なおしばらくの時がたてば、・・・その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
                   (イザヤ書
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 イザヤ書29章は、南王国ユダの指導者たちが、アッシリアの圧力が迫る中で、エジプトに助けを求めたことで、アッシリア軍にエルサレムを包囲されてしまったが、陥落寸前でアッシリア軍が撤退したという出来事を背景として語られた託宣である。イザヤは、敵の包囲も撤退も神がなさったことであると述べ、指導者たちが神に信頼しようとしなかったので、御言葉が封じられ(912節)、戒めどおりの形だけの祭儀をしているが、心が神から遠く離れているので、知恵が滅び分別が隠されてしまい(13,14節)、あたかも、造られた陶器が造った陶工を軽蔑するのと同じことを神に対してしている(15,16節)と、批難している。
 これらのイザヤの言葉を通して、私たちの伝道所が出遭った試練とそこからの回復にも、神の介入があったことを思わされる。「御言葉に親しみ、伝える」との本年の目標にもかかわらず、御言葉に聞くことが疎かにされていなかったか、クリスマスの準備が形だけのものになってしまって、心の備えが出来ていないのではないかと反省させられる。
 だが、イザヤは、「なおしばらくの時がたてば」と、標記のように、神によって大逆転が起こされる日が来ることを告げる。創造主なる神は、自然をも、人間の肉体的・霊的状態をも自由に転換させるお方である。神は、アブラハム、ヤコブのとき以来「わが手の業」(23節)(=救いの歴史)を進めて来られたが、標記の預言は、主イエス・キリストにおいて実現し(マタイ1129参照)、さらに、そこから始まった新しい救いの歴史は、「その日」(=終わりの日)に「わが名を聖とする」(23)(=礼拝する)という形で完成する。クリスマスは、その終わりの日の先取りである。

 米子伝道所待降節第一主日礼拝説教<要 旨> 2009年11月29日 山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書29:1−24
 説教題:「しばらくの時がたてば」
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