序.御自分の時

・今日与えられております箇所には、主イエスが弟子たちの足を洗われたという、有名な話が書かれています。なぜ主イエスは弟子たちの足を洗われたのでしょうか。

・当時は、もちろん道路は殆ど舗装がしてありませんし、靴ではなくてサンダルのような履物でしたから、外出から帰ると足を洗わなければなりませんでした。この足を洗うという仕事は、通常は家の僕がすることでありました。あるいは、子が親に対して、妻が夫に対してすることでありました。それを、弟子たちの先生である主イエスが弟子たちのためになさったのであります。なぜ、わざわざ主イエスはそんなことをされたのでしょうか。

・当時、弟子たちの中に、<イエス様が栄光をお受けになる時には、自分たちをイエス様の右と左に座らせて下さい>などということをお願いに来る者がいたことが、他の福音書には書かれていますので、そういう弟子たちを見かねて主イエスは、<弟子たる者は、お互いに謙遜に仕え合うべきだ>ということを、身をもって示されたのだ、と受け取ることも出来ます。1415節を見ると、主イエスはこう言っておられます。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」――この主イエスの言葉を単純に読めば、弟子たちの間で互いに謙遜であることを勧められたものだと受け取ることが出来ます。

・けれども、「互いに足を洗い合う」と言われていることが、単に足を洗う程度の日常的な奉仕のことをおっしゃっているのでしょうか。1節を見ていただきますと、こう書かれています。さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」――時は、過越祭の直前であります。過越祭というのは、小羊を屠って、その血を家の入り口の柱と鴨居に塗り、その肉を食べることによって、かつて出エジプトの時に、羊の血をそのようにしたことで、助かったことを記念する祭であります。主イエスはこの祭の最中に、神の小羊として、御自分の血を流し、肉を裂かれる十字架にお架かりになるのであります。もう、その前日か前々日のことであります。最後の晩餐の時か、その前日のことであります。「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」とありますように、主イエスは十字架の時が迫ったことを踏まえて、このことをなさったのであります。非常な切迫感をもって、弟子たちの足を洗われたのであります。

・ですから、足を洗うとは、単に謙遜に仕えるという以上のことを表わしています。それは、主イエスの十字架を指し示す行為であります。主イエスはこれから、弟子たちのために、御自分の命を投げ打とうとしておられるのであります。しかも、その主イエスの十字架は、弟子の一人の裏切りによって始まるのであります。他の弟子たちも、主イエスを助けることは、誰も出来ません。けれども、十字架は、弟子たちのために、避けることの出来ない主イエスの御業であります。そのことを、弟子たちの足を洗うという行為で示されたのであります。

・けれども、この足を洗うという行為、そして十字架にお架かりになる行為というのは、決して当時の弟子たちのためだけに行われたのではありません。主イエスに従う全ての人たちのための行為であります。主イエスは私たちの足をも洗われたのであります。今日は、その行為の意味を深く思い巡らすとともに、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われる御言葉を、私たちにも命じられた言葉として、真摯に聴き取りたいと思うのであります。

1.世にいる弟子たちを愛して

1節の後半には、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。「世にいる弟子たち」と訳されているところは、口語訳聖書では「世にいる自分の者たち」となっていました。その方が原文に近いのです。「世にいる自分の者たち」とは、当時の弟子たちだけではありません。この福音書を書いた人も、以来二千年にわたってここを読んで来た者たちも、自分がここに含まれていると思って読んで来たのであります。私たちも、主イエスから見れば、「世にいる自分の者たち」なのであります。

・そして、主イエスは「世にいる自分の者たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。ここには、<愛する>という言葉が二度重ねられております。主イエスの愛の深さが表わされています。また、「この上なく愛し抜かれた」という言葉の原文は、「最後まで愛された」であります。十字架の死の時に至るまで愛し抜かれたのであります。私たちは主イエスが十字架の上で語られたお言葉として、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたことを知っています。主イエスは自分を十字架につけた者たちをも、愛し抜かれて、このような執り成しの祈りをなさったのであります。

・ところで、「この上なく愛し抜かれた」と記したすぐ後に、とんでもないことが書かれています。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。事もあろうに、愛する弟子たちの一人に、既に悪魔が働きかけていたというのです。愛する「世にいる自分の者たち」の一人が、既に悪魔の虜(とりこ)になって、十字架に架けようとしている、ということであります。ここにはイスカリオテのユダの名前だけしか挙げられていませんが、悪魔の虜になったのは、彼一人ではありませんでした。後で出て来るペトロも、<イエスを知らない>と言ってしまうのであります。他の弟子たちも皆、主イエスが捕らえられた時には、逃げ去ってしまうのであります。ユダはそのような主イエスを裏切る弟子たちの代表にすぎません。その裏切った弟子たちの仲間に、私たちも属していることを覚えない訳にはいかないのではないでしょうか。私たちは皆、主イエスに愛されている者たちであります。私たちを救おうとなさっておられます。しかるに私たちは、その愛に応えていません。むしろ、私たちはキリストの愛に不満さえ持っています。キリストの愛とか福音とか言うけれども、苦しいことや不安なことから開放されないし、思い通りに行かないことがいっぱいあるではないか。そういう思いで、今の自分をなかなか喜ぶことが出来ず、感謝することが出来ないでいます。悪魔は、そういう私たちの心の隙間にいつのまにか入り込んで、私たちを虜にして、私たちをキリストから引き離そうといたします。しかし、主イエスは、そんな弟子たちや私たちをも、最後まで愛し抜かれるのであります。

2.弟子たちの足を洗う

・父なる神様は、そのように悪魔の虜になっている私たちを救い出 すために、主イエスをお遣わしになりました。3節から5節には、こう書かれています。
 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

父なる神様は、私たちを救う業を主イエスの手に委ねられました。そして、主イエスは地上に遣わされて、命がけで弟子たちを愛し抜き、十字架に架かって神のもとに帰ろうとなさっているのであります。そのことを弟子たちの足を洗うという行為でお示しになりました。十字架の出来事は2000年前に行われて、天に昇られました。しかし、私たちを救う御業は、今も続けられています。私たちの足を洗って下さる出来事は今も続いているのであります。悪魔の虜になっている私たちを解放する御業は、今も続いているのであります。イエス様は私たちの足が汚れているのを、見過ごすことが出来ないお方であります。イエス様は今も、私たちの汚れを丁寧に拭いとって下さろうとしておられるに違いありません。

3.わたしがあなたを洗わないなら

4節から5節にかけて主イエスが席から立ち上がられるところから、手ぬぐいでふき始められるところまでの仕草が一つ一つ丁寧に記されています。弟子たちは、「何で?」という驚きの思いで、主イエスの仕草を見ていたのでありましょう。

シモン・ペトロのところに来られた時に、ペトロは思わず質問いたしました。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」。すると、主イエスはお答になりました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」

ペトロがこの意味を理解するのは、十字架と復活の出来事の後になってからでした。私たちは今、主イエスが弟子たちの足を洗われたのは、十字架のことを表わしているということを知っております。しかし、主イエスが私たちの足を洗っていて下さることの意味が、本当に分かっているのでしょうか。なぜ主イエスは今日も、こうして聖書の御言葉を通して、私たちに関わろうとしていて下さるのでしょうか。なぜ、主イエスは敢えて私たちの汚れた足を洗おうとなさって下さるのでしょうか。私たちは、<足の汚れくらいは、主イエスに洗っていただかなくても、自分で洗うことも出来ます、自分には色々と問題点があるのは分かっていますが、わざわざ主イエスのお手を煩わすには及びません>と言いたいのではないでしょうか。そこには傲慢な思いが潜んでいます。

ペトロは言いました。「わたしの足など、決して洗わないでください」。ペトロは、<足を洗うことなどは、イエス様のなさることではない>と思いました。恐れ多いと思ったのでしょう。しかし、それは思い違いでありました。主イエスはおっしゃいます。「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」

主イエスは、私たちの足を洗うために、わざわざ来て下さり、十字架に架かって下さったのであります。私たちが悪魔の虜になっていることをお見逃しになることが出来ないのであります。私たちの魂の汚れを何としても落としたいと思っておられるのであります。そのためには、御自分の命も惜しいとは思われないのであります。私たちは自分の足の汚れをそれほど気にしていないかもしれません。気が付いていても、自分で何とか出来ると思っているかもしれません。しかし、主イエスは私たちの汚れが簡単には落ちないことを知っておられます。主イエスにしか洗い落とせない汚れであります。主イエスはその汚れを落すためにこそ、この世に来られ、また私たちと関わろうとされているのであります。ここで、主イエスに洗ってもらわなければ、主イエスと何の関係もなくなってしまうのであります。

4.皆が清いわけではない

ここでシモン・ペトロは言いました。「主よ、足だけでなく、手も頭も」。このとき、ペトロは主イエスのおっしゃる意味がまだ分かっていなかったのでしょう。主イエスは、足を洗うということで、十字架のことを言おうとされているわけです。十字架がなければ、主イエスとペトロとの関係は何もなくなってしまいます。

しかし、このペトロの言葉を受けて、主イエスはこうおっしゃいました。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」

この言葉は、非常に難解な言葉であるとされています。「既に体を洗った」というのは、どういう意味でしょうか。色々な理解がありますが、一つの手懸りは、15章3節の言葉であります。こう言っておられます。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と。つまり、主イエスの御言葉を聞く者とされたことによって、既に清くされている、とおっしゃっているわけであります。主イエスは既に救いの御計画に入れておられる、ということであります。私たちで言うなら、信仰告白をして洗礼を受けた者は、既に神の国の名簿に名前を記された者であります。それは全身が清められたと同じであります。しかし、救いの約束というのは、機械的なものではありません。私たちはまだ、現実の世界に生きているのであります。私たちの足は汚れた地についているのであります。悪魔の誘惑をまだ受けているのであります。私たちの足は日々汚れているのであります。それは小さなことではありません。それを主イエスの十字架によって洗い落としていただかなければ、天国に入ることはできません。足を洗うということを、聖餐の式になぞらえる解釈があります。既に洗礼を受けた者であっても、地上にいる限り、聖餐の式を受けることによって、主イエスの十字架の恵みを繰返し思い出さなければなりません。そのように、日々主イエスに足を洗っていただかなければ、最終的な救いに与かることが出来ないということであります。

ところで、最後にまた主イエスは厳しい現実を語っておられます。「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」――この意味は11節に解説されているように、直接的には、主イエスを裏切ろうとしているユダのことであります。しかし、先程も申しましたように、ペトロも裏切るのであります。私たちはいつも、ユダになる危険性を持っているのであります。永遠に神の国に入ることが出来なくなる可能性を持っている者たちであります。そんな汚れをもっている者たちであります。

では、ユダはこの時、主イエスから足を洗ってもらわなかったのでしょうか。だから裏切ったのでしょうか。おそらくそうではないでしょう。弟子たちは全員、足を洗っていただいたでありましょう。主イエスはユダのためにも、十字架にお架かりになったのであります。主イエスはペトロだけでなく、自分を裏切ることを知っておられるユダのためにも、命を棄てられたのであります。ペトロだけではなく、ユダのためにも愛し抜かれたのであります。しかし、ユダは最終的にその愛を受け止めることが出来ませんでした。私たちはこの現実を厳しく受け止めなければなりません。そして、今日も、私たちの足を洗おうとしていて下さり、私たちを愛し抜こうとされている主イエスの愛を、喜んで受け止める者となりたいと思うのであります。

5.互いに足を洗い合わなければならない

・さて、ここまでお話ししたことは、11節までに書かれていることであります。ここまでで主イエスが弟子たちの足を洗われたことを通して語られている、愛のこもったメッセージを聞くことが出来ました。ここで説教を終わっても構わないし、そういう説教も多いのですが、今日は、更に続けて主イエスが弟子たちにお話になったことを合せて聴いてみたいと思います。

12節には、こう書かれています。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。」――弟子たちは主イエスが順に足を洗っておられる様子をじっと見ていたと思います。そして最後に「皆が清いわけではない」と言われたことに、ドキッとしながら心を痛めたにちがいありません。そして、主は静かに、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」と問われました。7節では、「今あなたには分かるまい」とおっしゃいました。弟子たちには十字架のことなど、まだ分かっていません。自分たちも裏切る者であること、十字架によって贖われなければならない者であることが、分かっていません。この主イエス言葉には、深い悲しみが込められています。私たちも、足を洗われたのは十字架のことを表わされたのだということは分かっていても、私たちが十字架によって贖われなければならない者だということをどれだけ分かっているのか、主イエスは私たちにも深い悲しみをもって、同じことを問うておられるのではないでしょうか。

・その後、主イエスは、<足を洗ったのは十字架を表すのだ>というような説明をされません。主イエスは続けてこう言われました。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」――先生である主イエスが模範としてして下さったことは、弟子である者は同じようにしなければなりません。互いにどちらが上だ、下だというような争いをせずに、互いに謙遜になって、足を洗え、ということなら、ある程度の真似事が出来るかもしれません。しかし、弟子たちがこの時どこまで分かっていたかは別にして、足を洗うということが十字架のことを表しているとすれば、「互いに足を洗い合う」というのは、<互いに十字架を負い合う>ということであります。<十字架を負う>とは、恥を負うことであり、苦しみ・痛みを負うことであり、相手の罪を赦すということであります。そのように、<足を洗え>というお言葉は、大変厳しい要求であります。実際に私たちが誰かに恥を負わされたり、痛い目に合わされたりした時に、その人を赦せるかということを考えると、この主イエスの御命令は、大変厳しいものであります。<とても出来ない>と思ってしまいます。

・しかし、主イエスは、私たちの恥を負って下さったのであります。私たちの苦しみ・痛みを御自分の苦しみ・痛みとして十字架の上で負って下さったのであります。そして、神と主イエスに対する私たちの重い罪を赦して下さったのであります。主イエスが泥まみれになって私たちの足を洗って下さったのであります。だから、あなたがたも互いに洗い合いなさい、とおっしゃるのであります。

結.主を受け入れる者の幸い

16節で、「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」といわれています。「遣わした者」とは主イエスのことであり、「遣わされた者」とは私たちのことであります。私たちが主イエスにまさっていないのは、はっきりしています。主イエスと同じような十字架を負えと言っておられるのではない、ということです。しかし、続いて17節では、「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」とおっしゃっています。私たちが負うことの出来る十字架は、主イエスの十字架の何分の一、何万分の一にも満たないものかもしれません。しかし、主イエスが私たちの足を洗って下さったのだから、私たちも私たちなりに互いの足を洗うことが実行できるのであります。そして、私たちなりに実行するなら、「幸いである」と言って下さるのであります。主イエスは、私たちが洗い足りない分も、洗って下さるということでありましょう。
・祈りましょう。

祈  り
 ・主イエス・キリストの父なる神様!

・私たちの汚れた足を洗い清めるために、主イエスをお遣わし下さいましたことを、心から感謝いたします。

・どうか、この主イエスの大きな愛の御業を、ほんの少しでも実際の生活の中で見習って、人の恥を負い、痛みを分かち、罪を赦すことが出来る者とならせて下さい。そうすることによって、主の愛を、より深く覚えさせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年10月11日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書13:1-20
 説教題:「互いに足を洗え」
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