序.しばらくの時がたてば――待降節にあたり、一年を振り返る

・本日からアドベント(待降節)に入ります。今日の説教題は、イザヤ書2917節の言葉から取って、「しばらくの時がたてば」といたしました。イザヤ書では、イスラエルが回復する時のことを言っていて、それは最終的には救い主キリストの来臨によって実現するのでありますから、これを待降節にひっかけて読んでもよいわけでして、「しばらくの時がたてば」降誕節がやってくるこの待降節の時にあたって、預言者イザヤを通して語られる御言葉に耳を傾けたいと思います。

・イザヤ書29章は、28章に続いて、南王国ユダについての託宣であります。時代背景としては、北王国イスラエルは既にアッシリアによって滅ぼされており、アッシリアの圧力が南王国ユダにも及ぶ中で、もう一つの大国エジプトに助けを求めたのでありますが、エジプトは援軍を差し向けたものの、アッシリアに撃退され、結局エルサレムはアッシリア軍によって包囲されるのであります。紀元前701年のことであります。そして、エルサレムは陥落寸前のところまで行くのですが、アッシリアは急に撤退するのであります。それには、ユダをエジプトとの干渉地帯として残しておきたいというアッシリア側の思惑があったと思われますし、多額の貢ぎ物を約束したこともあったようでありますが、イザヤはそれを神の介入があったと捉えているのであります。

・このようなテキストの歴史的背景と、今私たちが置かれている状況はずいぶん違うのでありますが、今年もあと1ヶ月を残すのみとなり、クリスマスに向けて準備を進めている私たちが聴くべき御言葉が、この中に盛り込まれているように思うのであります。この一年を振り返るとき、約2700年前にユダに臨み給うた主は、今も私たちに臨んで下さって、私たちの歩みを導いておられることを思わされるのであります。

1.
アリエルの苦しみと解放――教会を試み、回復される主

1節を御覧いただきますと、ああ、アリエルよ、アリエルよ、と呼びかけております。「アリエル」とは、2節にありますように、「祭壇の炉」のことも指すのですが、ここでは、神殿があり、祭壇のある町、エルサレムに呼びかけているのであります。

・エルサレムは最初、ダビデが陣を張った都であり、以来、年毎に、祭が盛んに行なわれて、繁栄して来た町であります。

しかし、2節にあるように、わたしはアリエルを苦しめる。アリエルには嘆きと、ため息が臨み、祭壇の炉のようになる、と言われます。主なる神御自身がエルサレムを苦しめられるのであります。「祭壇の炉のようになる」とは、祭壇の献げ物が燃やされるように、エルサレムの町が炉のように燃やされて、滅ぼされるということであります。

3節の、わたしはお前を囲んで陣を張り、砦を築き、城壁を建てる、というのは、アッシリアによる包囲も、実は神がなさっていることだと言うのでありましょう。4節は、そのような状況の中で、エルサレムの民が殆ど地の下に葬られた死者と同じようになっている有様を述べています。

5節の、群がる外敵は砂塵のようになり、群がる暴虐の者らは、吹き去られるもみ殻のようになる、というのは、アッシリア軍が砂塵を上げて押し寄せる様子を表現したものか、逆に、吹き去られるもみ殻のように、急に消えてしまうことを言っているのか、両方の解釈がありますが、6〜8節につなげて読みますと、後者の読み方になります。実際、エルサレムを包囲していた敵軍は退却し、陥落を免れるのであります。イザヤは、エルサレムが包囲されたのも、神がなさったことであり、そこから解放されたのも、神の介入によると捉えているのであります。神が不信仰なエルサレムを試みられ、神が回復されたのであります。

・私たちの伝道所も、かつて大きな試練を受けた時がありました。分裂して崩壊しそうになった時がありました。けれども、新たな信徒が神様によって与えられて、回復したという歴史を持っています。ここ一・二年を振り返りましても、劇的な形ではありませんが、礼拝に来ていた求道者や会員が来なくなってしまうという試練がありましたが、この一年の間には、他教会員の方の出席や他教派からの入会という、神様の計らいがあって、教勢が回復しただけでなく、そこから、松江地区の家庭集会や青年会の発足という予期しない恵みを与えられました。

2.封じられた書物

・ところで、なぜエルサレムが試練を受けなければならなかったのか。そのことが9節以下に述べられています。9節を見ると、ためらえ、立ちすくめ。目をふさげ、そして見えなくなれ。酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。よろめいているが、濃い酒のゆえではない、とあって、これは287節以下で聞いた、祭司や預言者の様子と重なります。つまり、エルサレムの宗教的・政治的指導者たちが、迫ってくるアッシリアの圧力の前で、酔ったように心が揺れ動いて、エジプトに助けを求めたことを指しているのであります。なぜ、心が揺れ動いたかというと、10節にあるとうに、主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ、お前たちの目である預言者の目を閉ざし、頭である先見者を覆われた、からであります。つまり、預言者や先見者と言われる神の御心を見たり聞いたりする人たちの目がふさがれてしまったからであります。その結果、11節にあるように、書物の中の言葉が読めなくなってしまいました。つまり、御言葉が封印されたということであります。主がそのようにされたと記されていますが、彼らが外部勢力に頼って、御言葉に聞こうとしなかった、ということであります。

・今年の年間目標は、「御言葉に親しみ、伝える」ということでありました。これは、家庭で聖書に親しむとか、「聖書と祈り」や「聖書研究会」に出席して、聖書を学ぶということにとどまらず、様々な問題にぶつかった時に、人間的な判断をする前に、御言葉に聞くということであります。御言葉に目が開かれ、耳を傾けていた一年であったでしょうか。それとも、御言葉が封じられて、人間的な判断に頼って、酔ったように迷走していた一年だったのではないか、自らを顧みたいと思います。

3.心はわたしから離れている

・なぜエルサレムの指導者たちに対して御言葉が封じられたのでしょうか。そのことが13節以下に記されています。主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び、驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される。」――エルサレムの民は、口先では神を畏れ敬っているようなことを言っているが、心は神様から離れていたのではないか。戒めに従って祭儀を行なっていたかもしれないが、心から神様を礼拝していなかったのではないか。だから本当の意味での賢明な知恵・分別が出来なかったのではないか、と言っているのであります。

マタイによる福音書157節以下では、主イエスがこの箇所を引用して、ファリサイ派の人たちと律法学者に対して、こう言っておられます。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」(79) 私たちも、この主イエスの言葉を聴かなければなりません。私たちの礼拝生活が形だけのものになってしまって、偽善に陥っていないか、と問われています。

クリスマス委員会が開かれて、クリスマスの準備が進められています。日曜学校の子供たちも降誕の馬小屋の場面のジオラマの作成に取りかかっています。キャンドル・サービスで使う陶器製のランプも出来ております。今日は礼拝の後で、クリスマス・ツリーの飾りつけを始めます。このように、形の上ではクリスマスの準備は着々と整えられつつあるように見えますが、心の備えは出来ているのでしょうか。

14節で、「それゆえ、見よ、わたしは再び、驚くべき業を重ねて、この民を驚かす」と言われています。「驚くべき業」とは、何を指しているのでしょうか。これと同様の言葉は旧約聖書の中では、出エジプトの出来事など神様の救いの御業について用いられています。ここでは、アッシリア軍によって包囲された神の裁きのことを言っているのか、それともアッシリア軍が突然撤退して、エルサレムが救われたことを言っているのか、両方の理解が可能ですが、パウロはコリントの信徒への手紙一の中で、この箇所を引用しながら、こう言っております。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」(Tコリント1:1819)これによれば、パウロは、「驚くべき業」を十字架の救いの御業と受け取っているようであります。いずれにしろ、この言葉は、人間の思いもよらなかった神様の御業のことであります。私たちにとって、主イエスをこの世に遣わして下さったクリスマスの出来事も、驚くべき主の御業であります。この出来事を心からの驚きをもって受け入れる備えをすることこそ、このアドベントの時に私たちがなすべき事ではないでしょうか。

15,16節は更に、エルサレムの指導者たちが、隠密裏にエジプトと政治的な取り引きをしたことへの非難が語られています。災いだ、主を避けてその謀(はかりごと)を深く隠す者は、と言っております。イザヤが問題にしているのは、自分たちの陰謀を過信して、神に知られないように事を進めた指導者たちの不信仰であります。彼らは「誰が我らを見るものか、誰が我らに気づくものか」とうそぶいています。それに対してイザヤは言います。お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか、「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか、「彼に分別がない」と。世界を創造し、歴史を支配しておられるのは神であります。その神を差し置いて、自分たちの考えを神に相談することもなく推し進めるのは、あたかも、造られた陶器が造った陶工を軽蔑するのと同じだ、ということです。

・先ほど、新約聖書の朗読で、ローマの信徒への手紙919節以下を読みました。そこには、神様がイスラエルの民だけを救われるのではなくて、自由な選びによって異邦人をも救われることが述べられていて、造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えないように、また、焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限を持っているように、神はユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出されるのだ、と言っております。そのように神は、人間の浅はかで高慢な思いを超えて、自由に救いをもたらされるのであります。エルサレムの指導者たちの浅はかな考えを超えて、神はアッシリアを撤退させられたのであります。こうして、求めるべきは神の救いであることを示されたのであります。この山陰地域の救いを進められるのも、この伝道所の歩みを導かれるのもまた、創造主である神であります。

4.その日には――主にあって喜び祝い

17節以下には、なおしばらくの時がたてば、という書き出しで、来るべきその日、すなわちイスラエルが回復し、救いが成就する日のことが述べられています。

レバノンは再び園となり、園は森林として数えられる、と言っております。「園」と「森林」のどちらが良いということを述べているのではありません。自然の環境も神が自由に変えられるということであり、同様に人間の霊的状態をも神は自由に変えられるということを言いたいのでありましょう。

1821節には、救いの日における人間の変化が語られています。耳の聞こえない者が・・・聞き取り、盲人の目は・・・見えるようになり、苦しんでいた人々が・・・喜び祝い、貧しい人々は・・・喜び躍り、暴虐な者はうせ、不遜な者は滅びるという逆転が起こるというのであります。アッシリア軍が急に撤退したのは、救いの日に起こる逆転を予め指し示すものだったのであります

・洗礼者ヨハネがヘロデ王によって牢に入れられた時、キリストが来るべき救い主であるかどうかが不安になって、自分の弟子を主イエスのもとに送って、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせました。すると主イエスはお答えになりました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11:26)この主イエスの答えは、今日のイザヤの言葉を念頭に置いたものであることは明らかであります。イザヤの述べた救いの日の預言が、主イエス・キリストによって実現している、ということであります。

ルカによる福音書によれば、主イエスの受胎を告知されたマリアは、六ヶ月前に洗礼者ヨハネを身ごもったエリザベトの所へ大急ぎで行って挨拶をして、お互いの幸いを喜んだあと、有名な「マリアの讃歌」を歌いました。その中で、こう讃美しております。わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。(ルカ1:4755)――ここにも、主イエスの誕生による逆転が歌われております。クリスマスは高慢な者が滅ぼされ、主を畏れる者が救われるという逆転が起こるのであります。主が来られなくても準備が出来てしまうような、人間の営みで満たされたクリスマスは滅ぼされ、ただ主を畏れつつ心から主を待ち望む所に、主が来られる本当のクリスマスが訪れるのであります。そこでは、19節にあるように、「主にあって喜び祝い」、「聖なる方のゆえに喜び躍る」ということが起こるのであります。

結.わが手の業

・最後に22節以下の御言葉に耳を傾けましょう。ここは29章の結びであると共に、第一イザヤと言われる39章までの中心的なメッセージでもあります。

・ここにはアブラハムとヤコブの名が出て来ます。アブラハムは神の選びと約束のルーツであり、ヤコブはイスラエル民族の祖先であります。22節のアブラハムを贖われたとは、かつてアブラハムが偶像礼拝の氾濫していたメソポタミアの地から導き出されたことを言っているのでしょうか。ヤコブは恥を受けることはない、と言われているのは、イスラエルが捕囚から解放されることを預言しているのでしょうか。23節には、彼はその子らと共に、民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする、とあります。「わが手の業」とは何でしょうか。アブラハムから始まり、出エジプトの業や、王国の歴史、その中には、今回のアッシリアの撤退のことも含まれているのでしょうが、更には、やがてバビロン捕囚も行なわれるのですが、そこからの解放、そして最後には、救い主の到来に至るまでの、救いの歴史のことを一言で言っているのでありましょう。この救いの歴史は、イエス・キリストによって教会の歴史に引き継がれました。「しばらくの時がたてば」やってくる終わりの日に向けて、新しい救いの歴史が進められています。

この救いの歴史の目的は、「わが名を聖とする」ということであり、それを言い換えれば、23節の最後にあるように、イスラエルの神を畏るべきものとする、ということであります。主を礼拝するということであります。そこでは、24節に述べられているように、心の迷った者も知ることを得、つぶやく者も正しく語ることを学ぶようになるのであります。クリスマスは、その終わりの日の先取りであります。私たちは幸いにも、主イエス・キリストの十字架と復活という「わが手の業」を知っております。私たちは終わりの日を待たずして、主の名を聖とし、まことの神を畏るべきものとして礼拝することが出来、心の迷いやつぶやきからも解放される者とされているのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・天地を創造し、歴史を導き給う父なる神様!

・イスラエルの歴史の中に驚くべき業を重ねて来られたあなたが、主イエス・キリストによって救いの業を成し遂げて下さったことを感謝いたします。

・どうか、私たちをも、この大いなるあなたの「手の業」を見て、あなたの名を聖とし、あなたを畏れ、礼拝する者たちとならせて下さい。

・どうか、クリスマスに向けて、形の上だけでなく、心から救い主の御降誕をお喜びできるよう、備えさせてください。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所待降節第一主日礼拝説教<全原稿>2009年11月29日 山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書29:1−24
 説教題:「しばらくの時がたてば」
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