「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」            (ヨハネによる福音書131415

 主イエスは、十字架にお架かりになるべき時が迫った夕食の席で、弟子たちの足を洗われた。足を洗うのは僕がすることなのに、師であるイエスがなさったので、ペトロが恐縮して、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言い、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言った。この時点では弟子たちには分からなかったが、足を洗われたのは、主が、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれて、罪に汚れた弟子たちのために十字架にお架かりになって、お清めになることを表わしている。主イエスはペトロに、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われた。この時既に、悪魔がイスカリオテのユダに主イエスを裏切る考えを抱かせていたこと、またペトロをはじめ弟子たちも皆、主が捕らえられる時には裏切ってしまうことを、主イエスは知っておられた。そのような彼らの罪が主の十字架によって贖われなければ、弟子たちは主イエスとの関係は断たれてしまう。だから主イエスは、足が汚れている弟子たちを見逃すことが出来ない。その主は、私たちの足の汚れも見過ごしにはなさらない。
 主イエスは、弟子たちの足を洗ったあと、標記のように言われた。これは単に、<弟子たる者は、お互いに謙遜に仕え合うべきだ>という教えではない。「足を洗う」とは、十字架を負うことだ。それは、恥を負い、相手の苦しみ・痛みを担い、罪を赦すことである。これは大変厳しい命令で、自分にはとても出来ない、と思ってしまう。そんな私たちに主は、「僕は主人にまさらず」と言われる。私たちは主イエスと同じような十字架を負うことは出来ない。だが、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」と言われた。私たちなりに足を洗い合うことが出来れば、「幸いである」と言って下さるのだ。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年10月11日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書13:1−20
 説教題:「互いに足を洗え」
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