序.弟子の足を洗われた後で

・ヨハネによる福音書13章の初めには、主イエスが十字架の時を前にして、弟子たちの足を洗われたことが記されていました。足を洗うというのは召し使いや奴隷のすることでありました。それを先生である主イエスがなさったのは、罪によって汚れている弟子たちを清めるために、主イエス御自身が犠牲になって十字架にお架かりになるということを、お示しになるためでありました。

・弟子たちの足を洗い終えると、主イエスは、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」(1312)と言われた後、一つの教えを語られました。1415節ですが、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と言われました。先々週の説教で申しましたように、これは単に、<互いに謙遜にしなさい>ということではなくて、「足を洗う」というのは、<十字架に架かる>ことを意味するのですから、<互いに十字架を負い合う>ということ、言い換えれば、<互いに罪を赦し合うこと>が命じられているのであります。そういう意味で、大変厳しいお言葉であります。

・しかし16節では、「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」と言われ、誰も主イエスと同じ十字架を負えないことを認めていてくださり、17節では、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」とおっしゃって、自分なりに実行するよう、弟子たち(私たち)を励まして下さっています。――そこまでが、先々週にお話したことであります。

・ところが、主イエスはその後、更に厳しいことを語り始められるのであります。18節以下です。こう言われています。「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」――この二重鉤の中の言葉は、先ほど朗読していただいた詩編41編の10節からの引用でありますが、ここで主イエスは初めて、間接的にではありますが、親しい者の中から逆らう者(裏切る者)が出ることを予告なさったのであります。ヨハネ福音書の中では、これまでにも筆者の解説として、イスカリオテのユダの裏切りについて触れられている箇所がありました。それは、671節(ペトロが「あなたこそ神の聖者」と言った場面)、124節(ベタニアのマリアがナルドの香油を注いだ場面)、1311節(「皆が清いわけではない」と言われたとき)であります。ここでは具体的な名前は挙げられていませんが、「わたしのパンを食べている者」というのは、食事の時に一家の主人がパンを分けるのが習慣でしたから、主イエスの弟子たちのことを指していて、ここで弟子の裏切りのことを、主イエス御自身の言葉として初めて明言されたのであります。

20節を見ていただくと、こうも言っておられます。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」――「わたしの遣わす者」とは弟子たちのことであります。弟子たちを受け入れる者は、主イエスを受け入れることになり、更に主イエスをお遣わしになった父なる神を受け入れる者だ、とおっしゃっているのであります。「受け入れる」とは、信じるということであり、救われるということであります。弟子とは、そのような救いの鍵を握る重要な使命を担う者なのであります。その弟子たちの中から、主イエスを裏切る者が出るということであります。

1.心を騒がせ

・今日の箇所の21節に入りますと、こう書かれています。イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」――ここに「心を騒がせ」という言葉がありますが、これと同じ語源の言葉が、ヨハネ福音書にこれまでにも二度出て来ました。一つは1133節で、主イエスがラザロの葬られている墓に行かれたとき、皆が泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮して、言われた」と書かれているところの「興奮して」と訳されている言葉であります。その後には涙を流されたことも書かれていました。そこで主イエスが憤り、興奮し、涙を流されたのは、ラザロを捉えている死の力に対する憤りであると同時に、死の力の前でただ泣くしかない人たちの不信仰を見て、心を激しく動かされたのでありました。もう一箇所は、1227節ですが、主イエスが「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われた後で、御自身の言葉として「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃったのであります。その時も申しましたように、主イエスが心を騒がせておられるのは、単に死が恐ろしいからではありません。神様の御心に反する人々の罪の重さに、心を騒がせておられるのであります。

・ここでも同様でありまして、単に<これまで育ててきた弟子が自分を裏切るのが悔しいとか、怪しからんとか、その結果自分が死なねばならないのが恐ろしい>ということではなくて、「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れる」と、弟子たちの重大な使命についてお語りになったすぐ後で、その中に御自分を受け入れられず、裏切ってしまう者がいるということを言わざるを得ないことに、心を騒がせておられるのであります。裏切ろうとする者を捉えているサタンの力と、真正面に向き合っておられるのであります。

「心を騒がせ」の後に、「断言された」と書かれています。これは直訳すると、「証言して、言われた」という二語から成る言葉で、大変重い言い方であります。その後の主イエスの言葉も、「はっきり言っておく」という言葉で始まっています。これは、非常に重要なことをお話になる時の言い方で、原文では、「アーメン、アーメン」と繰り返されるのであります。そうして、主イエスは、はっきりと言われました。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」――厳粛なお言葉であります。

・「裏切る」と訳されている言葉は、「引き渡す」という言葉であります。聖餐式の制定の言葉で、コリントの信徒への手紙でパウロが伝えた言葉が用いられていて、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き・・・」というくだりがありますが、この「引き渡される」という言葉は、ここで「裏切る」と訳されている言葉と同じなのです。ルカ福音書によれば、イスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行って、「どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談を持ちかけた」(ルカ224)のであります。主イエスを敵対者たちに引き渡すことが、正に裏切りでありました。

・しかもそのことを、「あなたがたのうちの一人」がするのであります。主イエスはここで、固有名詞を挙げておられません。それは主イエスの思い遣りかもしれませんし、ここで名前を挙げることで、弟子たちの中で混乱が起きることを避けられたのかもしれませんが、それよりも大切なことは、愛する弟子たちの中の一人が主イエスを引き渡すという点であります。人々を主イエスのもとに引き渡すべき使命を与えられた弟子の一人が、主イエスを敵対者に引き渡すのであります。主イエスはそのことを承知の上で、それを止めさせようとか、そこから逃れようとはされません。そうなることが父なる神様の御心であるかのように、しかし、平然とではなく、心を騒がせながら、苦悩のうちに、明言されるのであります。十字架の苦悩が、この一言に込められています。

2.それはだれのことですか

・さて、22節以下には、この主イエスの言葉を聞いた弟子たちの反応が記されています。弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた、とあります。マタイとマルコ福音書では、「弟子たちは心を痛めて『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」と記されています。弟子たちは誰も、<自分は大丈夫だ>と言いきれる者はいなかったのであります。

・私たちはどうでしょうか。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」という主イエスのお言葉に対して、<私は違います>とはっきり言える人はいないのではないでしょうか。弟子たちは、「だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせ」ました。この自信無げな弟子たちの様子に、私たちは、<弟子もそうなんだ>と、ホッとさせられます。

・しかしこの後、弟子たちはすぐに、犯人探しを始めます。23節以下にこう書かれています。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」(2325)と尋ねます。

・主イエスの隣の席に着いていた弟子のことを、「イエスの愛しておられた者」という持って回った言い方をしております。ヨハネ福音書では、他の箇所でも同様の言い方が出て来ます。これが誰であるのか、色々なことが考えられていますが、一つは、筆者のヨハネが自分の名前を隠すためにこういう表現をとったのではないかと考えられています。ここでは誰であるかについて、これ以上の詮索はいたしません。ともかく、いつものようにペトロが真っ先に、犯人が誰であるかを主イエスに尋ねるように、主イエスの隣にいた弟子に合図で要請しました。その弟子が主イエスの「胸もとに寄りかかって」いたというのは、当時の食事の習慣では、椅子に座るのではなくて、体を横たえて、左手で頭を支え、右手で食物を口に運んだようで、「イエスの愛しておられた者」と言われる弟子は、主イエスの右側にいたので、主イエスに寄りかかるような姿勢になっていたと考えられます。その弟子が「主よ、それはだれのことですか」(25)と尋ねますと、主イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」(26)と言われて、イスカリオテのユダにパンをお与えになります。主イエスは誰であるかをはっきりと示されて、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(27)とまでおっしゃったのであります。

・ところが、弟子たちには主イエスのおっしゃった意味がよく分からなかったようであります。28節には、座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった、と書かれており、29節には、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた、と書かれています。このような弟子たちの様子から分かることは、弟子たちはユダを疑っていなかったということであります。むしろ、会計係として、他の弟子たちからも信頼されていたのであります。だから、主イエスのおっしゃったことが理解出来なかったのであります。――これは、誰が主イエスを裏切るかということは、人の目には分からないということを示しています。普段の行動は立派で、人々からも信頼されているからと言って、主イエスを裏切らないとは言えない、ということであります。

3.パン切れを浸して与える人

・では、なぜイスカリオテのユダが主イエスを裏切ることになったのでしょうか。色々考えられます。当時の民衆が主イエスに期待したように、当時ユダヤを支配していたローマから自分たちを解放してくれる指導者となって下さることを、ユダも期待していたけれども、主イエスがそのようなことに関心がないことが分かって来て失望を感じて、むしろ祭司長や律法学者に共感するようになったということも考えられます。また、12章ではベタニアのマリアが主イエスに香油を注ぎましたが、その時にユダは、「なぜ、この香油を売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言って批難しましたが、主イエスはマリアの行為を擁護されました。そのことから、主イエスの考えておられることと自分が期待しているイエス像との間に大きな隔たりがあることを感じて、もはやついて行くことが出来ないと思ったのかもしれません。

・しかし、聖書は、ユダの裏切りの背景や理由について、確たることは記していません。なぜヨハネは記さなかったのでしょうか。それは恐らく、特別な理由を挙げることが出来なかったということではないでしょうか。先ほども見ましたように、ユダは会計係として主イエスからも弟子たちからも信頼されていました。先ほどは主イエスに対する期待との間にズレが生じたのではないかということを申しましたが、逆に言うと、それだけ主イエスに期待し、また主イエスからも期待されていた、ということであります。つまり、主イエスから愛され、主イエスを愛していたのであります。裏切りは、愛のないところに生じようがありません。愛のあるところにこそ裏切りが起こってしまうのであります。

・主イエスの胸もとに寄りかかっていた弟子が、「主よ、それはだれのことですか」と尋ねたとき、主イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられました。この「パン切れを浸して与える」という仕草は、冒頭にも触れましたように、通常、食事の時に一家の主人が行なうことで、主イエスと弟子たちとの食事では、いつも主イエスがそのようにしておられたのでありましょう。聖餐式を制定された時の最後の晩餐でも、主イエスがパンを裂いて、弟子たちに与えられました。パンを与えるという仕草は、家族や弟子たちに対する主人の愛を示す仕草であります。その同じ仕草が、裏切る者が誰であるかを示す仕草となったのであります。しかも、27節によると、ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った、と記されています。主イエスはユダをも愛しておられます。この直前にはユダの足をも洗われました。ユダのためにも十字架にお架かりになろうとしておられます。しかし、その主イエスの愛をユダは受け入れることが出来なくなってしまったのであります。

・私たちもまた、主イエスに愛されています。主イエスの愛が聖書を通して、礼拝において聴く御言葉によって迫って来ます。しかし、その時こそサタンが私たちに入り込みやすい時でもあるのです。私たちは主イエスの愛に耐え切れなくなってしまいます。そして主の愛を裏切ってしまうのであります。

・主イエスは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とユダにおっしゃいます。この言葉の真意を理解するのは困難であります。まだ裏切りを躊躇していたユダに決断を促されたとは考えられ出来ません。既にサタンがユダに入って、もはや主イエスに従って行くという考えは失わせていて、ユダが考えていたことを実行するという方向に進もうとしています。主イエスはそのユダの決断を受け入れられるのであります。ユダの決断によって導かれる十字架への道を、進もうと決心なさっているのであります。そのことが、ユダをサタンから解放する唯一の道だからであります。ユダは主イエスの愛を受けて、裏切るのであります。

結.「夜」に輝く「光」

30節を見ると、ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった、と書かれています。「夜であった」という言葉が印象的であります。サタンに支配された闇を象徴的に表わしているように思われます。ヨハネによる福音書では、1章の初めから、「光」として来られた主イエスと、その主イエスを受け入れようとしないこの世の「闇」が対比して語られていました。主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ812)と言われました。しかし、ユダは今、その主イエスの「光」のもとから、「夜」で象徴される「闇」の世界へと出て行ったのであります。

・では、ユダは、永遠の夜の「闇」の中へと追放されることになるのでしょうか。そうではありませんでした。ユダは祭司長たちのところへ言って、主イエスの居場所を教えます。そして主イエスを彼らに引き渡すことになります。その引渡しが裏切りであります。しかし、その引渡しが、主イエスの十字架につながります。ユダは主イエスの愛を受け入れようとしないで、主イエスの「光」の中から出て行きました。しかし、そのことが、罪人である人間を救う出来事になるのであります。救いの「光」が「闇」の中に輝くことになるのであります。主イエスの愛は、そこまで行き着くのであります。自ら選んで「闇」の夜の中へと出て行った者を、主イエスの愛の光が包み込むのであります。

・私たちは、この世の「闇」の中に生きつつ、主イエスの愛の光の中へと呼び出されている者たちであります。しかし、私たちは、主イエスの愛を受けながらも、ユダのように、主イエスを裏切ってしまう者であります。サタンの力に惑わされて、主イエスの愛が息苦しくなったり、主イエスの愛を信じられなくなったり、他の光を求めて、主イエスのもとから離れようといたします。

・しかし、主イエスはそのような私たちの裏切りを、十字架でもってしっかりと受け止めて下さったのであります。そして、「闇」の中を漂い始める私たちに、「光」として輝いて下さるのであります。主がサタンを滅ぼして下さって、私たちをもう一度、「光」の中に生きる者にして下さるのであります。
・感謝して祈りましょう。

祈  り
 ・主イエスをお遣わし下さった父なる神様!

私たちはあなたがお遣わし下さった主イエスを、蔑ろにし、その愛を煩わしくさえ思って、裏切ってしまう罪人であります。

そのような者をもお見捨てにならず、今日も主イエスの十字架の光の中へと連れ戻して下さいまして、感謝いたします。
・どうか、主イエスの愛の光のもとに留まる者とならせて下さい。

・どうか、まだ夜の闇の中をさ迷っている人たちを、主の光のもとへと招き寄せて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年10月25日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書13:21-30
 説教題:「裏切ろうとしている」
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