「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」              (ルカによる福音書2:29,30

 律法に定められた清めの期間(40日)が過ぎると、幼子イエスは両親によって神殿に連れて来られ、律法の規定(貧しい家庭の場合は鳩を二羽献げる)に従って、主に献げられた。イエスは神の子であるが、ユダヤ人として生まれた人の子の一人として、律法に従って生き始められた。イエスは実際には神殿に仕える祭司になるのではなく、大工の子として育てられるが、その生涯は、正に神に献げられることになるのである。
 神殿では、二人の人物が幼子を祝福した。シメオンは、「イスラエルの慰め」を待ち望んでいた一人であるが、武力や権力による回復を期待するのではなく、そのあつい信仰のゆえに、ひたすら祈りつつ、神が現れるのを待ち望んでおり、聖霊によって、メシアに会うまでは決して死なないとのお告げを受けていた。女預言者アンナは若くして夫に先立たれ、八十四歳の高齢になるまで、寂しい人生を歩んで来たが、決してこの世の楽しみで人生を満たそうとはせず、ただ神だけが人生を満たして下さることを信じていた。この二人の生涯は信仰によって待つ人生であった。このような生き方こそ、キリスト者に相応しいのではないか。
 シメオンは神殿に連れて来られた幼子イエスを見て、標記のように語った。彼が見たのは、貧しい田舎娘に抱かれた普通の赤ん坊であるが、それを救い主だと認識できたのは、聖霊の導きによるのだが、同時に、彼の日々が祈りつつ待つ生活であったからに違いない。アンナも同様である。私たちも、祈りによって神と交わることがなければ、救い主と出会うことはないのではないか。私たちの礼拝は、主イエスとの出会いの場である。その出会いは、「今こそ、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言えるような、満足を与えられる筈のものである。新しい年は、聖霊に導かれて、そのような喜びに満ちた礼拝を続けたいものである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2009年12月27日 山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書2:22−38
 説教題:「今こそ、安らかに」
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