序.主イエスの叫び

・ヨハネによる福音書の12章は、主イエスの宣教活動の最後の部分に当たります。多くの人々(群衆)への語りかけはここで終わって、13章以下では、専ら弟子たちだけに語られることになります。

・その最後の部分で、44節にありますように、主イエスは叫んで言われたのであります。口語訳聖書では「大声で言われた」と訳されていました。非常に大事なことを、万感の思いを込めて語られたということでありましょう。ヨハネ福音書で、これと同じ言葉は二回出て来ました。一つは神殿の境内で教えておられた時ですが、主イエスが何処の出身かということが問題にされていた時に、大声でこう言われました。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」(72829)――そこでは、主イエスが神様から遣わされたということが強調されていて、今日の箇所で言おうとしておられることに通じる発言であります。もう一箇所は、仮庵の祭が盛大に祝われていた日に、やはり大声で、こう言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(773738)――これも主イエスが何のためにこの世に来られたのかということを語られた印象深い場面であります。

・今日の箇所も、主イエスが何のためにこの世に来られたのかが語られているところであり、初めて聞くことではないのでありますが、これまでの総括として、非常に重要なことが集約的に語られている箇所ですので、思いを新たにして聴きたいと思います。

1.主イエスを見て、遣わされた方を見る

・まず、44節から45節にかけて、こう言われています。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」

・当時のユダヤの人々というのは、神を知らないとか、神を信じない人たちではなかったのであります。異邦人たちとは違って、自分たちは神に選ばれた民であり、神を信じ、神の言葉に従って生きていると思っていたのであります。そういう人たちのところへ主イエスが来られて、永遠の命に至る水を与えるとか、御自分が命のパンであるとか、世の光として来たということをおっしゃって、神から遣わされたメシアであることを示唆されたのですが、人々はそれが受け入れられずに、<お前は、ただのナザレ人に過ぎないではないか>とか、神を冒涜する者だとして反発したのであります。それに対して主イエスは、<あなたがたは本当に神様を知っていると言えるのか、本当に神様を信じていると言えるのか>と疑問を投げかけられて、<神様を知るとか、神様を信じるというのは、他でもない私を受け入れ、私を信じることに他ならないのだよ>ということを言い続けて来られたのであります。

ユダヤの群衆は、主イエスの奇跡の業などを見て、一時は主イエスを王に担ぎ上げようとまでするのですが、結局は、自分たちの思い通りにはなられない主イエスに失望して、離れて行きます。先週聞きました37節で、筆者のヨハネが断定しているように、「彼らはイエスを信じなかった」のであります。主イエスの殺害を企てていた最高議会の議員たちの中にも、主イエスを尊敬している人もいたようですが、彼らも、43節にありましたように「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」ために、主イエスを公に認めることが出来なかったのであります。

・私たち日本人は異邦人で、まことの神様を信じる環境にはないのでありますが、諸々の神の存在を信じる人は決して少なくないと思われますし、聖書のことを学んだ人であれば、イエス・キリストの教えに共感したり、その人格や行動を立派だと評価する人は多いのであります。けれども、悔い改めて主イエスに従って行く人は少ないのであります。私たちもまた、もし、主イエスを知識として知っているとか、その御人格を尊敬するというレベルで主イエスと関わっているだけであれば、神様を知っているとか、信じるとは言えないのであります。

・主イエスはおっしゃいます。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」――ここで、前半で「信じる」と言われた言葉が、後半では「見る」という言葉に置き換えられています。「見る」というのは、当時の人が主イエスのお姿を肉眼で見たり、主イエスのお言葉を直接耳で聞くということではありません。彼らは直接見聞きしたのですが、信じられなかったのであります。ここで「見る」とは、主イエスを神の子として受け入れる、主イエスと人格的な交わりを持つということであります。

・そして、主イエスを受け入れ、人格的な交わりを持つということが「信じる」ということであり、主イエスを信じることが、父なる神様を信じ、見ることになるのだ、とおっしゃるのであります。そこには、主イエスが神様と一体であることが示されていますし、主イエスを信じ、見ることによってしか、神様を知ることも、神様と出会うことも、信じることも出来ないのだということであります。これは、このヨハネ福音書の118節で「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と言われている通りであります。

2.光として世に来た

・では、主イエスを信じ、神様を信じるとは、私たちがどうなることなのか。そのことが次の46節で述べられています。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」――主イエスを信じる前は、私たちは暗闇の中にいたのですが、光として来られた主イエスを信じることによって、光の中に入れられる、ということであります。

・この世が暗闇であるとはどういうことでしょうか。私たちは、この世に様々の悪があることを知っております。犯罪があり、不正が行われ、争いが絶えません。また、病気や貧困や人間関係の破れなども私たちの生活を暗くします。そうしたことも、ここで「暗闇」と言われていることに含まれると思いますが、主イエスがここで暗闇と言っておられるのは、それらの諸々の暗さの奥深くにある根本的な暗闇のことを言っておられるように思います。それは、私たち自身が持っている闇のことであります。私たちは自分の闇に気付かないで、人を批判したり、世の中の闇とは一線を画しているように思っていて、自らを誇っています。私たちは自分の弱さや間違い易さに、ある程度は気づいていますが、自分でそれなりにやって行けると思っているのであります。神様の助けなど要らないと思っているのです。こうして、本来あるべき神様との関係が壊れてしまっているのであります。このような神様との壊れた関係を「罪」と呼んでいます。罪が、私たちの気付いていない暗闇の本質であります。

・ユダヤの人々は、自分たちの力の弱さを嘆いて、メシアの登場を待ち望んでいました。しかし彼らは、自分たちの中にある罪に気付いていなかったのであります。暗闇の本当の原因に気付いていなかったのであります。そして、その暗闇に光が差し込んだのに、それを排除しようとしたのです。私たちも同様であります。

・ユダヤ人が、自分たちは選ばれた民であると思って安心していて、自らの罪に気付かなかったように、私たちキリスト者も、信仰を持ち、教会に来ていて、それなりの責任を果たしているということで安心してしまって、自らの罪に気付かないで、他人を批判したり裁いたりしてしまっていないでしょうか。自らの中にある暗闇から目を逸らして、光の中にいると思ってしまっていないでしょうか。――そんな私たちに、主イエスは、35節にもありましたように、「暗闇に追いつかれないように」と警告して下さっているのであります。私たち自身には、暗闇を追払ったり、暗闇から抜け出す力はありません。そんな私たちが、暗闇から抜け出すことが出来るのは、ただ、光として世に来て下さった主イエスの恵みに立ち帰るしかありません。光そのものである主イエスが、暗闇を光で満たして下さるのであります。その光である主を信じて、その光の中にとどまるしかありません。

3.裁くためではなく、救うために

・では、私たちの中にあった暗闇、即ち私たちの中に深く巣食っていた罪はどうなるのでしょうか。罪は、ごみか埃のように捨てれば済むというものではない筈であります。罪に対する責任というものはどうなるのでしょうか。

47節で主イエスは、驚くべきことを言っておられます。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」――私たちは、聖書によって主の言葉を聞いておりますが、それを本当の意味で守っているとは言えません。それにもかかわらず、他人が守っていないことについては、厳しく裁いてしまいます。けれども、主イエスは、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない」と言われるのであります。<罪に対する責任は問わない>ということであります。そんなことがあって良いのだろうか、と思ってしまいます。けれども、神の言葉は、もともと人を縛り付けたり、裁いたりするために語られるものではありません。人を解放し生かすものであります。「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」とおっしゃいます。主イエスは、罪に縛られている者を、十字架によって贖い、罪から救い出すために来られたのであります。罪の暗闇の中にある者を、光の中に導き入れるために来て下さったのであります。

・私たちは誰も、過去の罪を背負っております。まずいことをしてしまった罪、なすべきことをしなかった罪があります。人に対しての罪とともに、神様に対する大きな罪もあります。それらが、心の中に大きな重荷となっています。私たちはそれを負いきれないので、何とか誤魔化そうとします。状況のせいにしたり、他人のせいにしようとしたりします。他人と比べてまだましだと思うようにします。しかし、罪の重荷は拭うことが出来ません。重く心にのしかかって、トラウマになってしまうこともあります。

・けれども、主イエスは、私たちの罪を裁かない、と断言されるのです。むしろ、罪の重荷から私たちを救い出すためにこそ来た、と言われるのであります。

ところが、48節を見ると、主イエスはこうも言われています。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」――先ほどの47節では、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない」とおっしゃっていたのに、48節では、「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある」と言われています。一体、裁かないのか、裁くのか、どっちなのだと思われるかもしれません。

これは決して矛盾ではありません。私たちは主イエスの言葉を聞くのですが、47節で先ほども聴きましたように、それを守らないで罪を犯してしまいます。そんな私たちを、主イエスは裁かずに赦して下さるのであります。それは、主イエス御自身が私たちに代わって罪を負って下さるからであります。これが主イエスの福音の言葉であります。ところが、この福音の言葉を聞いても、拒んで受け入れない場合は、48節で言われているように、終わりの日に裁かれるのであります。47節では、「わたしの言葉を聞いて、それを『守らない者』がいても」、と言われているのに対して、48節では、「わたしを拒み、わたしの言葉を『受け入れない者』に対しては」、と言われていて、主イエスの教えの言葉を守るかどうかと、赦しの言葉を受け入れるかどうかが違います。また、主イエスが裁かれないのは、主イエス来られて福音が語られている時点でありますが、その福音を受け入れずに裁かれるのは終わりの日であります。今、主イエスによって福音の言葉が語られているのに、それを受け入れないまま、終わりの日が来て、神様の前に出るなら、その福音の言葉自体によって裁かれることになるのであります。だから、今のうちに、主イエスの赦しの福音を受け入れなければならない、ということであります。

49節では、念を押すように、こう言われます。「なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」――主イエスの語っておられることは、神の御心を語っておられるのであります。罪を裁かないという言葉も神様の御心であります。その神様の御心を受け入れないなら、最終的に神様が決定的な裁きを行われるのは当然であります。光である主イエスが御言葉を語っていて下さるうちに、光である主イエスを信じなければ、永遠の暗闇の中へと落ち込まざるを得ないのであります。

結.父の命令は永遠の命

・最後に主イエスは、50節でこう言われました。「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

・ここで「父の命令」とは、父なる神が主イエスに語るようにお命じになったことで、それはここまでに主イエスが語って来られたことでありますが、それは一言で言えば、<主イエスを信ぜよ>という命令であります。

・その父の命令は永遠の命である、と言われています。<主イエスを信ぜよ>という命令こそ、永遠の命なのであります。主イエスを通して語られる神様の命令に従っておれば、やがて永遠の命が与えられる、というのではないのです。<主イエスを信ぜよ>との命令こそが、私たちを永遠に生かすのであります。「永遠の命」とは、神様との良い関係のことだと以前にも申しました。<主イエスを信ぜよ>との命令を聞き続けていることが、神様との良い関係を保つことであり、私たちが、本当の意味で生きるということなのであります。

・神様は今日も、主イエスが叫んで言われた言葉を通して、私たちに、<主イエスをこそ信じなさい>と語って下さって、永遠の命を注いで下さったのであります。私たちはこの命の恵みを喜んで受け取って、生き続けるものとされたいと思います。
・祈りましょう。

祈  り

・主イエス・キリストをお遣わし下さった父なる神様!その恵みを感謝し、御名を賛美いたします。

・今日も主イエスが叫んで語られた御言葉によって、光のもとへと、また永遠の命へと招かれましたことを、重ねて感謝いたします。

・暗闇が私たちを取り囲もうとしておりますが、どうか、主イエスの光の中に留まり続けることが出来るようにして下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年9月20日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書12:44-50
 説教題:「光として世に来た主」
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