序.その日が来れば・・・栄光に輝く

・クリスマスおめでとうございます。

・今日は、ルカによる福音書第2章にある主イエスの降誕の場面から、クリスマスのメッセージを与えられたいと思っていますが、そこに入る前に、先ほど旧約聖書の朗読で読みました、イザヤ書11章の方(旧p1078)を御覧ください。ここは待降節によく読まれる箇所ですが、讃美歌96番の「エッサイの根より」の元になった箇所で、救い主の誕生が預言されている箇所であります。「エッサイ」とは、ダビデ王の父親の名前で、「エッサイの根より」とは、ダビデ王の子孫から救い主が生まれる、ということを意味しているのであります。

・今日はここを詳しく見ていくことは致しませんが、10節を御覧ください。こう預言されています。その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。「その日」とは、救い主が出現する日であります。「根」というのは、エネルギーを秘めていますが、表面には現れにくいものであります。けれども、その根が「すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う」と言われています。これは、方々に散らされていた捕囚民が解放されて、エッサイの根のもとに、つまり救い主のもとに帰ってくるということを言っているのであります。そして、「そのとどまるところは栄光に輝く」と語られています。救い主が現われ、人々が帰って来るところは、栄光に輝くのであります。――この預言は救い主イエス・キリストの誕生によって実現しました。しかし、初めは、目立たない形で密やかに起こります。そのことを知らされる人々は、まだ限られた人たちでした。しかし、そこに栄光が輝くのであります。「栄光」と訳されているヘブル語は、威信や栄誉の重さを表わす言葉で、殆どは神様の御栄光を表わします。

・さて、新約聖書の方を御覧ください。今日は2章でありますが、先週聞いた1章の「ザカリアの預言」の最後に近い78,79節には、このように述べられていました。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。――ここには、「あけぼのの光」が訪れると言われていて、救い主の到来を、朝の光が高い山陰からサッと射し込んで暗闇を照らす様子に譬えています。先ほどの「栄光」という言葉は、日本語でも「光」が含まれているように、ヘブル語やギリシャ語の「栄光」という言葉も「輝き」とか「光輝」と訳されることもあって、「光」に譬えられることも多いのであります。ここでも高い所から訪れる「あけぼのの光」とは、神様の御栄光のことであります。救い主イエス・キリストの誕生は、主の栄光の現われであります。

・今日の2章1〜20節の中にも、「栄光」という言葉が2回出て来ます。9節で、主の栄光が周りを照らした、とあって、殆ど「光」を思わせるような使われ方がされており、14節では、「いと高きところに栄光、神にあれ」と、神の威信や栄誉を表わす言葉として用いられています。このように、神様の「御栄光」は「光」となって現れるのであります。クリスマスは「光の祭典」と言われます。様々な電飾によって「光」を演出いたしますが、それは単にクリスマスを美しく、華やかに盛り上げるためではなくて、本来は、神様の御栄光を讃えるためであります。

・今日は、説教の題を14節の言葉からとって、「栄光、神にあれ」といたしましたが、その言葉を中心として描かれている、主イエスの誕生の記事を通して、神様の「御栄光」ということを御一緒に考えてみたいと思うのであります。

1.暗闇と死の陰に座している者たち

・まず、神様の御栄光によって照らし出されるこの世の現実に目を向けなければなりません。179節には、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし」とありました。「あけぼのの光」が訪れる前の現実は、人々は暗闇と死の陰に座していたのであります。

2章の初めには、主イエスの誕生の頃の時代の状況が記されています。当時、世界を支配していたのはローマ皇帝アウグストゥスでありました。皇帝は全領土の住民に、住民登録をするように命じました。これは何の目的でしょうか。一つは税金を取り立てるためであり、今一つは徴兵のためであります。皇帝はこれによって、支配を更に徹底しようとしたのであります。神の民として歩んできたユダヤ人たちも、この支配に服さなければならないという、暗黒の時代でありました。ヨセフとマリア夫妻も、住民登録のために、ナザレの村から、ヨハネの出身地であるベツレヘムまで行かなければなりません。身重のマリアにとって、百数十キロの旅は、相当つらく、不安に満ちたものであったと思われます。しかも、到着したベツレヘムでは宿が満員で、家畜小屋で出産し、幼子を飼い葉桶に寝かせなければなりませんでした。ここに、権力者に弄(もてあそ)ばれる庶民の姿があり、人間の罪が映し出されているのを見ることが出来ます。けれども、このような暗い場所こそ、主の栄光によって照らし出されねばならないのであります。

8節以下には、羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた場面が描かれております。羊飼いという職業が、当時の社会で重んじられていたのか、蔑まれていたのか、両方の見方があるようです。詩編に「主は羊飼い」と歌われており、主イエスも「わたしはよい羊飼い」と言われたくらいだから、決して蔑まれるような立場ではなかったという見方がある一方、学問がなくても出来る仕事で、家に住まずに動物と一緒に野宿生活をする、貧しく卑しい身分であったとする見方があります。いずれにしろ、当時のユダヤでは、羊飼いは決して特殊な仕事ではなく、普通に見られる職業であって、ここに描かれているのは日常的な光景だったと言えます。ですから羊飼いたちというのは、日常生活を営んでいる私たちの代表だと言ってよいのかもしれません。しかし、羊飼いたちの日常生活は光のない暗闇の中での生活であったことが象徴しているように、現代の私たちの日常生活も、決して希望の光に満たされているとは言えず、むしろ先が見えにくく、特に今年は不況の中で不安を抱きつつ年を越さねばならない人も多く、またそうした状況の中で、人間の罪が生み出す様々な暗い出来事が多発していて、恐れや不安を覚えざるを得ないのが現実で、暗闇がすっぽりと私たちを覆っているのであります。

2.主の栄光が周りを照らした

・さて、そのような暗い状況の中で、この日に起こったことは、第一に、9節に書かれていますように、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした、ということであります。暗い地上に天からの眩いばかりに明るい光が射し込んだのであります。主の栄光を地上から引き寄せることは出来ません。先週の「ザカリア賛歌」の中で、68節と78節に「訪れ」という言葉があることに注目しました。ザカリアにも、ヨセフにも、マリアにも、何の予告もなく突如、天使が現れました。光は私たちが招き寄せるのではなくて、高い所から、すなわち天から訪れて、暗闇の中にある私たちを照らし出すのであります。

・光を受けた人間は、戸惑い、不安になり、恐れざるを得ません。ザカリアは「不安になり、恐怖の念に襲われた」、とありました。マリアは、「おめでとう」との挨拶の言葉に戸惑い、考え込みました。羊飼いたちも、非常に恐れたと書かれています。

クリスマスを迎えた私たちにも、実は、天からの光が訪れています。主の栄光が周りを照らしています。暗闇の世界に「あけぼのの光」が射し込んでいるのであります。けれども私たちはどうでしょうか。ザカリアやマリアのように、また羊飼いたちのように恐れているでしょうか。私たちは不況の中で将来に対して不安を抱きます。事故や災害に遭遇したり、死の病いに侵されることを恐れます。けれども、クリスマスに天から射し込んでいる光には、無頓着になっていないでしょうか。御言葉が語っていることに、無関心になっていないでしょうか。クリスマスの華やかな光や、浮き浮きした気分によって、御言葉の前に恐れをもって跪くことが、すっ飛んでしまっているとすれば、クリスマスの本当の喜びに満ちたメッセージを受け取ることは出来ません。しかし、クリスマスに天から注がれた光の前に、これまでの不信仰な自分が照らし出されて、全てが明るみに出されることを恐れ、自分では考えもしなかった局面に立たされることに不安を覚えざるを得ない者には、天からの声が響きます。

3.恐れるな

その声を、ザカリアもマリアも、そして羊飼いたちも聞きました。それは、「恐れるな」という天使の言葉であります。そして、羊飼いたちにこう告げました。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」――ここで「恐れるな」と言われている「恐れ」とは、私たちが普段抱いている暗い世相や自分に襲いかかるかもしれない危険に対する恐れとは違います。主の栄光に照らし出された恐れであります。神が私たちに近づいて来られることに伴う恐れであります。なぜ、恐れなくてもよいのか。それは「民全体に与えられる大きな喜び」の出来事が起っているからです。私たちのために救い主がおいでになったからであります。私たちを罪の縄目から解放する方が来られたからであります。もはや光を恐れる必要はありません。私たちの罪が明るみに出され、私たちの不信仰が裁かれることを恐れる必要はありません。

確かに、クリスマスに注がれる天からの光は、まぶし過ぎます。私たちがそのままの状態でいることを許さない力があります。私たちのそれまでのあり方・生き方の変更を迫ります。それを拒否したい不安と恐れを感じさせます。教会の礼拝に出席することは天からの光を受けることであります。神様が接近されることであります。洗礼を受けてクリスチャンになりませんか、という問いかけが聞こえて来ます。礼拝を疎かにしていたこれまでの生活を改めなさい、という呼びかけが聞こえて来ます。そうした声に私たちは不安と恐れを覚えざるを得ないでしょう。しかし、神様は私たちのこれまでのあり方を、憐れんでおられるのであります。これまでのあり方で安住している私たちを、もっと大きな、根本的な喜びに招こうとしておられるのです。神と共にある、本当の平安を与えようとしておられるのです。そのために救い主が遣われました。だから、恐れることはない、と言うのであります。

・でも、なぜ主イエスの誕生が私たちの救いに結びつくのか。主イエスが私たちを罪から救うと言うが、そんなことが出来るのか。主イエスは本当に救い主なのか。――そのような疑問に対して、天使はこう語ります。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」――「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が、救い主メシアのしるしだというのです。そこには王の栄光の姿を見ることは出来ません。むしろ貧しさや弱さしか見えません。人々から疎外された姿としか見えません。けれども、それが救い主のしるしなのであります。まだ、隠されてはいます。しかし、このお姿は、天の神様が地にある私たちのために小さくなって下さることのしるしであります。貧しさや弱さの中にある者と共にいて下さることのしるしであります。そして、人々から捨てられ、十字架につき給うて、人の罪を負って下さるお方であることのしるしであります。そのようなお方こそ、本当の救い主なのであります。

4.栄光、神にあれ

・このような天使の言葉に続いて、突然、この天使に天の大軍が加わり、神への賛美の声が聞こえます。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」――これはクリスマス・カードなどによく書かれる聖句の一つで、ここにはクリスマスの喜びの中心的なことが語られていると言ってよいでしょう。よく聞く言葉なので、あまり深く考えずに聞き流してしまっているかもしれませんが、この前半をよく見ると、「いと高きところには栄光、神にあれ」と言われています。「いと高きところ」とは天のことであり、神様のことだと言ってよいでしょう。神様に栄光を帰しているのであります。神様が賛美されているのであります。

・クリスマスは誰のためにあるのでしょうか。私たち人間のため・自分たちのためと、普通は考えますが、天の大軍はまず、神の栄光を称えています。クリスマスは、人間のためである前に、神の栄光が現われるためなのであります。ちょっと意外かもしれませんが、神様がクリスマスを必要とされていたのであります。神様が御自分の栄光を現わすために、主イエスの誕生があった、ということなのであります。ギリシャ語の「栄光」という言葉には、「栄誉」とか「威信」とか「輝き」という意味があります。クリスマスは神様が御自分の栄誉を求め、威信をかけて、御自身を輝かせる出来事なのであります。神様が神様としての栄誉をお受けになるためになさった事なのであります。

神様がクリスマスになさったこととは、人間を罪から救うために独り子イエス・キリストを地上にお遣わしになったということであります。なぜ、そのことをなさったかと言えば、それは神様の  御栄光を現わすためだったのであります。それは何か神様が良い格好をなさるというようなことではありません。神様は、人間が罪の中にあることを放っておけなかったのであります。神様がこの世界を治め、私たち人間を愛される時に、どうしても解決しなければならない問題として、人間の罪の問題があって、その解決のために、どうしても御子をお送りにならなければならなかったのであります。そして、神様の栄光が現わされなければならなかった、全てのものが神様を誉めたたえるようにならなければならなかった、ということであります。これがクリスマスの第一の目的、忘れてならない第一の側面であります。

5.地には平和

・続いて天の大軍は、「地には平和、御心に適う人にあれ」と言います。クリスマスにはもう一つの目的というか、一つのことの別の側面と言った方がよいかもしれませんが、天に栄光があると同時に、地の上にいる御心に適う人に平和があるように、ということであります。主イエスが地上に来られたことによって、地上にいる者たちに平和がもたらされるのであります。ここで言う「平和」とは、まずは神様との間の平和であります。神様とのよい関係が回復されるということであります。「御心に適う人に」と言われています。誰も御心に適わないのではないかと思ってしまいます。確かに私たちは神様の御心を痛めることの多い者であります。神様に背くことの多い者であります。私たちが努力して、そのことを改めない限り、神様との平和は与えられないということでしょうか。そうではありません。神様が、御心に適わない人間を、イエス・キリストによって、御心に適う人間と認めることが出来るようにして下さるのであります。それが、クリスマスによって始められた救いの御業であります。そのことが神様の御栄光となるのであります。

結.その光景を見て

15節以下には、天使の賛美が終わった後の羊飼いたちの行動が記されています。羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。

・羊飼いたちは、すぐに行動に移しました。どのようにして馬小屋を探し出すことが出来たのか、というようなことは、今は問いますまい。彼らは導かれて、天使が「しるし」だと言った通りの光景を目にいたします。それだけの光景を見て、羊飼いがどれだけのことを理解したかは分かりません。主イエスの十字架による救いのことまでは分からなかったに違いありません。しかし、羊飼いたちは、その光景を見て、「幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」のであります。彼らは、まだ十分に神様のなさることの全貌を見たわけではないけれども、自分の見たことを人々に伝えたのであります。

私たちもまた、このクリスマスの日に聞かされたこと、聖書の証しによって見たことは、神様の大きな救いの御業の一部に過ぎません。信仰歴の長い人であっても、御業の全部を見たわけではないし、理解できたわけではありません。しかし、私たちは今日、驚くべき御業の一端を垣間見ることを許されました。クリスマスの明るい光に照らされていることを知りました。神様の御栄光を仰ぐことが出来ました。私たちは、自分の見たこと、聞いたことを自分なりの言葉で人々に語ることは出来ます。それが、クリスマスから始まる、私たちの新しい歩みであります。20節には、羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った、とあります。私たちもまた、羊飼いたちと共に、神様をあがめ、神様に栄光を帰する者とされたいと思います。
・祈りましょう。

祈  り

 ・救い主イエス・キリストの父なる神様!

・クリスマスの礼拝に招かれて、羊飼いたちと共に、あなたの御栄光に照らされつつ、私たちを救おうとの御心と、その御業を聴くことが許されたことを感謝いたします。

・どうか、この光の中を歩み続ける者とならせて下さい。どうか、あなたに御栄光をお返し続ける者とさせて下さい。どうか、御栄光が、この教会で、この地域で、ますます現わされますように。

 どうか、私たちも羊飼いたちと同じように、見聞きしたことを、人々に知らせる者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所クリスマス礼拝説教<全原稿>2009年12月20日 山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書2:1−20
 説教題:「栄光、神にあれ」
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