「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」                   (ルカによる福音書1631

聖書は永遠の世界のベストセラーであると言われる。それでも、日本でどのくらい読まれているだろうか。聖書の世界は、時代も古く、遠い西洋のものと思われていないだろうか。しかし、聖書の世界は遠くない。私たちに深く人間について、つまり私たち自身について考えさせるものである。
 イエス様は、一つの譬を語られた。ある金持ちが、毎日ぜいたくに遊び暮らす、即ち祝宴を開いて暮らしていた。その門前には、ラザロという空腹のできものだらけの貧しい人が横たわっており、やがて死ぬ。そして、金持ちも死ぬ。ラザロは死んで、天使によって至福の場所とされていた信仰者の父アブラハムのもとに連れて行かれ、金持ちは陰府で責めさいなまれることになる。そこで、金持ちは、天の宴席でアブラハムとその主賓になっているラザロを見る。
 この譬でアブラハムは死後の逆転を告げる。イエス様は同じことを語られた。(ルカ 6:20-21,24-25) けれども、この譬は金持ちには死後の逆転を恐れて、暮らしを正すようにと教え、貧しい人には死後の逆転を信じて、貧しいままでいなさいと教える話ではない。金持ちは陰府で苦しんでも変わらないのだ。彼は、生きている時、目に入らなかったラザロを今度も利用しようとする。アブラハムに自らの苦しみを和らげる為に遣わしてもらうように願う。それが無理だと言われると、今度は、自分の兄弟が同じ苦しみを味わわないように遣わしてくれるように願う。答えは拒否で、アブラハムは「聖書に聞くが良い」と告げる。金持ちは更に、「死んだものが生き返れば、悔い改めるだろう」と言う。しかし、アブラハムは「聖書に耳を傾けないのなら、復活した死者の言うことも聞かないだろう」と答えて、この譬は終わる。
 実際、聖書の中には同じラザロという人が主イエスによって復活した事が語られている。(ヨハネ 11:38-44) この事を目撃した多くのユダヤ人が主イエスを信じたが、同時に彼らの指導者たちはこの日から主イエスを殺そうと企んだとある。(ヨハネ 11:53) そして、その結果、主イエスは十字架に架かって死なれた。しかし、その死は、徹底的に自己に邪魔なものを排除し、利用できるものは利用するとする神様に心を閉ざした罪人の罪を贖う死であり、主イエスは復活して、神様と共に、従って隣人と共に生きる新しい命を示し、そこに私たちを招き続けておられる。
 聖書に耳を傾け時、私たちは自らの罪を知り、罪の赦しと新しい命の慰めを受けることが出来るのである。

 米子伝道所伝道礼拝説教<要 旨>    2009年10月18日  本宮 広牧師 

 聖  書:ルカによる福音書16:19−31
 説教題:「逆  転」
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