序.暗闇の現実の中で

・先週は、主イエスが、十字架の時が迫る苦悩の中で、群衆と交わされたやりとりを聴きました。その最後の35節以下でこう言われています。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」――主イエスは「光」として群衆の前に立っておられます。そして私たちの前にも光として来ておられます。しかし、間もなく群衆は、「十字架につけよ」と叫ぶことになるのであります。主イエスは「暗闇に追いつかれないように」と警告しておられるにも拘わらず、暗闇に呑み込まれてしまうのであります。私たちもまた、日常生活の中で、光の中を歩いているつもりが、いつのまにか暗闇に追いつかれて、主イエスの光から逸れてしまっているのであります。

・今日の箇所は、今、朗読されたのをお聞きになっていて、非常に暗い印象をお持ちになったのではないかと思います。ここは、ヨハネ福音書の筆者が、ここまでの主イエスの御生涯を総括している箇所でありますが、同時に、ヨハネの時代の教会と世界の実状を覚えつつ、主イエスによる御業が行なわれていながら、どうして人々は信仰へと導かれないのかと、深く問いながら記しているのであります。このヨハネの問いはまた、現代の私たちの問いでもあります。――主イエスによる救いの御業が行なわれて2000年も経っていながら、どうして未だに多くの苦悩があり、信仰を持たない人がおり、教会の宣教の業は進まないのか。主イエスは神の御栄光を現されたのに、なぜ、まだ暗黒が広く覆っており、光が満ち溢れないのか。

・そのような問いに対して、ヨハネは一つの答えを語っています。しかし、その答えも、非常に重苦しいものであり、私たちが容易に理解出来ないものであります。けれども、そこに真実の答えがあり、そこにこそ光があるのであります。今日はそれを御一緒に聴き取りたいと思います。

1.身を隠される主

・まず、冒頭の36節後半に、イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された、と記されています。「彼ら」とは、29節で「そばにいた」と記され、34節で主イエスに言葉を返していた「群衆」であります。主イエスはこの時から後は、十字架の決定がなされる裁判の時まで、群衆から身を隠されて、ただ弟子たちにだけ語られることになるのであります。今、「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」と言われたばかりでありますのに、「光」である主イエス自らが、身を隠されるのであります。あまりにも続き具合が悪いので、この36節後半から43節は筆者の挿入だと考える説もあります。確かに44節以下で、もう一度、「イエスは叫んで、こう言われた」と書かれていますので、44節から50節までの言葉を話された後で、身を隠されたのかもしれません。しかし、いずれにしろ、「光のあるうちに、光を信じなさい」と言われたように、光のある期間は限られているのであります。遅かれ早かれ、主イエスは群衆から身を隠されるのであります。なぜなのか。

・その理由が37節に、はっきりと書かれています。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった、とあります。これが主イエスの公生涯を総括した結論であります。これまで主イエスは多くのしるし(奇跡の業)を行って来られました。それを見聞きして、主イエスについて来た人もいます。主イエスを王にしようと考えた人もいました。ラザロの復活のあと、「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(1145)と書かれていましたし、主がエルサレムに入城された時には、大勢の群衆が歓呼して主イエスを迎えたので、それを見たファリサイ派の人々が、「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」(1219)と言ったほどでありました。――しかし、主イエスは彼らの信仰に枕されないのであります。彼らの信仰をすべて認めないということではないにしても、主イエスの御言葉を聞き、なさったしるしを見た人の多くが、やがて「十字架につけよ」と叫ぶようになることを見通しておられたのでしょう。筆者のヨハネは結果的に十字架に至ったことを知っているわけですから、振り返って、「彼らはイエスを信じなかった」と断定するのであります。これが主イエスの公生涯の総括だと言うのであります。

それにしても、なぜ、こんな結末に至らなければならないのか。私たちと違って、彼らは直接主イエスの御言葉や御業を見聞きしたのであります。それなのになぜ、本当の信仰が広まらなかったのか、神様の御栄光を受け止めることが出来なかったのか、と疑問に思ってしまいます。主イエスが直接目に見える姿で働かれたにも拘わらず、こんな結果しか出ないのであれば、私たちの伝道によって、信仰を起こすなど出来るのだろうか。果たして伝道に意味があるのだろうか、とさえ思ってしまいます。

2.彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた

・このような疑問に対して、筆者ヨハネは38節以下でイザヤの言葉を引用しながら答えています。それを見て参りましょう。

まず、38節では、預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」とあります。ここにはイザヤ書53章の冒頭の部分が引用されています。そこをお開き下さい(p旧1149)。これは「主の僕(苦難の僕)の歌」と呼ばれているものの一つです。1節から6節を読みます。

 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

このイザヤの言葉で語られている「苦難の僕」が主イエス・キリストにおいて実現したのだ、とヨハネは言うのです。誰も主を信じず、誰も主の御腕の力を受け取ることが出来ず、主が人々から捨てられるということが、起こらねばならなかったのであります。3節の3行目には、「彼はわたしたちに顔を隠し」とあります。主イエスは、人々の不信仰の故に、軽蔑され捨てられるので、身を隠さなければならないと預言されていたのであります。

続いて、(ヨハネ福音書12章に戻って)39,40節には、こうあります。彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」――これは先程朗読していただいたイザヤ書6章の10節からの引用であります。

 イザヤ書6(p旧1069)は、イザヤが預言者としての召命を受けた時の体験を語ったものです。イザヤは神殿で主の栄光を見て、<罪人が主の栄光を見たので滅ぼされる>、と思ったのですが、口に炭火が触れさせられて、罪の赦しが宣言されて、預言者として立てられるのであります。ところが主は、ヨハネ(1240)に引用されているように、預言者が遣わされるのは、人々の「目を見えなくし、その心をかたくなに」するためだ、と言われるのです。――これでは何のために預言者となるのか、訳が分からなくなってしまいますが、イザヤ書の最後(1113節)にありますように、町が徹底的に滅ぼされたあと、残った切り株から若芽が出るのであります。それは主イエスの復活のことを暗示していると受け取れるのでしょうが、その前に、神の御心によって、人々の目が見えなくされ、心がかたくなにされるのであります。つまり、イザヤ書から二箇所を引用してヨハネが語ろうとしていることは、<主イエスを殆どの人が信じなくなって、捨てられ、十字架に架けられるのは、神様の御心だ>、ということであります。

3.イエスの栄光を見た

41節を見ますと、ヨハネはこう言っております。イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。――紀元前8世紀の預言者であるイザヤが「イエスの栄光を見た」と言うのは、不思議な表現ですが、イザヤが預言している「苦難の僕」の姿こそ、主イエスの御受難を示すものであり、そこにこそ神様の御栄光が現されているということであります。また、主イエスを信じるということは、人間が主イエスの奇跡の業を見て、期待を寄せるようになることではないし、主イエスが語られる教えに納得して、従って行くことでもなくて、人間の方では何も見えず、何も聞かないで、心をかたくなにするばかりの中で、ただ神様の方からの一方的な働きによって、主イエス・キリストの十字架の徹底的な苦しみの故に、救いは与えられるものだということであります。

・私たちは、伝道がなかなか進まないことを嘆きます。一人の人が信仰に導かれるということは、そう簡単なことではありません。どうして、神様はもっと強力に救いの御業を進めて下さらないのか。もし、悩みを持っている多くの人々の問題が解決されるならば、神様の御栄光が現されることになって、もっと早く多くの人が信仰に導かれるのではないか、と思ってしまいます。しかし、それは違うのです。人々が主イエスを簡単には信じないこと、そしてそのために主イエスが十字架にお架かりにならなければならないほどお苦しみになること、その中にこそ、神様の御栄光が現されるのであります。この主イエスの十字架が置き去りにされて、ただ表向き信者の数が増えたり、立派な会堂が建ったりしても、それは神様の御栄光が現れているとは言えないのであります。私たちを悩ます様々の問題は、主イエスも負って下さる悩みであります。人の罪や不信仰がもたらす様々な問題、教会の中にも起こりかねない忌まわしい問題、それらは神様の御栄光を汚す問題であります。しかし主イエスは、だからと言って、そういう問題には知らぬ顔をされるのではありません。そういう問題はきれいに解決してから私のところに来なさい、とは言われません。そういう問題にこそ心を痛めて下さり、その恥を負って下さるのであります。それが十字架であります。そこにこそ、本当の神の栄光が現されているのであります。

4.神からの誉れよりも

・ところが、人間の方はどうでしょうか。42節以下に、人間は神様の栄光をどのように扱っているか、という事例が書かれています。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。――群衆の多くが、結局は主イエスを信じなかったのに対して、当時のユダヤの指導的な立場にあった議会の議員の中に、主イエスを信じる者が多かった、というのであります。意外な感じがいたします。「多かった」と言っても、多数派を占めたということではないと思われます。大多数の議員は主イエスを邪魔者だと考えて、亡き者にしようと考えていました。しかし私たちは、議員の一人でニコデモという人が、ある夜、秘かに主イエスを訪れて、教えを乞うたことを3章で聞いています。また、19章には主イエスが十字架の上で息を引き取られたあと、墓に葬られる様子が記されていますが、アリマタヤ出身の議員であるヨセフという人が、遺体の引取りを申し出て、墓に納めたと書かれています。このような人が議員の中にいたのは事実のようであります。しかし、当時既に、ユダヤ人たちは、主イエスを主と認める人がいれば、ユダヤ教の会堂から追い出すことを決めていました。現に、9章では、生まれつき目が見えなかった人が主イエスに目を開かれたことで、主を証しすると、会堂から追放されたことが書かれていました。ですから、主イエスを信じた議員は会堂から追放されるのを恐れて、主イエスを信じることを公に言い表さなかったのであります。因みに、この「公に言い表す」と訳されている言葉は「告白する」という言葉であります。主イエスに好意を持ち、尊敬していても、公に告白しなければ、本当の信仰とは言えません。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」とヨハネは断じております。しかし私たちは誰でも、人間から誉れを受けることが第一なのであります。信仰を持つとか、教会へ行くということすら、人間からの誉れを期待している場合があります。牧師も説教が旨いとか、信者を増やしているとかいう人間からの誉れを得たいという誘惑の中にあります。

では、「神からの誉れ」を好むとは、どういうことでしょうか。「神からの誉れ」と訳されているのですが、原文は、「神の栄光」という言葉であります。「神からの誉れ」というと、神様から誉めてもらうという意味になります。そういう意味が込められているのかもしれませんが、「神の栄光」と言えば、神様の御栄光が現れるということであります。私たちが、神様の栄光を現すことを好むのか、人間の栄光を現わすことを好むのか、ということであります。

結.十字架の中に神の栄光

今日、イザヤ書を引用しながらヨハネが語った言葉によって聴いて参りましたことは、「苦難の僕」としての主イエスの中にこそ、神の御栄光が現されているということでありました。十字架にこそ、神の栄光が現されているということであります。そうであれば、神の栄光を好むとは、十字架を好むということであります。

・十字架は、人間が神の栄光を求めず、人の栄光を求めた結果であります。そこには人間の罪が凝縮されています。しかしその罪を、主イエス・キリストが一人で負って下さっているところに、私たちの罪を赦し給う神様の愛の御栄光が輝いているのであります。

・しかし、十字架は人に誉れを与えるものではなく、むしろ苦しみをもたらすものであります。従って躓きを与えるものであります。けれども、十字架にこそ、救いがあります。光があります。不信仰な私たちも、その光のもとへ招かれています。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。
・祈ります。

祈  り
 ・光であり給う主イエス・キリストの父なる神様!

・今日も聖書を通して、十字架の光へとお招き下さいましたことを感謝いたします。

・私たちは十字架に光を見ずに、私たちの期待に応えて下さらない主イエスや、あなたの恐ろしい裁きだけを見てしまいますが、今、御受難のキリストにこそ、あなたの御栄光が輝いていることを示されて、御栄光を賛美いたします。

・どうか、聖霊の導きにより、主イエスを信じ、この光を喜び、この光のもとに留まり続ける「光の子」とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年9月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書12:36b-43
 説教題:「神からの誉れ」
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