序.嘲る者らよ

・今日与えられている御言葉はイザヤ書2814節以下ですが、その冒頭に、(あざけ)る者らよ、と呼びかけられています。同じ言葉が箴言(122)にも出て来ますが、そこでは「不遜な者」と訳されています。どういう人たちでしょうか。2行目には、エルサレムでこの民を治める者らよ、とありますから、南王国ユダの王ヒゼキヤや政治指導者と考えられます。前回聴いた7節以下では祭司や預言者が槍玉に上がっていましたから、ここでもそうした宗教指導者が対象になっていると見る学者もいます。

・ユダ王国をめぐる当時の状況については、これまでにもお話して参りましたが、既に北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされており、アッシリアの圧力が南王国にも及んで来る中で、ユダの指導者たちは大国エジプトと同盟を結ぼうとするのであります。そのような政策は、宮廷のおかかえ預言者たちによっても支持されていたのでありましょう。その中で預言者イザヤは、再三にわたって警告を発して、ただ主なる神に依り頼むべきことを告げるのでありますが、彼らはそれを理想主義だと嘲って、自分たちこそ現実的で、責任ある判断をしているとして、耳を貸そうとしないのであります。

・それに対してイザヤは、嘲る者らよ、主の言葉を聞け、と言います。人間が現実的だと思う判断よりも、神の言葉を信じて、それに聞き従うことの方が確かだ、と言うのであります。

・私たちもまた、現実の生活の中で何らかの判断を迫られたとき、この世の知恵や力に頼ってしまって、神様の御心を尋ねることをしないことがあるのではないでしょうか。それは主を嘲ることになります。今日は、イザヤがユダの指導者たちに語った言葉を通して、主の言葉に聞くことの確かさを学びたいと思います。

1.死と結んだ契約/陰府と定めた協定

・まず、15節は、お前たちは言ったと、ユダの指導者たちの言い分が紹介されています。彼らは言います。「我々は死と契約を結び、陰府と協定している。洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない。我々は欺きを避け所とし、偽りを隠れがとする」。

・「死と契約を結ぶ」とか「陰府と協定している」というのは、彼らの言ったことをそのまま引用しているのではなくて、エジプトと同盟を結んでいることは死の危険を確実にするようなものだという意味で、イザヤが皮肉っぽく表現したものか、或いはエジプトではピラミッドで分かりますように、死後の世界に対する関心が深くて、「オシリス」という神が生死を司り、死後の世界に君臨していると考えていましたから、その神の支配下にあるエジプトと同盟を結んでいるから安心だ、という意味かもしれません。いずれにしろ、ユダの指導者は大国エジプトと同盟を結んでいるので大丈夫だと考えていたようです。「洪水がみなぎり溢れても、我々には及ばない」と言っていますが、「洪水」とはアッシリアの攻撃のことで、たとえアッシリアが洪水のごとく押し寄せて来ても、エジプトが味方ならば滅ぼされることはない、というのであります。「欺きを避け所とし、偽りを隠れがとする」とは、イザヤの皮肉で、<エジプトが守ってくれるなどというのは欺きに過ぎず、偽りである>と、イザヤは言いたいのでありましょう。

・実際の歴史は、どのような経過を辿ったかというと、エジプトと同盟を結んだことでアッシリアの反感を買い、攻め込まれることになるのでありますが、エジプトは援軍を差し向けたものの撃退されて助けにはならず、結局ユダはエルサレムの征服を免れるために、重い貢ぎ物をアッシリアに支払わなければならなかったのであります。そしてユダはアッシリアとエジプトとの緩衝地帯として利用されることになるのであります。

・このようなユダの失敗の歴史を現代の日本に当てはめて、アメリカとの同盟関係を云々することは、聖書の適切な読み方ではないかもしれません。しかし、軍事力の傘に頼って、神様の御支配を信じないことに対するイザヤの警告には耳を傾けなければなりません。また、もっと卑近な私たちの人生の中で、例えば就職先や結婚の相手を決める時に、<寄らば大樹の陰>という考えで、この世的な安定を選ぶのか、神様が備えて下さる道を信仰をもって受け入れるのかが問われることになるのではないでしょうか。老後の生活についても同様であります。小金の蓄えがある、体も自分なりに健康に心がけている、家族や親しい仲間とも良い関係にあるということで安心してよいのでしょうか。しかし、誰も死と契約することは出来ないし、どんな災難に遭遇するかも分からないのです。信仰を持っていても、災難は避けられないかもしれませんし、誰も死を免れることは出来ません。しかし、どんなことが起こるとしても、すべてが神様の御支配のもとにあり、最も良い道を備えて下さることを、御言葉をもって信じているならば、何も恐れることはない筈であります。

2.試みを経た石

16節は、神様への信頼の基礎として据えられる「一つの石」のことが語られています。「シオン」とはエルサレム神殿のある丘のことでありますが、世の権力に依り頼むエルサレムと対照的に、神に依り頼む場所を指しています。「試みを経た石」とは、十分使用に耐えるかどうか、よく試された石、という意味です。灼熱の太陽や激しい風雨に曝されても耐えて、風化しない石であります。そのような石が堅く据えられた礎(いしずえ)とされるのです。貴い隅の石」の「貴い」とは、<二つとない>という意味です。原文では頭に、「見よ」という言葉をつけて強調されています。

・このように言われている石とは何を指しているのでしょうか。

それは、神様と神の民との信頼関係の礎(いしずえ)として据えられる要石、即ち、出現が待たれていた救い主メシアを指し示していると考えてよいでしょう。新約聖書の時代になると、それはイエス・キリストのことだと理解されるようになりました。そして、シオンとはその石を土台として建てられる新しい神殿としての教会であります。先ほど朗読いたしました新約聖書のペトロの手紙は、6月末の礼拝で取り上げた箇所ですが、そこでは、このイザヤ書の言葉が引用されていて、主イエス・キリストこそが、「生きた石」であって、そこに私たちキリスト者自身も生きた石として用いられて、霊的な家、すなわち教会が造り上げられる、ということが書かれていました。ご承知のように、シモン・ペトロが初めて主イエスを、「あなたはメシア、生ける神の子」と告白致しました時に、主イエスは、ペトロ=岩という名前をお与えになり、その岩の上に教会を建てるとおっしゃいました。主イエスは「試みを経た石」であります。サタンの試みを受けて勝たれた石、最終的には、十字架の試練をもお受けになった「救いの岩」であります。その礎の上に教会が建てられたのであります。そこに神様は、どんな事があっても揺るがない、本物の「避け所」、「隠れが」を造られたのであります。

16節の終わりに、「信じる者は慌てることはない」と言われています。ユダの指導者たちは、アッシリアの脅威に慌てました。私たちもまた、不気味な北の国の動きや、洪水のように襲ってくる不況の波や、キリスト教会を押し潰してしまいそうに見える時代の波に慌てて、この世で強いとされるもの、元気そうに見えるものに目を奪われて、それに頼ってしまいがちであります。しかし、確かそうに見えたエジプトも、いざとなると何の支えにもなりませんでした。どのような嵐が来ても、どのような試練に遭遇しても、確かなのは、シオンに据えられた一つの石、十字架の試練を経た、主イエス・キリストという貴い隅の石であります。この石を信じる者は、慌てることはないと言われるのであります。

3.嘲ることをやめなければ

17節には、わたしは正義を測り縄とし、恵みの業を分銅とする、とあります。これは16節で「一つの石をシオンに据える」と言われたことと関係があります。「測り縄」と「分銅」というのは、建物が狂いなく正確に建てられているかどうかを調べる道具であります。礎になる石が歪んで据えられたのでは、建物全体が傾いてしまいます。救い主メシアが正しく位置づけられていないと、神の民全体・教会全体が歪んでしまうのであります。その正しさを測る基準となるのが、「正義」の測り縄と「恵みの業」の分銅であります。「正義」というのは、「公平」とか「裁き」とも訳される言葉で、律法的な正さを意味します。「恵みの業」というところは、「義」とか「正義」とも訳される言葉なのですが、「救い」とか「恵み」という意味も込められているので、新共同訳聖書では、思い切って「恵みの業」と訳されています。つまり、律法的な正さと、それを実現する救いの恵みの業とを基準にして、神の民や教会の信仰の歪みが、測られるということであります。

・ユダの民は、律法を守るという点においても、神様の救いの業を信じる姿勢においても、問題があったということなのでしょう。17節後半から22節までは、ユダに対する裁きの言葉が連ねられています。雹は欺きという避け所を滅ぼし、水は隠れがを押し流す、と言われています。「雹」とか「水」はアッシリア軍の攻撃を表しています。エジプトを避け所とし隠れ家としようとしましたが、エジプトは守ってくれませんでした。欺きの避け所、偽りの隠れ家に過ぎなかったのであります。

18節で、お前たちが死と結んだ契約は取り消され、陰府と定めた協定は実行されない、洪水がみなぎり、溢れるとき、お前たちは、それに踏みにじまれる、と言われているのは、15節に対応しています。エジプトと同盟を結ぶことで、死を回避でき、アッシリア軍の洪水のような侵略も防げると思っていたけれども、そのような期待は、あっさりと踏みにじられたのであります。

19節も同じ主旨で、朝ごとに溢れ、昼も夜も溢れる、という表現で、アッシリアによる滅亡の恐怖から覚めやらぬ状況が述べられています。20節の、寝床は短くて身を伸ばすことができず、覆いは狭くて身を覆うことができない、というのは、諺の引用ですが、周辺の国々との同盟による安全は不完全で、身も心も休まらないことを表しています。

21節の、主はベラツィム山のときのように立ち上がり、ギブオンの谷のときのように憤られる、というのは、どちらも、かつて、イスラエルが勝利したときのことですが、今回はユダに神の裁きが下されるので、御業は未知のもの、その働きは敵意あるもの、と語られているのであります。

・そして、22節で、今、嘲ることをやめなければ、お前たちの縄目は厳しくなる、わたしは定められた滅びについて聞いた、それは万軍の主なる神から出て国全体に及ぶ、と、神の裁きがユダの国全体に及ぶことを告げるのであります。

・これらはまた、自分の考えから離れず、この世の力に頼って、神を信頼しない私たちに対する警告でもあります。救い主イエス・キリストが、一人一人の生活の中に、また教会の歩みの中に、「生きた石」として、きっちりと据えられていなければ、私たちが頼っていたものに裏切られて、神の裁きをも受けることになってしまうのであります。その裁きは、一個人、一教会に留まるのではなく、国全体、教会全体に及びかねないのであります。

4.主の大いなる計らい

23節以下は、一転して、神様の多様で大きな計らいについて、農夫の作業に譬えて語られています。

2425節では、種を蒔くために、耕す者は一日中耕すだろうか、土を起こして、畝を造るだけだろうか、畑の面を平らにしたなら、いのんどとクミンの種は、広く蒔き散らし、小麦は畝に、大麦は印をしたところに、裸麦は畑の端にと、種を蒔くではないか、と種を蒔くためにも色々な作業があって、前段として、耕したり、畝を造ったり、土を起こす作業があるし、種の蒔き方も穀物の種類によってそれぞれ異なる、ということを言っております。26節では、そのように、神様の御言葉の種蒔きにも、それぞれにふさわしい仕方を示し、教えられる、ということを言っているのであります。

27,28節は、収穫の仕方について述べています。いのんどは打穀機で打たず、クミンの上に打穀車を引き回すことはない、いのんどは棒で打ち、クミンは杖で打つ。穀物はいつまでも打穀して砕くことはない、打穀車の車輪と馬がその上を回っても、砕き尽すことはない、と言います。いのんどクミンというのは実が薬味や薬に用いられる植物ですが、その打穀の仕方はそれぞれ違うし、その実を砕き尽すようなことはしないように、神が裁きを行われるときも、一様な仕方で臨まれるのではなく、全てを滅ぼし尽くされるのではない、ということを言っているのでありましょう。

29節の最後の2行は、23節からの段落の結論でありますが、今日の箇所全体の結論でもあります。主の計らいは驚くべきもので、大いなることを成し遂げられる、と言っております。ユダの人々は、この世的な策を講じて、失敗をしてしまいました。アッシリアはユダの国に洪水のように侵入して来たのであります。しかし、結果的にはエルサレムは滅亡を免れました。

・それには、多額の貢ぎ物を出さないといけないということもありましたが、アッシリアはエルサレムを滅ぼし尽くすよりも、エジプトとの間の緩衝地帯として残しておいた方が得策だという判断をしたようであります。このように、大国の政治的な思惑が働いて、この時は滅亡を免れたのでありますが、その背後には、神様の驚くべき計らいがあったのだ、ということをイザヤは語りたいのだと思います。

・「主の計らい」とは、どういうことでしょうか。「大いなることを成し遂げられる」とは、何のことを言っているのでしょうか。単に、アッシリアの脅威から一時的に解放されるということではないでありましょう。16節の言葉に戻らなくてはなりません。主が、「一つの石」「試みを経た石」をシオンに据えられるということこそが、「主の計らい」であり、「大いなることを成し遂げられる」と言われていることであります。神の民の中に、救い主メシアを遣わされるということ、教会の礎として、イエス・キリストを据えられたということ――それが、人間の浅はかな知恵や神に信頼しようとしない不信仰に代わって、神が備えて下さった貴い救いの御業なのであります。

結.聞け、わたしの声に

・今日の冒頭の14節で、「嘲る者らよ、主の言葉を聞け」と呼びかけられ、23節では、「聞け、わたしの声に耳を向けよ。聞け、わたしの言うことに耳を傾けよ」と命じられています。

・私たちは、神を信頼しないで、神の守りを嘲るかのように、この世の力に頼ろうとする者であります。しかし、そこで見られるのは、慌てて右往左往し、不安と恐れから抜け出せない愚かな私たちの姿であります。けれども神様は、今日もう一度、神の言葉に耳を傾けるように呼びかけて下さっています。

・神の言葉に導かれて、シオンに据えられた「一つの石」である主イエス・キリストを信じる者は、何が起ころうと、慌てることはありません。大事なことは、自分の思いの中に閉じこもるのではなく、主の言葉に耳を傾け、主の声に聞き続けることであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・主イエス・キリストの父なる神様!

・今日も、預言者イザヤを通して、御言葉を聞かせて下さいましたことを感謝いたします。

・どうか、あなたが堅く据えて下さった、貴い石から離れることがありませんように。他のものに心を引かれがちな私たちを、絶えず主の御言葉のもとへ、呼び戻して下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>   2009年10月4日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書28:14−29
 説教題:「信じる者は慌てない」
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