序.異教徒の間で

・明けましておめでとうございます。一年の最初の主の日に、神様を礼拝することが出来、御言葉に導かれて一年の歩みを始めることが出来ますことを、共々に感謝いたしたいと思います。

・本年の目標は、週報に書かれていますように、『救いの恵みを継承する』とすることを委員会で決めました。また、主題聖句は、使徒言行録2032節の「今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです」を与えられました。<なぜ、このような目標を掲げることにしたのか>、ということについては、定期総会が行なわれる131日の礼拝で、主題聖句に導かれて、詳しくお話したいと考えていますが、簡単に申しますと、私たちが与えられている「救い」の恵みを、まだ受けていない人々に、また次の世代の人たちに受け継いでいただくことを目標にする、ということですが、それは言い換えれば、主題聖句にあるように、「恵みの言葉」即ち福音を受け継いでいただく、ということになるのであります。その具体的な方策については、これから皆で祈りつつ考えていかなければならないわけですが、何よりも先ず、私たち自身が御言葉をよく聴き、そこから恵みを受けることから始めなければなりません。それは正に、昨年の目標であった「御言葉に聞き、伝える」ということでもあるのですが、このように礼拝において御言葉の恵みに与るということから始めるほかないのであります。

・今日は、隔月に学んで来ました、ペトロの手紙を与えられていますが、実は、今年4月からは、説教のテキストを日曜学校のカリキュラムに合わせて行こうと考えておりまして、(その理由は別の機会にお話しすることにいたしますが、)ペトロの手紙は今日で一旦、中断することになります。

・まだ2章なのに、ここで中断するのは、この手紙の一部をかじったにすぎないことになるのでありますが、ここまでに筆者が伝えたい基本的なことは書かれていまして、ここからは具体的な勧めに入ります。今日はその部分から、一年の最初の勧めの御言葉を聴いて、一応の締めくくりとしたいと考えております。

・これまでにもお話しして来ましたように、この手紙は小アジア地域の異教世界の中にある教会の信徒たちに宛てられたものと考えられていて、その点で、日本のキリスト者の状況に重なるのであります。ですから、私たちへの勧めとして聞きたいと思います。

・冒頭に、愛する人たち、あなたがたに勧めますとあります。この「愛する人たち」というのは、原語では「愛されている人たち」ということでありまして、<神に愛されている人たち>という意味や<教会の中の他の人々に愛されている人たち>という意味が含まれているのであります。これは単なる儀礼的な呼びかけではありません。異教世界の中にあって、キリスト者は孤立無縁に感じられることがあるかもしれない。そのような人たちに向けて、<あなたがたは、神と教会の人たちに愛されているのですよ>、ということを想い起こさせているのであります。「勧めます」という言葉は、「慰めます」とも訳せる言葉が使われています。以下に書かれていることは、いずれも厳しい勧めであります。しかし、それらは単に厳しいだけの、冷たい勧めではなくて、慰めに満ちた温かい勧めなのであります。

11節、12節には、基本的な勧めが語られています。そして13節以下には、人間が立てた制度との関係について、18節以下には、召し使いとして仕えている主人との関係について、更に3章に入ると、夫婦の関係についてというように、具体的な勧めを述べています。今日は、基本的な勧めを中心に、具体的な勧めの要点にも触れたいと思います。

1.肉の欲を避けよ

・まず、11節では、いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい、と勧めます。この部分は、召天者記念礼拝の時に、『天の居場所』という題でお話しした説教の中で触れました。キリスト者の国籍は天にあります。天にこそ本当の居場所があるのであって、地上では旅人で、仮住まいの身であります。しかし、地上の生活を軽視して、良い加減に生きてよいということではありません。大事なことは、汚れた地上を旅しつつ、主イエスとの交わり・神様との関係に留まりつつ生きることであります。地上の生活をする時には、必ず肉の欲が問題になります。肉の欲というのは、性的な欲望のことだけを言っているのではありません。「肉」とは「霊」の反対語であります。霊的なものに逆らうこと、神様に逆らうことが「肉の欲」であります。私たちは、自分では神様に逆らっているつもりはありません。むしろ、神様に仕えているつもりでいます。まして、ここに「魂に戦いを挑む」と言われているような積極的な反抗はしていないつもりであります。しかし、いつのまにか、与えられた地上の生活を、自分の楽しみやこの世的な価値基準を優先して用いてしまうとか、対人関係において、自分の面子や気持ちを大事にして、相手の心情を考えなかったり、神様の御心を尋ねることを忘れてしまっていることがあります。それが肉の欲に引きずられて神様に反抗すること、魂に戦いを挑むということであります。異教社会にあっては、どうしても、この世的な判断とか習慣に引きずられてしまいます。だからこそ、そのような生き方を避けるように、勧めているのであります。そのような生き方を、独りで戦うことは出来ません。キリストと共に戦うのであります。具体的には、キリストの体なる教会の人々と一緒に戦うのであります。

2.立派な行い

・次に、12節では、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります、と言っております。

・ここで「立派に生活する」とか「立派な行い」と言われているのは、この世の人々の価値基準から見て「立派」ということではありません。裕福な生活をするとか、高い地位を得るとか、大きな業績を上げるということではありません。聖人のように、何の過ちもしないということでもありません。ここで言う「立派」とは、11節で勧められていたような、肉の欲を避ける生き方、この世的な価値基準や習慣に引きずられない生き方のことであります。

・「そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」と言います。当時、異教徒の人がキリスト者を悪人呼ばわりするということがあったようであります。ローマが大火になったとき、皇帝ネロが、それをキリスト者の仕業だと言ったことは有名であります。今の日本では幸いなことに、キリスト者が悪人呼ばわりされるということは余りありませんが、近所づきあいが悪いとか、親戚づきあいが悪いといったことは言われるかもしれません。日曜日に行なわれる運動会や授業参観には行かないとか、日曜日のゴルフには大事な取引先であっても付き合わないといったことは、変人呼ばわりされるかもしれません。

・しかし、そのように変人呼ばわりしていた人が、キリスト者の立派な行いを見て、「訪れの日に神をあがめるようになる」というのであります。「訪れの日」というのは、神様が人間を訪れて下さる日、つまりキリストの再臨の日、世の終わりの裁きの日、というのが一般的な解釈でありますが、もう一つの解釈として、私たち一人一人のこの世における歩みの中で神様が訪れて下さる日のことだと考える人もいます。いずれにしましても、「訪れの日」には、主が、キリスト者だけを訪れて下さるのではなくて、キリスト者を悪人呼ばわりしたり、変人扱いしていた人をも訪れて下さって、彼らがキリスト者の立派な行いをよく見て、神をあがめるようになる、と言うのであります。「立派な生活」とか「立派な行い」についての世間一般の人の見方が変わるのであります。キリスト者の立派な行いが、彼らの救いをもたらすのではありませんが、彼らも、キリスト者の行なっていたことを理解出来るようになり、そのような行ないに導いておられる神様を賛美するようになる、ということであります。そういう意味で、私たちの肉の欲を避けた生き方が、不十分ながらではあっても、未信者の人が神を賛美するようになるための、きっかけを与える位の役に立つ、ということであります。逆に言うと、私たちが妥協的な生き方をしていたのでは、その時は未信者の人とうまくやれたように見えたとしても、彼らが神を賛美するようになるきっかけを失うことになる、ということであります。

・私たちは皆、異教徒や信仰に関心のない人たちに囲まれています。夫や妻が未信者の方がおられます。子供が信仰を受け継いでいない場合も多いでしょう。親・兄弟が未信者の家庭も多いでしょう。自分自身もまだ、洗礼に踏み切れないままの方もおられるでしょう。洗礼を受けてキリスト者になってはいるものの、礼拝生活が途絶えがちの方もおられます。いずれにしても、周囲の未信者の人たちは、私たちが礼拝に出かけるということ自体を見ています。そして、私たちの普段の生活も見ています。それは窮屈なことであるかもしれません。いっそ、キリスト者でない方が楽だと思えるかもしれません。周囲の未信者の人たちから「あの人は立派だ」などという評価はとても貰えないような気がいたします。しかし、そういう私たちをも用いて、周囲の未信者の方々が神様をあがめるようになるきっかけを、神様が作られるのであります。神様はすべての人を救いに入れようとなさっていますから、とても立派とは思えない私たちを通して、御業を進められるのであります。「立派な生活」とか「立派な行い」とは、何の落度もないような、聖人君主のような生活というのではありません。物事の判断の基準が違うということであります。その人の中に神様が働いておられるということであります。礼拝に出かけるということ自体が、神様の働きであります。それが「立派な生活」の見えるしるしであります。そこから、日常における物事の判断や態度も変わって来るのであります。

3.従う生活

・このような、異教徒の中にいるキリスト者に対する具体的な勧めが13節以下であります。13節から17節は(先程も申しましたように)、人間が立てた制度との関係についての勧めであります。1314節で、こう言っております。主のために、すべての人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。

11,12節で、肉の欲を避けた立派な生活をするという基本的な勧めをした後で、具体的な勧めの最初に、なぜ「人間の立てた制度」や政治的な統治者である皇帝や総督のことが出てくるのか、疑問に思われるかもしれません。しかし、考えてみると、この世というのは、法的な制度・秩序によって、正義が行われ、平和な生活が保たれているのであります。キリスト者は、この世では旅人であるからと言って、人間の立てた制度・秩序から逃れられるわけではありません。 

・この箇所と同じ主旨のことを述べているのがローマの信徒への手紙の13章にあります。こう言っております。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」(ローマ1312)パウロは、「神に由来しない権威はない」と言っております。人間の立てた秩序であろうと、神の権威に由来しない秩序はないのであります。ローマ皇帝や総督と言えば、当時のキリスト者にとっては好ましくない統治者でありました。しかし、ペトロの手紙も、そのような統治者に「服従しなさい」と勧めるのであります。

・これは、現状に妥協的な態度のように思えます。キリスト者は、もっと人間の立てた制度や統治者に対して批判的でなければならないのではないかと思いたくなります。16節を見ても、自由人として生活しなさい、と教えています。私たちはこの世の権威や制度から解放された者であり、それらのものを絶対化してはいけないのです。しかし、16節後半では、その自由を、悪事を覆い隠す手立てとせず、神の僕として行動しなさい、とも言っております。ここが大事であります。私たちも、しばしば政治批判を致します。政治を批判的に見ること必要なことです。しかし、自分はどうなのか、ということが問われなければなりません。自分の足元の家庭の秩序はどうなっているのか、自分の職場の秩序はどうなのか、教会の秩序はどうなのかが問われます。私たちはそこで、横暴になったり、人を軽蔑したり、悪口を言ったりしているのではないでしょうか。家庭にしろ、職場にしろ、教会にしろ、国家にしろ、神様が備えてくださったものであります。そこには自分の意に添わないところがあるにしろ、まずは謙遜に、その秩序に従うべきなのであります。13節の初めに、「主のために」と言っていることを見落としてはいけません。口語訳では「主のゆえに」と訳されていました。私たちが、人間の立てた制度・秩序に従わなければならない根拠は、「主のゆえに」なのであります。主イエスは、この世の統治者である皇帝と総督の権力に従って、裁かれ、殺されました。彼らが問題のない統治者だから従われたのではありません。彼らも神の支配下にあったからであります。この世の権威者に従うという形で、神に従われたのであります。

18節以下には、主人の下で召し使いとされているキリスト者たちへの勧めが語られています。中には無慈悲な主人がいて、苦しい目に遭わなければならないキリスト者がいたようであります。しかし、19節では、不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです、と言っております。私たちも、企業など何らかの組織に属することがあります。そこで自分の思い通りにいかないと、自分のことは棚に上げて、上司が悪い、経営者が間違っていると批判しがちであります。しかし、その前に自分を顧みるべきであります。20節でこう言っております。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。――もし自分に問題があるなら、苦しまなければならないのは当然で、苦しんでいることを誰も誉めたりはしません。神様の御心に従う正しいことをしていて苦しみを受けるなら、それを耐え忍ぶことは、神様の御心に適うことなのであります。ただ<長いものには巻かれろ>と言っているのではありません。神の僕として、神の御心を問い、それに従うことが大切なのであります。そこをいい加減にして、他人のせいにしたり、人を批判しても、キリスト者としての証しにはならないのであります。国家や統治者や上に立つ者に盲目的に従えということではありません。まず、神の御心を尋ね、耐え忍ぶべきは忍んで従うのです。それが証しになるのであります。

結.キリストが模範

・それにしても、ここで勧められていることは、体制に順応しろと言うことではないか。16節で言われていたように、キリスト者は既存の権威には囚われない自由な立場をとるべきではないのか。日本キリスト教会は「改革派」と言うではないか。古い制度や権威を改革するために戦うべきなのではないか。それなのになぜ、悪い制度や秩序にも従わなくてはならないのか、無慈悲な主人に仕えなければならないのか。――そういう疑問が改めて湧いて来るかもしれません。

そういう疑問に対して、筆者は21節以下で、改めてキリストのことを想い起こさせます。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くように、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。2124節)ここでは、<キリストを模範としてその足跡に続け>と言われています。それに対しては、<私はキリストのように偉い人間ではないし、我慢強い人間でもない。とてもキリストと同じような生き方は出来ない>という声が返って来そうであります。しかし、21節の初めで、「あなたがたが召されたのはこのためです」と言っております。キリスト者は、必然的にキリストの足跡に続くようにと召されたのであります。それがキリストの救いに与る道、罪をいやされる道であり、キリストの命をいただく道なのであり、真に自由な人として生かされる道なのであります。

・もちろん、私たちがキリストと同じ十字架を負えるわけではありません。むしろ、キリストの足跡から大きくずれることの方が多い者であります。けれども、私たちはキリストの僕とされたのであります。あるいは今、キリストの僕へと招かれているのであります。罪から解放される本当の自由へと招かれているのです。

・最後に25節でこう言われています。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。神様は今年も、私たちをキリストの羊として、神の僕として歩むことを許してくださっているのであります。ここに招かれた者がすべて、喜んで主の御跡を歩むものされるよう、祈りたいと思います。――祈ります。

祈  り

・魂の牧者イエス・キリストの父なる神様!

・年の初めに、私たちが歩むべき道をお示しくださいましたことを感謝いたします。

・迷い易く、勝手にあなたの許から離れそうになる私たちを、どうか今年も、あなたの僕として導き続けて下さい。

・この世に生きるための労苦が待ち受けているかもしれませんが、どうか、耐え忍ぶ勇気と力をお与え下さって、曲りなりにも主を証しする者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2010年1月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 2:11−25
 説教題:「神の僕として」
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