「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。(ヨハネによる福音書124041

 主イエスは「世の光」として来られ、群衆に「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(1236)と言われたのであるが、すぐその後で、彼らから立ち去って身を隠された(36)。なぜなのか。福音書記者ヨハネは「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らは信じなかった」(37)と断定し、そうなった理由を、標記のように、イザヤの預言の成就であると説明する。イザヤは預言者としての召命を受けた時に、人々の目や心を開くためではなく、逆に、人々の目を見えなくし、その心をかたくなにするために遣わされ(イザヤ610)、人々から捨てられ、人々の罪の故に苦しまねばならない「苦難の僕」について預言した(イザヤ5316)のである。このことをヨハネは「イザヤは、イエスの栄光を見た」(41)と語る。つまり、イザヤが預言している「苦難の僕」の姿こそ、主イエスの御受難を示すものであり、十字架の恥と苦しみにこそ神の御栄光が現されているというのだ。
 ユダヤの最高議会の議員の中にも、主イエスを信じる者がいた。しかし彼らは、ユダヤ人の会堂から追放されるのを恐れて、主イエスを公に言い表さなかった(告白しなかった)。彼らは、神からの誉れ(神の栄光)よりも、人間からの誉れ(人間の栄光)の方を好んだのだ(43)。私たちも同様である。十字架は、私たちが神の栄光を求めず、人の栄光を求めた結果である。そこに人間の罪が凝縮されている。だが、そこにこそ、私たちの罪を赦し給う神の愛の栄光が輝いているのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年9月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書12:36b−43
 説教題:「神からの誉れ」
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