序.召天者記念礼拝とは

・本日は主日礼拝を召天者記念礼拝として守っております。従来は、春の復活節(イースター)礼拝の後に、召天者記念会を持っておりました。主の復活のメッセージと共に既に召された故人や私たち自身の復活を覚えることも、大変意義深いことでありますが、今年は、復活節は主の復活のメッセージを聴くことに集中して、召天者を覚える礼拝を別に行なうことになりました。本日をその日といたしましたのは、世界的な教会暦で11月の第一主日が「諸聖徒の日」とされていて、既に天に召された信徒の方々を覚える日とされているのに倣ったからであります。

・召天者を記念するということは、召天者を偲んで懐かしむとか、召天者の功績を称えるということではなくて、故人に対する神の恵みを思い起こして、神を賛美し礼拝することと、更には、私たち自身の死と復活のことを思い、故人の信仰を受け継いで、故人と共に天の住まいに入れられる願いを新たにするということであります。

・この日に与えられております聖句は、一つはヨハネによる福音書1413節でありますが、これまでヨハネ福音書の連続講解説教をして参りまして、先週で1330節まで来ましたが、少し間が飛んでおりますが、今日の箇所は葬儀でもよく読まれる所で、召天者記念礼拝に相応しい箇所であります。新約聖書でもう一箇所のペトロの手紙は、二ヶ月に一度読んでおりますもので、前回に210節まで読みましたが、その次がちょうど、天国を目指して歩む旅人としてのキリスト者のあり方を教える箇所でありますので、これまた、この日に相応しい箇所であります。そのほか、旧約聖書の中から、関連する箇所として詩編3913節を読ませていただきました。今日は、これらの箇所を通して、神様の御言葉を聴き、天の住まいを仰ぎ望む信仰を与えられたいと願っております。

1.居場所を求めて

・ところで近頃、自分の居場所があるとかないとかいうことが、よく言われます。日々の生活の中で、自分の居場所がないということは辛いことであります。家庭や学校や職場で、居場所がないと生きる喜びを失って落ち込んでしまったり、他に居場所を求めて、道を外してしまうようなことがあります。幸せな人生というのは、自分の居場所があって、そこに生き甲斐を見出せることだと言ってもよいかもしれません。家庭や職場に居場所が見出せなくて、趣味の世界に居場所を見出す人もいます。これは必ずしも望ましい形ではないですが、止むを得ない姿なのかもしれません。

・先日の第59回大会の会期中に、全体協議会が開かれましたが、そのテーマは「日本キリスト教会の伝道のこれから――生ける神に望みを置いて」というものでありましたが、その中で、高松伝道所の中家契介先生が発題をされて、いかにして「信仰の継承」を行なうかということに関して、<次世代の人たちにとって、教会が居場所になっているか>との問いかけをなさいました。若い人たちが学校や家庭や職場で居場所を失っています。そういう時に、その人たちが教会で喜びを見出すことが出来る場所になっているか、ということであります。

・私の出身教会である大阪北教会のある長老は、自己紹介する時にはいつも、自分は若い時に教会の入り浸り信者であったということを言われました。日曜日の礼拝に出席するだけでなく、週日の集会に出たり、様々な奉仕もして、毎日のように教会に入り浸っていたということであります。その後、家庭を持ったり、仕事の方が忙しくなったりして、教会を遠ざかられるのですが、高齢になってから戻って来られました。そのきっかけは、若い頃の教会の仲間が言った、「お前が死んでも、葬式はしてやらんよ」という一言だったそうです。そして、再び教会に居場所を求められて、長老にもなられて、信仰生活を全うして天に召されました。

人は誰でも、やがて死の時を迎えます。死とはこの世に居場所がなくなるということであります。遺された遺族や、親しい友人は先に死んだ人のことを時々は思い出してくれるかもしれません。その人たちの思い出の中に居場所があるということかもしれません。しかし、やがて忘れ去られてしまうのであります。大きな功績を残した人は、長く覚えられるかもしれませんが、後世の人と交わることは、もはや出来ないのであります。死んでもなくならない永遠の居場所は、地上にはないのであります。

2.天の居場所

・ところが主イエスは、ヨハネによる福音書1412節で、こう言っておられます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」

・主イエスの弟子たちは、主イエスの所に居場所を求めて、主に従って来た人たちです。しかし、主イエスは十字架の死を予告されるようになりました。その上、弟子たちの中に裏切る者が出ることや、主イエスが捕らえられる時には、弟子たちが離反してしまうということを言われたのであります。居場所がなくなってしまうということであります。弟子たちの心は不安がつのりました。「心を騒がせ」ずにはおれませんでした。

・ここに「心を騒がせ」と訳されている言葉は、実は1321節で主イエスが「心を騒がせ、断言された」と書かれている所と同じことばであります。この時主イエスはイスカリオテのユダの裏切りのことを予告されるのですが、主イエスも「心を騒がせ」られたのであります。同じ「心を騒がせ」という言葉が用いられていますが、その内容は違っているように思います。弟子たちはただ自分たちの居場所が失われることの不安を覚えて、心を騒がせたのでありますが、主イエスは、死を前にして不安になられたのでもないし、弟子たちとの別れを悲しまれて心を騒がされたのでもありません。主イエスは、弟子たちの罪を思って、心を騒がされたのであります。居場所を失おうとしている弟子たちのことを思って、心を騒がされたのであります。

・そのような弟子たちに向かって、主イエスは「心を騒がせるな」とおっしゃって、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われました。神を信じ、主イエスを信じるならば、居場所はなくならない、ということであります。主イエスはこれから十字架に架かろうとなさっています。それは、単に、主イエスに敵対する者たちに殺されるということではありません。弟子たちの罪を贖うための死であります。ですから、損なわれかけた神さまとの関係、裏切りによって断たれようとする主イエスとの交わりが回復されるということであります。居場所が失われるのではなくて、より確実な居場所が備えられるということであります。

2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と言っておられます。この「父の家」という言葉は、福音書の中で主イエスは、エルサレム神殿のことを指して用いておられます。12歳の時に、両親とエルサレムに行かれた時に、両親が主イエスを見失ってしまい、探し当てたのが神殿の中でした。その時主イエスは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言われました。主イエスにとって神殿は「父の家」だったのであります。もう一度は、宮清めと言われている出来事の時ですが、主イエスは神殿の境内で商売をしていた人に対して、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」とおっしゃいました。しかし、主イエスは、あのエルサレムの神殿が永遠の「父の家」とは考えておられませんでした。宮清めをなさった後で、神殿の建て直しのことを語っておられます。主イエスは十字架と復活の御業を通して、新しい神殿(新しい父の家)を建てられたのであります。それは新しい礼拝の場所である教会のことであり、天上の礼拝場所、即ち神の国のことであります。

・「住む所」と訳されている元の動詞は、「とどまる」とか「つながる」という言葉であります。ヨハネ福音書ではとても大事な言葉で、例えば、831節で主イエスが、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と言われましたし、154節のぶどうの木の譬えの箇所で、「わたしにつながっていなさい」と、何度も言われ、9節で「わたしの愛にとどまりなさい」と言っておられます。これらから分りますように、この言葉は主イエスと弟子たちや私たちとの強い関係を表わす言葉なのであります。

・「父の家には住む所がたくさんある」のであります。「父の家」は主イエス・キリストだけのものではありません。たくさんの人が一緒に住めるのであります。しかし、誰でも住めるということではありません。1節にあるように、神を信じ、主イエスを信じなければ、一緒に住むことが出来ません。心を騒がせていては一緒に住むことが出来ません。

3.場所を用意しに行く

・そこで、2節の後半では、「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われています。誰でもが住めるというわけではないので、主イエスが住めるようにして下さるのであります。「場所を用意しに行く」とは、主イエスの十字架と復活の御業のことであります。弟子たちは主イエスを裏切ったり、離反してしまいます。心は騒いでいます。しかし、主イエスの十字架の贖いの故に、赦されて、父の家に住むことが許されるのであります。私たちも同様であります。

3節では、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と言っておられます。――「戻って来る」とはどういう意味でしょうか。いつ戻って来られるのでしょうか。色々な解釈があり得ます。主の復活のことという理解があります。聖霊が降る時のことだという解釈もあります。信者各自の死の時とも考えられます。終末の再臨の時と解釈する人もいます。しかし、どれか特定の時に限定する必要はないと思います。主イエスは、「あなたがた二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ1820)と言って下さいました。教会は2000年の歴史の中で、主イエスがいつも共にいて下さると信じ続けて来ました。主の御言葉を聴き、聖餐に与る時に、主は聖霊において共にいて下さいます。今日も主は、私たちの所に来て下さいます。ここで言われる「父の家」とか、天国というのは、信者が死んでから行く所ではありません。主イエスを信じ、神を信じる者を、主は今、「父の家」に迎えて下さるのであります。「父の家」とは、はるかかなたの、天上にあるのではありません。この地上においても、「父の家」に住むことが出来るのであります。それは、特定の場所ではなくて、私たちの状態、即ち神さまと私たちの関係がつながっている状態のことであります。その状態・その関係は、損なわれていましたが、既に主イエス・キリストの十字架によって修復され、確かなものとされたのであります。

・そして、その関係は、信仰を持って既に召された故人も同様であります。今日、召天者として覚えている人たちも、既に「父の家」に住んでおられるのであります。その中に私たちも、信仰を持つことによって加えられるのであります。まだ信仰を持つに至っていない方については、今日も主が、「父の家」に「住む所」を用意して、心を込めて招いておられるのであります。

4.仮住まいの身

・ところで、先ほど朗読しましたもう一個所のペトロの手紙一21112節には、こう書かれています。愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。

・これは、異邦人の中にいるキリスト者に宛てた勧めの言葉であります。先ほどヨハネ福音書で、信仰者は「父の家」に「住む所」がある者であるということを聴きました。そしてここでは、キリスト者はこの世では旅人であり、仮住まいの身であると言われています。キリスト者は、天に本当の居場所があるのであります。と言っても、先ほども述べましたように、「天にある」と言うのは、地上の生活から遊離した別世界にいるということではありません。住みにくい、汚れたことがいっぱいある地上の生活から離れて、世捨て人になることではありません。汚れた地上を旅しつつ、しかし主イエスとの交わり、神様との関係に留まりつつ生きるということであります。

・「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と言われています。この言葉は、<肉体の欲望を捨てて、精神的に高い生き方をしなさい>と言われていると誤解されやすいのですが、そういうことを勧めているのではありません。肉体の欲も神様から与えられたものであって、決して悪いものではありません。その与えられた肉体の欲を、神様に逆らうような用い方をしないようにと言われているのであります。逆に、精神的な働きなら、何でも良いということはありません。むしろ、神に背く精神的な働きはいくらでもあります。神様を忘れた心の動きの中にこそ罪があり、与えられた肉体を生かして神様の御心に従って用いることこそ、神に喜ばれるのであります。

・「異教徒の間で立派に生活しなさい」と勧められています。そして、異教徒たちは、「あなたがたの立派な行いを見て、訪れの日に神をあがめるようになります」とまで言われています。そんな立派な行いが出来るだろうかと心配になります。地上の生活には誘惑が付きまといます。私たちの魂も肉体も誘惑され易いのであります。戦いに破れ易いのであります。異教徒たちに「クリスチャンのくせに」と言われそうであります。どのようにして誘惑と戦えばよいのでしょうか。――キリスト者は自分で戦うのではありません。自分で戦っても勝ち目はありません。キリスト者はキリストと共に「父の家」に住んでいるのですから、キリストと共に戦うのであります。キリストが一緒にいて戦って下さることを信じるのです。そしてキリストが勝利して下さるのであります。

・私たちは立派な行いが出来たら初めて「父の家」に入れてもらえるのではありません。ヨハネ福音書にありましたように、キリストが場所を用意して下さるのであります。キリストが自ら十字架に架かって、サタンに対する勝利の場を備えて下さったのであります。

結.神の居場所

・先日礼拝に来られた塚口教会の桑田氏が、その後一冊の本を送って下さいました。それは、塚口教会で毎月発行された「エルピス(希望)」という伝道用文書に掲載された山崎牧師の文章を一冊にまとめたものなのですが、その中に「神の居場所」と題する一文がありました。神様は普通、「天にまします我らの父よ」と祈るので、我々とはかけはなれた遠い天の彼方に住んでおられるように思ってしまうのですが、主イエス・キリストが遣わされたことにおいて、私たちと共にいて下さるお方であり、神の居場所は、私たちに最も近い所、実に私たちの所なのだ、ということを書いておられるのであります。「父の家」は決して遠い所にあるのではなく、また、死んだ後に行くあの世にあるのでもなく、私たちこそが「神の居場所」とされているということであります。

・信仰を告白し、洗礼を受けるということは、この神と共なる生活が始まるということでありますし、それはまた、先に召された故人と同じ所に住むということでもあるのであります。そして、その居場所は、私たちがこの世にある間は、未完成であります。それは、主イエスがもう一度私たちの所に見える姿で来て下さる時に、完成するのであります。私たちは、その日を待ち望みながら、しかし、今も主と共に、また故人と共にあることを覚えつつ、礼拝生活を続けたいと思うのであります。
・お祈りいたします。

祈  り
 ・主イエス・キリストの父なる神様!

・自分の居場所を勝手に作ったり、あなたのおられることを忘れて心を騒がせたり、罪を犯してしまう者でありますが、お赦し下さい。そのような者のためにも、主イエス・キリストが十字架にお架かりになって、私たちの居場所を用意して下さいましたことを感謝いたします。

・どうか、先に召された故人の信仰を継承して、終わりの日まで、主と共なる生涯を歩む者とならせて下さい。

・どうか、この教会の礼拝の場が、私たちの絶えず立ち帰るべき生涯の居場所となりますように、お願いいたします。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所召天者記念礼拝説教<全原稿> 2009年11月1日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書14:1-3、Ⅰペトロ2:11-12
 説教題:「天の居場所」
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