序.病による不安と恐れ

・もうだいぶ前から、「健康ブーム」であります。テレビでも、どうすれば健康を維持・増進出来るかをテーマにした番組が多いですし、色々な健康グッズや健康食品が開発され、売られています。なぜ健康がブームになるかと言えば、それは健康不安の裏返しであります。高齢化社会になったということは、みんなの健康が増進して、寿命が延びたということなのですが、その反面、健康に対して不安を覚えながら過ごす期間も長くなったということかもしれません。

・病気というのは、誰も避けることが出来ません。体の強い弱いはあっても、病気を経験しない人はありません。いくら健康に留意していても、遅かれ早かれ、病気になることを免れられません。医学がどんどん進歩して、治らないと思われていた病も治るようになりましたが、また新しい病が登場します。医学が進歩するほど、病原の方が強くなって、治り難くなるということもあります。

・病気は体を蝕(むしば)むだけでなく、しばしば心をも蝕みます。病気は心に恐れや不安をもたらせます。実際、病気になると行動や生活の自由が奪われます、それが経済的な困難をもたらすことになるかもしれません。周りの人にも迷惑を及ぼしかねません。人生自体が破壊されかねません。そして、その先には死が待っています。すぐにそこまで行かず、病気が癒され、健康を取り戻すことも、もちろん多くあるのですが、再び病気にならない保障はないし、一生、病気と付き合わなければならないケースも少なくありません。身近にそういう人を抱えている方もおられるでしょう。

・一旦病気になれば、薬を飲んだり、医者に行ったり、あらゆる手を尽すでしょう。信仰を持っている人であれば、神様に祈ります。それでも、必ずしも治るとは限らないのが病気であります。そのような時に、信仰が問われます。<神様はなぜ、このような苦難を放置されるのだろうか>、<このような目に遭うのは、神様のお気に入らないことをした罰だろうか>、<いや、神様は精神世界や頭の中だけの存在で、生身の人間の体や心の病には関わられないのではないか>、などと思ってしまうのであります。

・先ほどマルコによる福音書2章の1節から12節までを読んでいただきましたが、その前後には、イエス・キリストが病を癒されたという記事が沢山あります。121からの段落の小見出しは、「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」となっていて、精神的な病の男が癒されたことが書かれています。129からの段落は、「多くの病人をいやす」とあって、主イエスの弟子であるシモンのしゅうとめを初め、「いろいろな病気にかかっている大勢の人たち」を癒されたことが記されています。140からの段落では、重い皮膚病を患っている人が癒されたことが書かれています。聖書の中には、これ以外にも沢山の癒しの物語が記されています。

・これらの出来事は、作り話ではありません。聖書を読んでいただくと分かりますが、その場の実際の状況が驚きをもって伝えられています。主イエスが病人に声をかけ、手を取り、患部に触れてお癒しになったのであります。主イエスが持っている雰囲気や言葉に圧倒されて、治ったような気になったのではありません。実際に治ったことが誰の目にも明らかになったのであります。主イエスは人の病を癒すことの出来るお方であります。

・しかし、主イエスは医者ではありません。病気を癒すためにこの世に来られたのではありません。主イエスはもっと大きい使命をもってこの世に来られました。人間が持っている問題は病気だけではありません。もっと大きな根本的な問題があります。それは、神様との関係が病んでいるということであります。神様を信じられない、神様に自分を委ねられないという問題であります。病気になって私たちが苦しまなければならないのは、痛いとか気分が悪いとか、体が思うように動かせないということも、もちろんありますけれども、先ほども申しましたように、病気は私たちを不安や恐れに陥れ、私たちの心を蝕むからであります。病気になって神様を思い出すということはあります。日頃、健康なときには神様のことを忘れていても、病気になると、神様のことを思い出して祈ります。しかし、簡単に治らないと、また不安になってしまいます。神様なんて当てにならない、気休めに過ぎない、などと思ってしまいます。病気になって明らかになるのは、私たちの不信仰であります。神を信頼できない罪であります。この罪こそが主イエスに癒していただかなければならない根本的な人間の病であります。その病が癒されなければ、人間は真に健康であるとは言えないのです。

・先ほど読んでいただいた21節以下に記されている物語は、一つの癒しの出来事でありますが、ここには、中風という肉体の病の癒しと共に、罪の癒しが行なわれたことが書かれています。今日は、この記事を通して、私たちのの両方を癒される主イエスを仰ぎたいと思うのであります。

1.イエスのもとに
 ・前置きが長くなりましたが、本文を見て行きたいと思います。

 先ほど第1章に、いくつかの癒しの出来事が書かれているのを見ましたが、それらが行なわれたのは、カファルナウムという町でした。それから数日間、主イエスはその町を離れておられたようですが再びこの町に帰って来られて、ある家に入られますと、そのことがたちまち知れ渡って、大勢の人が集まって来ました。戸口の辺りまですきまもないほどになった、と書かれています。主イエスに対する期待の大きさが伺えます。数日前の驚くべき癒しの御業を見て、自分も病気を治してほしいと思ってやって来た人も多かったでしょう。そんな人ばかりでなく、122節には、主イエスの教えが普通の先生のように知識の受け売りではなく、権威ある者としてお教えになったので、人々は非常に驚いたということが書かれていますので、主イエスのお話を聞きたいと思ってやって来た人も多かったでしょう。

・皆さんは、今日はどういう期待をもってここにやって来られたでしょうか。少し教会のこと・キリスト教のことが分かっておられる人なら、キリスト教は御利益宗教ではない、ということを知っておられます。<キリスト教を信じたら、病気が治ります>とか、<教会へ来たら入学試験に受かります>とか、<献金をしたら、商売が繁盛します>というようなことは、まともなキリスト教では言わないということは、皆さん御存知でありますから、そんな期待はなさらないと思います。

では、どんな期待をもって来られたのでしょう。今日のお話の題が「ほんとうの癒し」となっていますので、体の癒しが与えられるのではないにしても、心の癒しになるような話が聞けるかもしれない、と思って来られた方はおられるかもしれません。現代は癒しが求められる時代だと言えます。ストレスの多い現代にあって、音楽にしろ、絵にしろ、本や映画にしろ、癒し系のものが好まれる傾向があるようです。キリスト教の話には、本物の癒しがあるのではないか、という期待があるかもしれません。あるいは、単に心が慰められるというようなことではなくて、不景気で先行きが見えないという閉塞感が漂う世の中にあって、元気が出るような話が聞きたいと思っておられるかもしれません。

・主イエスのもとに大勢の人が集まったのも、病気を癒してもらいたいということも含めて、心の癒しや、元気をもらうことから、時代を切り開く指導者の登場への期待に至るまで、様々な期待を抱いたからであります。

・さて、主イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来ました。「中風」というのは古い呼び名ですが、脳卒中のことで、脳の血管が破れたり詰まったりしたために、手足が自由に動かなくなったり、モノが言いにくくなる病気です。今でも高齢者を中心に発症率の高い病気で、一旦患うと、リハビリに取り組んでも、完全に治りきるのが難しい病気です。「四人の男」というのは、親族なのか友人なのか分かりませんが、自分では動くことも出来ない病人を、何とか治してやりたい、イエス様なら治して下さるに違いない、との思いで、床に寝かせたまま、運んできたようであります。

・しかし、戸口の辺りまですきまもないほどの群衆に阻まれて、主イエスのもとに連れて行くことができません。そこで、男たちは大胆な行動に出ました。イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしたのであります。ユダヤの家では、外に屋上に上がる階段がついていたので、屋根に上がることは容易でありました。屋根の構造も比較的簡単にはがせるものだったようであります。それにしても、他人の家の屋根をはがすとは、大胆であります。壊した破片がバラバラと人々の頭の上から落ちたことでしょう。何とか病人を治してやりたいとの気持ちは分かりますが、非常識な行動であります。人々は、<何てひどいことをする>と思ったことでしょう。

2.あなたの罪は赦される

・ところが主イエスは、5節にありますように、その人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのであります。――皆さんは、このイエス様のお言葉をどう受け止められるでしょうか。このお言葉に今日の箇所の焦点があります。このお言葉をどう聞くかが、今日のお話の鍵になります。

・まず、イエス様は「子よ」と呼びかけられました。この呼びかけにはイエス様の深い愛情が込められています。床の上に寝かされたままの病人を御覧になって、その病気の辛さや不安をすぐ思い遣られたことでしょう。先ほども申しましたように、体の病気は心をも蝕みます。不安や恐れの中で、神様に対する不信仰が頭をもたげて来ます。そのような試みの中にある病人を、主イエスは深く思い遣りながら「子よ」と呼ばれたのであります。

・そして主イエスは、「あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。皆さんの中には、<この言葉はちょっと変だ、ずれている>、と思われた方がいらっしゃるかもしれません。病気の人や四人の男の人たちが望んでいることは、中風の病気が癒されることであった筈です。それなのに主イエスは、病気のことには直接触れずに、罪のことをおっしゃるのです。なぜでしょうか。

・主イエスは中風の人が病気に苦しんでいることを憐れまれます。しかし、それ以上に、彼が不安や恐れの中にあることを憐れまれます。不安や恐れの中で、神様への信頼が揺らぐことを心配されます。彼にとって病気が癒されることも大事だけれども、神様への信頼が壊れないことの方が大事なのです。中風の人は、「あなたの罪は赦される」という言葉を聞いて、ハッとしたと思います。自分が不安の中で神様のことを忘れかけていたこと、罪の中に陥っていたことに気づかされたのではないでしょうか。それと同時に、その罪が赦されるという主イエスのお言葉に、大きな慰めを受け、病気に対する不安も和らいだのではないでしょうか。

5節をよく見ますと、イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた、と書かれています。彼らの信仰を評価されたのであります。「その人たち」の中に、中風の人本人が入るのかどうかには、議論があります。先ほど申しましたように、この中風の人は辛い病気のために信仰がぐらついていたからこそ、主イエスは「あなたの罪は赦される」と言われたのであります。だから、主イエスは病人を連れてきて屋根まではがす大胆な行動をした四人の男たちの信仰を評価されたのだと見ることも出来ます。しかし、考えてみれば、この四人の男の人たちも、ただ病気で苦しんでいる中風の人を何とかして助けたい、自分たちにはその力はないが、主イエスのところに連れていけば癒して下さるに違いない、と思っていただけであって、<罪と死から救い出して下さる主イエスを信じる>という明確な信仰ではなかったと思われます。ご利益信仰の域を出ていなかったと言ってよいかもしれません。彼らの熱意の裏側には、疑いも隠れていたかもしれません。そういう点では、中風の本人と同様に、不十分な信仰であったのです。しかし、主イエスは、本人を含めて彼らの中に信仰を認められたのであります。彼らの藁にもすがりたい気持ちや熱心さ=(イコール)信仰と認められたのではありません。主イエスがそこにおられ、彼らの思いが主イエスに向かっていることを信仰と認められたのであります。主イエスが彼らの思いを信仰へと導き上げられたと言ってもよいかもしれません。彼らの不安や恐れや不信仰をも、全部主イエスが担われて、「あなたの罪は赦される」と言われたのであります。

・私たちも、様々な不安や恐れの中にあります。癒される見通しが立たない病を背負っている方がおられるかもしれません。高齢の方は、やがて迫ってくる死への恐れがあります。そのような中で、私たちは、この病人や四人の男のように、主イエスのところへ、その問題を持ち込もうとはしていないかもしれません。彼らの信仰ほどにも届いていないかもしれません。しかし、主イエスは、そのような私たちにも、今日、「あなたの罪は赦される」と言って下さっています。<あなたの不安や恐れは、私が一緒に担っているよ>とおっしゃって下さっているのであります。

3.律法学者の罪

・しかし、そういうあなたは本当に信用できるのですか、どういう権威で、あなたはそう断言できるのですか、という疑問が湧き上がって来ます。それが6節以下の律法学者と主イエスとの対話であります。律法学者というのは、聖書(旧約聖書)に記されている律法のことをよく調べ、それを忠実に守っていることを誇りとしている人たちです。彼らは、主イエスが言われたことに引っ掛かっています。そして、心の中で考えます。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒?している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」――彼らがこう考えたのは、聖書に基づいた正当な考え方であります。罪を赦すことが出来るのは、神様だけで、人間が罪を赦すことが出来ると考えるのは、神様を冒涜することになります。

 ここで「罪」というのは、あれこれの悪い行いと言うよりは、神様の方を向いていないこと、神様に委ねていないこと、神様の御心に従わずに、自分で何とかしようとすることであります。誰でも、そのような罪を持っています。ユダヤ人は、神様から罪を赦していただくために、神殿で犠牲の動物を献げたり、様々な祭儀行為が必要だと考えていました。それなのに、主イエスは、そうした手続きを飛び越えて、「罪は赦される」と宣言されるのは、越権行為であると思ったとしても当然でありました。彼らは、主イエスが神から遣わされた神の独り子、人間を罪の縄目から解放する救い主であるとは認めていなかったのであります。そこが、彼らの第一の引っ掛かりであります。

・彼らの第二の引っ掛かりは、「罪は赦される」なんて、口先だけで言うのは易しいが、中風の病が癒されなければ何にもならない、という点です。「罪が赦される」なんていうことは、目に見えることではないから、言うのは易しいが、何の助けにもならないのではないか、という疑問であります。――こうした引っ掛かりや疑問は、ユダヤ人だけでなく、私たちのものでもあります。

・私たちも、「罪を赦す」というようなことを、簡単に言ってもらっては困ると考えます。人が犯した罪は、曖昧にされてはならず、正しく裁かれなければならない、と考えます。人間の不安や恐れは神を信頼しない罪から来るのかもしれないが、世の中の不安や恐れが、「罪を赦す」などという一言で片付くものではない、と思います。また、現実の病気や苦しみから解放されて、実質的に幸せになるのでなくて、ただ罪が赦されて気持ちが軽くなるというだけでは、あまり有難くないのではないか、と思ってしまいます。そして、主イエスにだって、手に負えない病があるのではないか、と疑ったり、諦めたりしてしまうのであります。

・しかし、主イエスは、そのような心の中をちゃんと見抜かれる方であります。律法学者が心の中で考えていることを見抜かれた主イエスは、こう言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」8b−9)―――どちらが易しいでしょうか。「罪は赦される」と言う方が、目に見えないことですから、易しいのでしょうか。罪が赦されるとは、<神様との破れた関係が回復すること><神様の方に向き直ること>であります。それは、私たちにとっては、中風が癒される以上に困難なことです。私たちの心は普段、神様から離れて、自分本位のこと、自分の幸せのことだけを考えています。せいぜい、必要な時だけ神様を利用しようとするのが、私たちの実態です。「どちらが易しいか」という問いは、言葉を変えれば、「どちらが大切か」ということであります。大切なのは、私たちが癒されることよりも、私たちの幸せが得られることよりも、私たちの罪が赦されて、神様との関係が回復されることであります。そのことを主イエスは今、この問いかけによって語っておられるのであります。

・けれども、律法学者たちにも、私たちにとっても、病の癒しよりも罪の赦しが大切だということは、頭では理解しても、なかなか受け入れられません。まして、その罪が、イエス・キリストによって赦されるということが納得できないのであります。

結.起き上がって、床を担ぐ

・そこで主イエスは更におっしゃいます。10節以下です。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われます。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」すると、驚くべきことですが、その人は、お言葉通り、起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った、のであります。「人の子」とは主イエス自身のことです。主イエスの言葉は、単に口先だけではありませんでした。主イエスがおっしゃることは、その通りになるのであります。中風の人は、これまで、床から離れたくても起き上がれず、床に縛り付けられていました。しかし今や、自ら起き上がって、自分を縛り付けていた床を担いで、皆の前を歩き始めたのであります。

・「罪は赦される」ということも、主イエスがおっしゃる限り、口先のことではなくて、その通りになるのであります。主イエスが「罪は赦される」と私たちにおっしゃるとき、私たちと神様との間の深い溝は埋められます。そして、神様との良い関係が回復されるのであります。「罪を赦す権威」は、確かに、天の神のみが持っておられます。けれども今や、罪を赦す全権は主イエスに託されているのであります。そのことの証拠として、中風の人を癒されました。中風の人の病が癒されると同時に、彼を捕らえていた不安や不信仰の罪からも解放されます。これを見て、人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美いたしました。

しかし、当時の人々が、これほどまでに明瞭に、病の癒しと罪からの解放を目の当たりにしながら、主イエスが罪を赦し、病をも癒す権威を持っておられるお方であることを、そのまますんなりと了解したわけではありませんでした。それほどまでに人間の不信は根深いのであります。そのために、主イエスは人々の不信の罪を一身に背負って、十字架にお架かりにならなければなりませんでした。先ほど、旧約聖書のイザヤ書53章を朗読していただきました。これは、主イエスの時代よりも数百年前に、預言者イザヤが語ったものですが、その中に、主イエスの十字架を暗示する言葉が語られています4節から6節を読みます。

彼が担ったのはわたしの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:4−6)

 ここに述べられているように、主イエスは人々の罪と病の苦しみを担って、十字架にお架かりになったのであります。そして私たちを不安や不信仰の罪から解放して下さったのであります。

この主イエスが、今日、私たちに向けても、「あなたの罪は赦される」、言い換えれば、「私があなたがたと一緒にいるのだから、何も心配ない」と言って下さっているのであります。私たちや私たちの周りには、まだ、病いや様々の困難があって、私たちを萎えさせているかもしれません。将来の体の衰えや死に対する不安が、元気を失わせているかもしれません。病気だけでなく、人生における様々な不安、また、教会(伝道所)の将来に対する不安があるかもしれません。しかし、主イエスは私たちに、「私が一緒にいる。だから、罪は赦される、起き上がりなさい」と言われます。この主イエスの言葉に応えて、私たちを捕えていた罪を捨てて、立ち上がる者とされたいと思います。

祈りましょう。

祈  り
 ・憐れみ深い主イエスの父なる神様!

・あなたへの不信に陥りがちな私たちでありますが、その罪を赦すとの主イエス・キリストのお言葉をいただき、感謝いたします。

・私たちは日頃からあなたの守りの中にありながらも、そのことに気付かず、独りよがりの生活を続けております。どうか、お赦し下さい。どうか、様々な困難や不安の中にある時も、あなたが共にいて下さることを忘れることがありませんように、どうか、礼拝において御言葉を聴き続ける者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所特別伝道礼拝説教<全原稿>   2009年9月27日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書2:1−12
 説教題:「ほんとうの癒し」
          説教リストに戻る