序.「互いに愛し合いなさい」――どこが新しい?

・先々週の召天者記念礼拝では、ヨハネによる福音書1413節から御言葉を聴きましたが、連続講解説教では、13章の30節まで進んでおりまして、間を少し飛ばした訳でございます。その飛ばした部分を、今日と次週に取り上げたいと思います。

・今日取り上げます3135節の段落の小見出しは「新しい掟」となっており、今日の説教の題もそうさせていただきました。その「新しい掟」というのは、34節にありますように、「互いに愛し合いなさい」という戒めであります。これがイエス様の「新しい掟」だとおっしゃるのであります。

・しかし、皆様は、「互いに愛し合いなさい」という戒めをお聞きになって、〈何で今更〉とお感じになるのではないでしょうか。「互いに愛し合う」という教えであれば、今更イエス様に言われなくても、大切であることを私たちは知っています。現実に生活する中で、愛し合うということが如何に難しいかということも分かっています。だから何度も言われなくてはならないのかもしれませんが、あまり新鮮味を感じることが出来ないのが、正直なところではないでしょうか。しかし、主イエスはこれを「新しい掟」だとおっしゃるのであります。どこが新しいのでしょうか。――先ほど、旧約聖書のレビ記1917,18節を読んでいただきました。そこは神様がイスラエルの民に与えられた律法が沢山記されているところですが、「兄弟を憎んではならない」とか「復讐をしてはならない」ということが記されたあとで、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と言われています。単に「隣人を愛しなさい」というのではなくて、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と言われていることに特徴があります。誰でも自分を愛しているのですが、それと同じように隣人を愛しなさい、というのは、なかなか厳しい要求であります。でも、イスラエルの人たちは、この掟をずっと聞いてきたのであります。イエス様も、律法学者が「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」という質問をしたときに、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という第一の掟と共に重要な第二の掟として、「隣人を自分のように愛しなさい」と、レビ記に書かれている掟をもって答えられました。これに比べると、「互いに愛し合いなさい」という戒めは、ただ、〈仲間内で仲良くしなさい〉と言われているようで、平板な教えのようにも受け取れます。しかし、主イエスはこれを「新しい掟」だと言われるのであります。どこが新しいのか。――今日は、そのことを今日の段落全体の中から聞き取って参りたいと思います。

1.「夜」が「栄光」に

・先々週聴いた21節から30節までの箇所では、主イエスはユダの裏切りのことを予告されました。弟子の一人が、「それはだれのことですか」と尋ねますと、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられて、パン切れをイスカリオテのユダにお与えになりました。30節を見ると、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」と書かれています。ユダは、まるで主イエスに促されるようにして、主イエスを捕らえたがっている人の所へ、居場所を知らせに出て行ったのであります。30節の最後には「夜であった」ということがつけ加えられています。それは、先日も申しましたように、サタンに支配された闇の世界を象徴的に表わしているように思えます。ユダはその、闇の中に出かけていくのであります。

・ところが、今日の箇所の31節になりますと、こう書かれています。さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」30節では「夜であった」と書かれていたのに、ここでは、夜の闇を吹き飛ばすかのように、「栄光」について書かれているのであります。ユダが出て行ったのは、確かに闇が支配する「夜」でありましたが、そのことが、「栄光」に変えられるのであります。ユダが出て行ったことによって、主イエスは捕らえられ、十字架に架けられるという最悪の事態になるのでありますが、そのことが、主イエスが栄光をお受けになることになるのであります。十字架は世間的に見れば敗北であります。公正な立場から見ても、人間の罪の勝利であって、正義が破れたのであります。しかし、それが実は、愛の勝利であり、罪が滅ぼされて、主イエスが栄光を受けられるのであります。しかも、このことによって主が栄光をお受けになるだけではなくて、父なる神も栄光をお受けになるのであります。父なる神の救いの御計画が達成するのであります。

32節では、「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」、と言われています。ここでは、十字架の御業に続いて三日目に起こる主イエスの復活、更にその後の昇天によって主イエスに与えられる栄光のことを言っておられるのでありましょう。つまり、十字架から復活・昇天に至る、一連の救いの出来事によって、主イエスと父なる神の御栄光が現わされて、新しい救いの時が到来するのであります。

このあと、「新しい掟」が語られるのでありますが、それは、このようにして始まった新しい救いの時代の掟であります。従来の律法の時代の愛の掟ではなくて、福音の時代の掟なのであります。

2.あなたたちは来ることができない

・その「新しい掟」のことに入る前に、もう一つ、33節の御言葉を聞かなければなりません。こう言われています。

 「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」

・「子たちよ」と、弟子たちに向かって、愛情を込めて呼びかけておられます。「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」ということは、もうすぐ分かれなければならない、ということでもあります。これは、主イエスの死の時、即ち十字架の時が迫っているということであります。先ほど述べておられたように、それは主イエスの栄光の時であります。しかし、「あなたがたはわたしを捜すだろう」と言われます。ということは、弟子たちには十字架を栄光の時とは見ることが出来ず、十字架の意味が分からずに、主イエスを見失ってしまう、ということであります。

・「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人に言ったように」というのは、7章で、ユダヤ人の指導者たちが主イエスを捕らえようとしていることが分かった時に言われ(34,36節)、8章で、「わたしは去って行く」と、死の予告をされたあとで人々に言われた(21節)ことを指していますが、ここでは弟子たちにも「同じことを言っておく」とおっしゃるのであります。つまり、ユダヤ人たちが主イエスを理解しなかったように、弟子たちも主イエスを理解出来なくて、ついて行けなくなるということであります。端的に言えば、〈あなたがたも裏切る〉ということであります。このあと、36節以下の段落では、ペトロに対しても「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」とおっしゃって、はっきりとペトロの離反のことを予告されるのであります。

・これらの主イエスの言葉は、私たちもいい加減に聞き過ごすことは出来ません。弟子たちが十字架に向かわれる主イエスを見放して逃げ去ったように、私たちも、元来は主イエスについて行くことが出来なくて、裏切ってしまう者たちなのであります。主イエスの十字架のもとには立てないし、まして主イエスの復活の命にあやかるとか、昇天される主イエスと同じ所に行くなどということは出来ない者たちなのであります。主イエスの愛の世界には入れていただけない者であり、主イエスの栄光を仰ぐことも出来ない者たちなのであります。主イエスの十字架の愛の業は、主イエスお一人で成し遂げて下さったのであり、ユダがそうであったように、私たちも、裏切るという形でしか、参加することの出来ない者なのであります。ですから誰も、主イエスの受けられる御栄光の百万分の一さえも、与かることは出来ないのであります。 

3.わたしがあなたがたを愛したように――新しい掟

・このように、弟子たちも私たちも、主イエスの行かれるところには行くことが出来ないのでありますが、そのことを述べられたあとで、続いて34節で、「あなたがたに新しい掟を与える」、と言われて、「互いに愛し合いなさい」と語られるのであります。

・イエス様をさえ愛しぬくことが出来なかった弟子たちが、どうして仲間の弟子たちや隣人をまともに愛することが出来るのでしょうか。律法の教えで「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言われていることに比べて、イエス様の言われる「互いに愛し合いなさい」という掟には、どのような新しさがあるのか、分からなくなってしまいます。

・そこで大切になって来るのが、34節の後半の主イエスの言葉であります。こう言われています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」――「わたしがあなたがたを愛したように」ということが前提になっています。主イエスは、どこか上の方から、〈お前たちもっと仲良くしなさい〉とか〈もっと仲間のことを思い遣りなさい〉とか〈互いに赦し合いなさい〉と、発破をかけておられるのではありません。主イエスは、弟子たちに裏切られても、逃げ出されても、その者たちの赦しのために御自分の命を捨てられます。その愛を前提にして、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われているのであります。

13章の初めには、主イエスが弟子たちの足を洗われたことが書かれていました。主イエスが率先して、弟子たちの足を洗われることによって、これから行なわれる主イエスの十字架の出来事を指し示されました。そして、互いに足を洗い合いなさい、とおっしゃいました。愛するということは、愛されないと分かりません。人を赦すということも、人に赦されないと分かりません。そしてまず、裏切った弟子たちを赦すことによって、愛を示されました。そのことによって弟子たちを、愛することが出来る者たちへと変えられるのであります。

もし、主イエスの十字架の愛という前提がなく、ただ「互いに愛し合いなさい」という掟だけであるならば、弟子たちや私たちは、自分のうちにある愛の力で人を愛さなければなりません。それでは、愛し甲斐のある者や見返りが期待できる者しか愛することが出来ません。あまり見返りが期待出来ない者に何か善いことをするとすれば、それは自分の愛を誇り、自分の栄光を求めることになってしまいます。そして、自分と同じように出来ない人を裁くことになるのがオチであります。私たちの愛の力には限界があります。というより、むしろ相手や周りの人を傷つけてしまうのがオチであります。

本物の愛とは、主イエスの十字架に示されるように、赦すことであります。私たちがもし、本物の愛の片鱗でも行なうことが出来るとすれば、その前提に「わたしがあなたがたを愛したように」という主イエスの赦しがあるからであります。主イエスによって赦されたことを知る者だけが、自分の誇りを捨てて、人を赦すことが出来ます。逆に言うと、人を赦さない、本物の愛に生きられないのは、主に赦されたということが、まだ自分のものになっていないということであります。「わたしがあなたがたを愛したように」という主イエスの愛(主イエスの赦し)を感謝して受け入れることが出来た者だけが、その愛に応えて、自分もまた、人を愛し、赦すことが可能となるのであります。

土戸清という方が、『ヨハネ福音書のこころと思想』という題の連続講解説教集を出しておられますが、その中に広島の原爆資料館に展示されているマザー・テレサの色紙のことが書かれています。マザー・テレサの原文では、「神がわたしたち一人一人を愛されたように、わたしたちも互いに愛し合いましょう、そうすれば、広島に多大の苦痛をもたらした恐るべき罪悪が、二度と起こらないでしょう」となっているのですが、そこに添えられている訳文では、特定の宗教の宣伝になることを恐れたためか、前段の「神がわたしたち一人一人を愛されたように」という肝心の部分が省かれているのだそうです。神の愛を抜きにして、ただ「互いに愛しましょう」だけでは、残念ながら、「多大の苦痛をもたらす人間の罪悪」はなくならないのであります。今、鳩山首相は、「友愛」ということを政策の旗印に掲げていますが、これも、ただ人間が互いに仲良くしよう、助け合おうという意味の「友愛」だけで、主イエスの愛が抜け落ちているのであれば、看板倒れになりかねないのではないでしょうか。

・聖書に基づく愛の教えには、必ず、「わたし(主イエス)があなたがたを愛したように」あるいは「神が私たちを愛して下さったように」という前提が付くのであります。ヨハネの手紙は、ヨハネ福音書と同じ筆者か、あるいは同じ教会の人が書いたのではないかと言われていて、ヨハネ福音書と神学的に類似点が多いのですが、愛の教えについても、共通点があります。例えば、ヨハネの手紙一311節以下の段落(p444)は、小見出しが「互いに愛し合いなさい」となっていまして、その16節には、こう書かれています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」とあります。ここでも、主イエスの十字架の愛が、私たちが愛し合うことの前提とされています。また、4章でも愛のことが教えられていますが、41011節を見ますと、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」と言われています。神の愛が先行したのです。その神の愛が、私たちの愛の源泉であり、原動力なのであります。この神の愛、主イエスの愛の御業を抜きにしては、人間同士の愛は本物にならないのであります。

結.皆が知るようになる

・最後に、もう一度ヨハネ福音書の13章に戻って、35節の言葉を聴きましょう。こう言われています。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

ここまでは、弟子たちが互いに愛し合うべきことを述べて来られました。つまり共同体内部、教会の兄弟姉妹の間での愛について述べられて来たのであります。ところがここでは、その兄弟姉妹が愛し合っているのを見て、「あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言われています。「皆」というのは、共同体の中だけでなく、外の世界の人々、まだキリスト者になっていない人々に対しても、と言う意味です。兄弟姉妹の愛は、教会の外の人たちに向けての証しになる(伝道になる)、ということであります。それは、キリスト者が誉められるとか、キリスト者が栄光を受けるというよりも、イエス・キリストの愛が、十字架の愛が、教会外の人々にも知られるようになる、ということであります。だから伝道になるのであります。

・反対に、もし、教会の中で、互いに裁き合ったり、赦すことの出来ない人間関係が続いているとするなら、証しにならないどころか、躓きを与えることになります。キリストの愛は看板倒れになります。伝道が進む筈がありません。

そうならないためには、どうすればよいのでしょうか。「互いに愛し合いなさい」という掟を守るよう、「友愛」の精神をスローガンに掲げて頑張ればよい、ということでしょうか。――そうではありません。主イエスが自分の命を捨てて語られた「新しい掟」を聴かなければなりません。「わたしがあなたがたを愛したように」という、大前提、愛の源泉に耳を傾けて、その愛に出会い、その愛の中に生きるとき、キリストの愛が、私たちを通して、「皆」に知られるようになるのであります。

・弟子たちが、主イエスから「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と言われたように、私たちも、元来はキリストのおられる所に行けない者たちであります。しかし、主イエス・キリストの十字架の愛を受けることが許されたので、キリストの愛を映し出すことが出来る群れとされたのであります。だから、キリストを証しし、伝道出来る者たちとされたのであります。そして、キリストの愛を映し出すことに参加することが出来た者は、召天者記念礼拝において14章の2節で聞きましたように、終わりの日に、「父の家」に住む所が与えられて、主イエス・キリストと共に住むことが出来るのであります。 ・祈りましょう。

祈  り

・主イエス・キリストの父なる神様!

・御子イエス・キリストの御業によって、あなたの愛を知ることが許され、感謝いたします。

・どうか、このキリストの愛を私たちの身の周りでも映し出すことの出来る者とならせて下さい。どうか、この伝道所が、互いに愛し合う群れとして、キリストを証しすることが出来るようにならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年11月15日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書13:31-35
 説教題:「新しい掟」
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