて、証しの業・宣教の業は大きく広がって行くのであります。私たちもその「もっと大きな業」に参加しているのであります。

・私たちは、地上における日々の歩みの中で、自分自身のことにおいても、教会のことについても、先が見えなくて、心を騒がせることが多いのであります。しかし、ここに主イエスという道が備えられています。その主イエスと私たちとは、御言葉において、人格的な交わりを与えられています。そうであれば、私たちの行く先は、はっきりしています。必ず父の家に迎えられるのであります。そして、その日まで、私たちも主イエスと共に、大きな証しの業を続けることが出来るのであります。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」――心を騒がせがちな私たちに向かって、主イエスは今日も、こう語りかけて下さっています。  ・祈りましょう。

祈  り

・道であり、真理であり、命であり給う主イエス・キリストの父なる神様!

・主イエスの御言葉と御業をもって、あなたを知り、あなたの深い愛を受けることを許されて、感謝いたします。

・行く先を見失い、心を騒がせることの多い不信仰なものでありますから、どうか、絶えず御言葉をもって、臨んで下さい。そしてどうか、私たちのような者をも、あなたの御業を証しするものとならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年1月10日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書14:1-14
 説教題:「神のもとへ行く道」
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