また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
                 
(ペトロの手紙一 2:12
 ここで「立派」とは、この世の価値基準によって計られる立派さではなく、すぐ前の11節で、「肉の欲を避けなさい」と勧められている生き方、即ち、この世的な価値基準や習慣に引きずられず、神の御心に逆らわない生き方のことである。そのようなキリスト者の生き方は、私たちの周りの異教徒の人々から見れば異質で、「悪人呼ばわり」までは行かなくても、変人呼ばわりはされるかもしれない。だが、「訪れの日」即ち、キリスト再臨の日(または、神が異教徒の人々に出会って下さる日)には、キリスト者を見る彼らの目が変えられ、神の御心に従っているキリスト者の生き方を理解出来るようになり、神をあがめるようになる、と言う。私たちの普段の生活はとても「立派」とは言えず、それ自体が異教徒の人々を救いに導くわけではないが、私たちが主に導かれつつ礼拝生活を続けているのを周囲の異教徒たちが見ていて、やがて神ご自身が、彼らに出会われる時、神をあがめるようになるのだ。私たちが礼拝生活を続けていること自体が、神の働きであり、それが「立派な生活」の見えるしるしとされるのだ。
 以上の基本的な勧めに続いて、具体的な勧めとして、「人間の立てた制度に従いなさい」と述べて、統治者に服従することを勧め、また、召し使い(被使用人)は、無慈悲な主人(雇い人、上司等)にも従うことを勧める。このような態度は、この世と妥協的で、世の権威から解放された自由人としてのキリスト者らしくないようにも見えるが、筆者は主イエス御自身が、この世の統治者による裁きに服して、十字架にかかられたことこそ、神の御心に適うことであり、私たちの模範であると説く。私たちが召されたのは、このキリストの足跡に続くためであり、それが罪を赦されて救いに至り、キリストの命をいただいて、真の自由人として生かされる道なのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2010年1月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 2:11−25
 説教題:「神の僕として」
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