序.どこに向かって生きるのか

・人生には様々な生き方があります。テレビなどで色々な生き方が紹介されますが、一つの目標を持って生きる生き方には感動を覚えさせられます。日頃忙しくしていると、何のために生きているのか、自分はどこへ向かっているのかが分からなくなってしまいがちです。一度だけの、やり直すことが出来ない人生を、どのように生きるのか、自分がどこに向かって生きて行くのかをはっきりと意識することが、生き甲斐につながります。

・今日与えられた聖書の箇所には、シモン・ペトロという主イエスの弟子が登場いたします。主イエスの十二人の弟子の中でも、最もよく聖書に登場いたします。その性格は一本気で大胆ではありましたが、反面それが、せっかちで軽はずみな言動となって現れることが多かった人物であります。 

・もとはガリラヤ湖で漁師として生活しておりましたが、このヨハネによる福音書によりますと、先に兄弟のアンデレが主イエスに出会って、そのアンデレがシモンに出会って、「わたしはメシア(救い主)に出会った」と言って、主イエスのところに連れて来たことから、主イエスの弟子になりました。他の福音書では、主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時に、シモンとアンデレの兄弟が網を洗っているのを御覧になったことから始まって、彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とおっしゃって、彼らがすぐに網を捨てて従った、ということが記されています。このように、福音書によって弟子になったときの様子が少し違うのですが、いずれにしろ、比較的短時間のうちに、漁師から主イエスの弟子へと、人生の生き方を大きく変えさせられたのであります。

・漁師の生活が必ずしもつまらない目標のない人生だと言うわけではありませんが、シモン・ペトロの場合は、主イエスの弟子とされることによって、「人間をとる漁師になる」という大きな目標を与えられて、生き甲斐のある人生を獲得出来たと思ったのではないでしょうか。

・シモン・ペトロは、その後、主イエスのことを「生ける神の子です」と告白することが出来、そのことを主イエスが大変お喜びになって、「あなたはペトロ。この岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)と言われました。こうしてシモンはペトロというあだ名を頂戴したのであります。そういうことがありましたから、ペトロはますます主イエスの弟子であることに生き甲斐を感じ、どこまでも主イエスに従って行くのだ、という心意気を強くしたのではないかと思われます。

・私たちもまた、イエス・キリストに出会うことによって、人生に大きな生き甲斐を得ることが出来ます。主イエスを知らなかった時の人生に比べて、何のために生きているのか、どこに向かっているのかという目標がはっきりとした人生を歩むことが出来るようになります。何のために生きるのかということが明らかになるということは、何のために死ぬのかということも明らかになるということであります。キリスト者として生きるということは、キリストのために死ぬことでもあります。自分の喜びや満足のために生きるのではなくて、自分を捨てて、キリストの喜び給うことのために生きるし、キリストのために自分の生(自分の命)を献げるということであります。

・ペトロもそのような思いで、主イエスに従う日々を、喜びと自信を持って生きていたに違いありません。――ところが、ペトロがすばらしい告白をした頃から、主イエスは、御自分が十字架に架かって死ぬのだということを語り始められます。ペトロをはじめ弟子たちは、そのことがよく理解出来ませんでした。今日の箇所はいよいよその時が近づいた時のことであります。

1.わたしの行く所に、あなたは来ることができない

・ヨハネによる福音書13章のはじめには、主イエスが弟子たちの足を洗われたことが書かれていました。その時も、シモン・ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言って、主イエスのなさることに疑問を呈して、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。すると主イエスは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われ、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とおっしゃいました。足を洗うということは、主イエスが弟子たちのために十字架にお架かりになることを意味したのであります。しかしペトロは、その主イエスの言葉をよく理解しないままに、悪乗りして、「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言います。今日の箇所は、その流れの延長の上にあります。

・今日の箇所のすぐ前の、先週聴きました所の33節を見ていただきますと、主イエスはこう言っておられます。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたがたは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」――ここで「ユダヤ人たち」とは、主イエスを憎み、亡き者にしようと考えているユダヤ人の指導者たちのことであります。その人たちに言ったのと同じ言葉を、弟子たちにも言っておく、とおっしゃるのであります。弟子たちは、主イエスに従って行くことに、人生の生き甲斐を見出していたのであります。主イエスの行かれる所には、どこまでも従って行きたいと思っていました。主イエスの命を狙う者たちの動きは、弟子たちにもある程度伝わっていたと思われます。それでも弟子たちは、<たとえどんなことがあっても、主イエスに従って行こう>と考えていたと思われます。ところが、主イエスは、主イエスの命を狙っている人たちに対するのと同じように、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」とおっしゃるのであります。その前には、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」ということまでおっしゃいました。弟子たちは、主イエスの考えられていること、これからしようとされていること、これからどこへ行こうとされているのか、何が起ころうとしているのか、何も理解出来ていませんでした。

2.主よ、どこへ

・そこで今日の箇所になりますが、36節でシモン・ペトロは主イエスに問います。「主よ、どこへ行かれるのですか。」――これまで、弟子たちは自信に満ちた歩みをして来ました。主イエスに従っておれば、主イエスがどこへ行かれても何も心配はないし、自分たちはそれなりの評価や見返りを受けられると思っておりました。しかし、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と言われて、一挙に不安が広がって来たに違いありません。主イエスは、自分たちとは離れて違う所に行かれるようだ。自分たちの人生はどうなるのだろう、今までの歩みは何だったのだろう。すべては無駄であったのだろうか。これから自分たちはどうすればよいのだろう。恐らくここで弟子たちは、主イエスが十字架のことを予告されていたことを思い起こしながら、主イエスと別れの時が近づいていることを、本気で考え始めたのでありましょう。

・主イエスと行動を共にして来た弟子たちが、主イエスから「わたしの行く所にあなたたちは来ることができない」と言われたのであれば、洗礼を受けてキリストに従って行くことを誓ったキリスト者たちに対しても、同じことを言われるのではないでしょうか。キリスト者は、不十分ながら、主イエスの行かれるところには、出来るだけついて行きたいと思っています。主イエスと同じような歩みは出来ないとしても、主イエスの生き方に出来るだけ近づく生き方をしたいと思います。それでも、御心に添わないことをしてしまいますが、何とか御心に添いたいと思っています。けれども、主イエスは、弟子たちに言われたように、「わたしの行く所にあなたたちは来ることができない」と、はっきりおっしゃるのであります。主イエスの行かれる所には、近づくことさえ出来ないということであります。

・ペトロは主イエスの言われることが理解出来ないまま、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問いました。この後、主イエスは、十字架へと向かわれたことを私たちは知っております。しかし、私たちは主イエスの十字架の苦しみを知っているのでしょうか。主イエスの十字架の一端でも担っていると言えるのでしょうか。むしろ、日頃の私たちの歩みは、主イエスの十字架に苦しみを加えているようなことになっているのではないでしょうか。私たちは主イエスの向かわれる方向と違った方向に行ってしまっているのではないでしょうか。

・「主よ、どこへ行かれるのですか」という言葉は、ラテン語で「クオ・ヴァディス・ドミネ」と言います。ポーランドのノーベル賞作家のシェンキヴィッチという人が、この言葉をとって、『クオ・ヴァディス』という題の小説を書き、映画にもなっております。物語は、キリスト者を迫害したことで有名なネロ皇帝の時代を描いていて、激しい迫害の中でおびただしい数のキリスト者が処刑されていくのであります。その中で、弟子のペトロはローマで伝道をしていたのでありますが、教会の仲間はペトロにまで危害が及ぶことを案じて、ローマから去るように勧めるのであります。この説得に応じて、ペトロはローマを後にする街道を歩いているとき、ペトロとは反対方向に行かれる甦りの主イエスに出会うのであります。ペトロが「クオ・ヴァディス・ドミネ(「主よ、どこへ行かれるのですか」)とお尋ねすると、主イエスは、「あなたが捨てて逃れようとしているローマの都に行って、もう一度十字架に架かる」とおっしゃるのであります。ペトロは驚いて、踵を返してローマに戻ります。そうしてローマで、あのパウロと共に殉教の死を遂げるという物語であります。ペトロがそうであったように、私たちは人生の歩みの中で、何度も「主よ、どこへ行かれるのですか」と問わねばならないことがある、ということを作者はこの物語で言いたかったのでありましょう。

3.あなたのためなら命を捨てます

・この小説は、今日の箇所を題材にして書かれたもので、事実はどうであったか分かりませんが、この時点では、主イエスは重ねて、「わたしの行く所に、あなたはついて来ることはできない」とおっしゃいます。それに対してペトロは37節で、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と断言するのであります。並行記事のマルコ福音書では、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)と言い、ルカ福音書では、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と言ったと書かれています。いずれにしろ、相当な覚悟であります。ペトロはウソを言ったわけではないし、ただ良い格好をしたわけでもない。本気で死ぬことも覚悟したのでありましょう。

・しかし、これに対して主イエスは38節で答えられます。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うであろう。」――ペテロは自分自身について気づいていませんが、主イエスはペトロのことを深く知っておられるのであります。

・この後、いよいよ主イエスが捕らえられ、大祭司のもとに連行された時に、大祭司の屋敷の庭で様子を伺っていたペトロが、女中の一人に「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言われて、「違う」と三度も答えたことは、皆様もよく知っておられる通りであります。なぜ、ペトロは自分で言ったことさえも貫徹できず、裏切ってしまったのでしょうか。ペトロが弱く臆病だったからでしょうか。もっと強い、死を恐れない人であれば、「そうです」と言えたのでしょうか。そうではないでありましょう。最も勇敢であったペトロさえも、「そうです」とは言えないのであります。誰も主イエスと共に十字架に架けられる人はいないのであります。このペトロの姿に、全ての人の姿が映し出されているのであって、私たちもまた、そのような者であることを知らねばなりません。十字架の道は神の御子であるイエス・キリストだけが、ただ独りで歩まれる道なのであって、人間は誰も主と同じ十字架の場所に立つことは出来ないのであります。誰も、主イエスの行かれる所に、ついて行くことは出来ないのであります。

4.後でついて来ることになる

・しかし、もう一度36節をよく見ると、主イエスは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」と言われたあと、「後でついて来ることになる」と言っておられます。「後で」というのは、主イエスが十字架にお架かりになって、復活なさった後で、ということであります。主イエスが週の初めの日の朝に復活されて、女の弟子に現われられて、その知らせを聞いたペトロはすぐに墓へ飛んで行きましたが、その時はまだ、主が復活されたことを理解出来ませんでした。その日の夕方、主イエスは弟子たちが集まっている所に来られて、手とわき腹の傷をお見せになったので、主が復活なさったことを知って喜んだのですが、まだ主イエスについて行くということは起こりませんでした。復活の主イエスが三度目に現われたのは、ティベリアス湖で、ペトロたちが、主イエスの弟子になる前と同じように、漁に出ようとしていた時でありました。その時のことは、この福音書の21章に記されています。主イエスが湖畔に現われて、「子たちよ、何か食べる物があるか」と問われ、「ありません」と答えます。弟子たちは最初、それが主イエスだとは気づかなかったのですが、主イエスが「舟の右側に網を打ちなさい」と言われて、その通りにしてみると、おびただしい数の魚が獲れたので、弟子たちは主イエスであることに気づきました。それから、朝の食事を共にした後、主イエスは、「ヨハネの子、シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と三度問われ、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。以前のペトロであれば、こんな答え方をせず、「はい、主よ、私は、あなたのために命を惜しまないほど愛しています」と答えたに違いありません。しかし、主イエスを裏切ってしまったペトロは、もう胸を張ってそのように言うことは出来ません。自分の愛も、主の御心のうちにあることを告白せざるを得ませんでした。そのようなペトロに対して、主は、「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは行きたくないところへ連れて行かれる」と言われてから、「わたしに従いなさい」と言われて、今度こそ、死に至るまで主イエスについて行く者とされたのであります。このようにして、ペトロは再び伝道者として立てられて、ついには、迫害の中でローマにおいて殉教の死を遂げたとされています。主イエスはそこまで見通して、「後でついて来ることになる」と言われたのであります。と言うより、裏切ることしか出来ないペトロを赦して、もう一度主イエスについて行くことの出来る者にしようと、主イエス自身が決心なさったのであります。

結.父の家の住むところに

・このあと、14章の初めでは、召天者記念礼拝の時に聴きましたように、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(14:13)と言われました。主イエスはペトロのためにも、他の弟子たちのためにも、そして、私たちのためにも、主イエスの行かれる父の家に、行くべき場所を用意して下さっているのであります。

・私たちは、自分の力で、自分の信仰の力で、主イエスについて行くことは出来ません。むしろ、主イエスを裏切ってしまう者たちでしかありません。しかし、主イエスが私たちのために十字架にお架かりになって、私たちを主イエスの行かれる所について行くことの出来る者として下さったのであります。ここに、私たちの生きる道があり、本当の生き甲斐があります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・主イエス・キリストの父なる神様!

・不信仰で情けない私たちを、主イエス・キリストの故に、あなたの家に行くことの出来る者とされたことを感謝いたします。

・なお、迷い易く弱い者でありますが、どうか、最後まで主イエスについて行くことが出来るbghbように、絶えず聖霊のお導きを下さい。

 どうか、米子伝道所につながる全ての者を、主と共に歩むことに、喜びと生き甲斐を見出す者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年11月22日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書13:36-38
 説教題:「主よ、どこへ」
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