序.何を待って生きるか

・クリスマスが終わって、今年最後の礼拝となりました。一年が終わろうとするこの時に、今年の歩みを振り返って反省すると共に、来るべき新しい年をどのように生きるのかを思い巡らすことは、意義のあることであります。

・ルカによる福音書では、主イエスの降誕の記事の後に、今日与えられております、神殿で幼子が献げられる記事が続いているので、クリスマスの後の最後の主の日には、この箇所が取り上げられることが多いのであります。ここには、神殿で、多分老人と思われるシメオンと、もう一人ははっきりと年齢が記されているアンナという婦人の二人の人物が登場して、幼子を見て、神を賛美したことが書かれています。聖書は、二人の人生がこの日のためにあったかのような書きぶりをしております。そして、この箇所を読む者は、二人の人生のことを思い巡らして、自分の生き方のことを考えさせられるのであります。それは、一年の最後の主の日に、大変相応しいことではないかと思います。

・二人の人生は、一言で言えば、救い主を待つ人生でありました。人が前向きに生きることが出来るのは、将来に対する希望を抱いて、それが叶えられる日が来ることを待っているからであります。特に、年をとってからは、過去のよい思い出にひたり勝ちであります。しかし、そこからは希望が湧いて来ません。では、希望さえ持っていたら、どんな希望でもよいかというと、そうでもありません。自分勝手な希望であれば、他の人との間にトラブルを起こすことになるでしょう。高すぎる希望や、偽りの希望は、失望に終わるだけです。本物の希望を持ってこそ、それを待つ人生は豊かにされ、叶えられる喜びも大きいのであります。何を待って生きるのかが大切であります。その意味で、年末に、この二人に学ぶ意義は大きいのではないでしょうか。

1.救いを待つ人生

・聖書によって、二人がどのような人生を歩んで来たかを見ておきましょう。

25,26節に、シメオンのこれまでの人生が要約されています。

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。

・シメオンについてまず言われていることは、「正しい人で信仰があつく」ということであります。イスラエルの世界で「正しい人」というのは、律法を忠実に守っている人という意味であります。しかし、シメオンは律法を形式的に守っているだけではなくて、「信仰があつい人」でありました。神様が与えて下さった掟を心から信頼して、掟によって示された生き方・進むべき道に従って歩む人であった、ということであります。これは、<聖人のように、高潔で、何の落度もなく、模範的な人>、ということを必ずしも意味しません。シメオンが「正しく信仰があつい人」であったことは、次に述べられている、イスラエルの慰められるのを待ち望み、という生き方に表れていたのであります。

・この「イスラエルの慰め」という言葉は、イザヤ書401節にある「慰めよ、わたしの民を慰めよ」という言葉に結びついた表現でありまして、イスラエルの民は周辺諸国から圧迫を受け、ある時期は捕囚の憂き目を見なければならなかったし、この頃はローマの支配を受けていたのでありますが、やがて神様の手によって特別な慰めを与えられる日が来ると信じていたのであります。

・けれども、「慰め」の具体的な形に対するイメージは一様ではなかったようでありまして、ある者は、天から強力な戦士が来て、ローマの支配を跳ね返すことを期待しましたし、ある者は、ダビデの家系から王が誕生し、かつての繁栄が取り戻されることを期待しましたし、ある者は、神御自身の介入によって、超自然的な助けが与えられることを期待いたしました。ところがシメオンは、そのような人々とは対照的な「敬虔派」と呼ばれる少数のグループに属していたのではないかと考えられていて、この人たちは武力や権力に期待せずに、ひたすら祈りのうちに、神が現れるのを待ち望んでいました。

・シメオンに関して注目したいもう一つの点は、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた、と書かれていることであります。クリスマスに発行されました『旧約新約聖書講解』には今日のテキストの講解も出ておりまして、「聖霊が彼にとどまっていた」というところでは、「彼が神の約束を信じて待ち続けていられたのは、彼自身のまじめさや熱心さによるのでなく、聖霊の助けと導きによる」と書かれています。「メシアに会うまでは決して死なない」との確信は、おそらく、日々の祈りの中で、神の御心を問ううちに、聖霊の導きによって与えられたものだったのでありましょう。しかし、待つということは忍耐の要ることであります。彼の人生にも色々な波風があり、苦しみ・悩みがあったことでありましょう。そんな中で、人間的な望みは失望に終わらざるを得なかったかもしれませんが、メシアに会えるという、聖霊によって受けた約束を、信じ続けていたのであります。
・次に、アンナについては、36,37節に記されています。

 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた、と書かれています。

彼女はアシェル族の出身でありました。アシェル族というのはイスラエルの12部族の一つですが、ヤラベアムの時代以降、何世紀もの間、メシアと神の契約を拒否し続けておりまして、イスラエルからは孤立して、殆ど独立的な存在でありました。このようなアシェル族の女が、神殿に仕えており、しかもメシアを迎えるということは、散らされた民が再び御国のもとに集められるということをルカは言おうとしていると考えられます。

そのことはさておき、アンナのこれまでの人生を見ますと、若い時(恐らく、当時の習慣では十代)に結婚しましたが、7年間で夫と死に別れて、その後約60年間も、やもめ暮らしを続けて来たのであります。子供もなく、この世的には寂しい、幸せとは言い難い人生であったことが想像できるのであります。そして、彼女は神殿で「夜も昼も神に仕えていた」と言いますから、今で言うなら修道女のような生活をしていたのでありましょう。この人が、シメオンと同じように救い主に会うことが出来るという約束を与えられていたとは記されていませんが、少なくとも彼女は、自分自身で人生の寂しさを埋めようとしたり、この世の楽しみで人生を満たそうとはしなかったようであります。ただ、神様だけが満たして下さることを待つ人生だったのでありましょう。

・そういう意味で、シメオンとアンナに共通なことは、彼らの人生が待つ人生であったということであります。そして、このような生き方こそ、クリスチャンに相応しいのではないでしょうか。皆が、アンナのように神殿で生活をしなければならないというのではありません。シメオンは27節には、神殿の境内に入って来た、とありますから、普段は町の中で生活していたことが考えられます。しかし、自分自身で自分の人生を満たしたり、この世の喜びや忙しさで人生を一杯にしてしまわず、救い主イエスによって満たされることを待つ人生だったのであります。

2.主に献げられたイエス

・ここまではシメオンとアンナについて見て来ましたが、冒頭の22節に戻りまして、この日、幼子イエスが神殿にやってきた目的について見ておきたいと思います。

22節にあります、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間、というのは、レビ記122節以下によりますと、男の子を産んだ場合には、産婦は七日間汚れており、八日目に21節に書かれているように、割礼を施します。産婦は出血の汚れが清まるのに三十三日を必要とされましたので、誕生から数えて四十日を過ぎてから神殿に行くのであります。

また、出エジプト記13章によりますと、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」とされていまして、長男はすべて神の子として主に献げなければならないのであります。それは、エジプトを脱出するとき、エジプトにいる初子をことごとく撃たれたことに基づいているのであります。主に献げるとは、具体的には神殿で仕える祭司にする、ということですが、実際にはそんなことをすると、家業を継ぐ者がなくなるので、子供を献げる代わりに、雄羊一匹と、家鳩または山鳩一羽を献げることとされ、ただし、産婦が貧しくて羊に手が届かない場合には、二羽の家鳩または山鳩を献げればよいとされていました。主イエスのご家庭は貧しかったからでしょう、山鳩か家鳩を二羽献げたようです。

しかし、このようにして、主イエスの誕生に当って、律法の規定に従って、献げられたということは、大事なことを物語っております。それは、主イエスはユダヤ人として生まれた一人の人間として、掟に従って、なすべきことをなされたのであります。聖霊によって受胎された神の子でありますが、一人の人の子として生き始められたということであります。そのような方だからこそ、人間を救うことがお出来になるのであります。ガラテヤの信徒への手紙44,5節には、こう記されています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」―――

こうして、主イエスは一人の人間として、主に献げる手続きが形式的に行なわれたのであります。実際は律法に従って鳩を献げたわけで、主イエスは祭司にならずに、大工の子として育てられるのでありますが、ルカは22節で、両親はその子を献げるため、と記しています。主イエスは祭司の職には就かれませんでしたが、その生涯は、正に神に献げられた生涯でありまして、本物の犠牲として、自らの命を献げられることになるのであります。

3.救いを見た

・さて、27節によると、シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来ました。そこで、劇的な出会いが起こります。驚くべきことに、聖霊に導かれたシメオンは、一見して、その幼子が、待ちに待った救い主であると認識するのであります。

・シメオンは祭司ではありません。この時、聖霊に導かれて神殿にやって来ただけであります。神殿には献げ物を受け取る祭司もいた筈であります。しかし、ルカはそのような祭司が幼子を見て、どのように扱ったかを記していません。おそらく、何の特別な反応も示さずに淡々といつものように事を運んだだけなのでしょう。雄羊を献げないで鳩を献げるような貧しい人には、あまり関心を払わなかったのかもしれません。そんな祭司に代わって、聖霊に導かれたシメオンが、貧しい両親と共にやって来た幼子を腕に抱き、神をたたえたのであります。

29節から32節は、「シメオン賛歌」と呼ばれているものです。

その前半では、こう言っております。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

一体、シメオンは何を見たというのでしょうか。シメオンが見たのは、マリアに抱かれた普通の赤ん坊であります。それを抱いているのは、王でもお后でもなく、一人の貧しい田舎娘であります。救い主と思えるようなしるしは何も見えない中で、シメオンの目は聖霊によって開かれて、「救いを見た」のであります。聖霊の導きがなかったら、救いを見ることは出来なかったでしょう。しかし、この日突然に聖霊が働いたわけではありません。25節にあったように、以前から「聖霊が彼にとどまって」いて、「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいましたし、26節にあるように、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」のであります。ですから、彼の生活は、ずっと待ち続ける日々であったのであります。それは、「いつ会えるのですか」と問い続ける生活であり、それは言い換えれば、絶えず祈る生活であったに違いありません。だからこそ、目の前に救い主が現われたときに、その見える姿によってではなく、貧しい姿の中に救い主を見ることが出来たのでありましょう。

・私たちが救いを見る、救いを確信出来るというのも、同じことなのではないでしょうか。聖霊の導きが必要なことは言うまでもありませんが、それに伴って、祈ることによって、神様と交わることがなければ、私たちの信仰の目は開かれません。私たちが聖書で出会う救い主のお姿は、あの家畜小屋の誕生から十字架の死に至るまで、決して神々しい、強さに満ちたお姿ではなく、むしろ、貧しい、弱々しい、みすぼらしいお姿であります。そのお姿を見て、救い主に出会うのであります。

・後半の31節以下では、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と言っております。彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでおりました。しかしここでは、「万民のために整えてくださった救い」と言い、「異邦人を照らす啓示の光」と歌っております。イスラエルだけではなく、世界のあらゆる民族を救う救い主を見ているのであります。まことの救い主を待ち望む人の目は、大きく世界に広げられるのであります。そのためには、やはり日頃から、世界のためにも、祈っていたのでありましょう。私たちも、自分の身の回りのことだけを祈っていたのでは、神様の大きな御計画と救いを見ることが出来ません。身の回りのことや、自分の教会のことだけで、祈りが満たされるのではなくて、教会外の人のことや、遠く世界の片隅で救いを求めている人のことを覚えて祈るときに、神様の救いの大きさを見ることが許されるのではないでしょうか。

4.多くの人の心にある思い

・このようなシメオンの賛歌に、両親は驚きましたが、シメオンはマリアに向かって、34節以下でこう言います。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

・ここには、この幼子によってもたらされる光の面とは逆の、暗い面が語られています。多くの倒れていたような人が立ち上がることが出来るようになる反面、倒される人が出て来るのであります。すべての人の正体がはっきりして来るのであります。また、主イエス御自身は褒め称えられるよりも、反対を受けることになり、十字架にかけられ、マリア自身の心が剣で刺し貫かれるような痛みを経験しなければならないことを言っているのであります。「多くの人の心にある思い」とは、人間の罪であります。十字架において、私たちの罪があらわにされるのであります。しかし、このことによって救いが実現するのであります。あらわになったその罪を、主イエスが引き受けて、十字架にお架かりになるのであります。そのことによって、万民のために救いが備えられるのであります。

結.今こそ、安らかに

・シメオンは29節で、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言っておりました。シメオンはこの日のために生きてきたのであります。救い主イエス・キリストと出会うためにこそ、生きて来たのであります。この思いは、八十四年の人生を歩んできたアンナも同様であったことでしょう。主イエスとの出会いに人生の生き甲斐があり、本当の安らぎがあるのであります。

礼拝は、主イエスとの出会いの場であります。礼拝において主イエスに出会うことは、「今こそ、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言えるような、満足を与えられるということであります。礼拝は毎週行なわれますので、そのような緊張感と満足感が薄れ勝ちでありますが、祈りつつ礼拝の時を待ち望むならば、そのような安らぎを与えられる時となる筈であります。新しい年は、聖霊に導かれて、そのような喜びに満ちた礼拝を続ける者とされたいと思います。そして、アンナが、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した、とあるように、私たちも、この山陰地方で救いを必要としている人々に、主イエスのことを宣べ伝える者にされたいものであります。 ・祈ります。

祈  り

・救い主イエス・キリストの父なる神様!

・年の瀬の礼拝に導かれ、シメオンやアンナと共に、御子イエス・キリストに出会うことを許されて感謝いたします。

・あなたがこの伝道所の礼拝にも、御言葉と聖霊において働き給うて、救いが実現しつつあることを覚えます。どうか、まどろみがちな私たちの信仰の目を開いて下さい。どうか、まだ、主イエスとの出会いを経験していない方々に、あなたが直接働いて下さって、あなたを賛美する群れに加えて下さいますようにお願いいたします。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>2009年12月27日 山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書2:22−38
 説教題:「今こそ、安らかに」
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