序.天からの声が

・今日は、ヨハネによる福音書1227節以下の御言葉が与えられていますが、先々週にはすぐ前の箇所から、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)という、有名な御言葉を聴きました。それは譬えで語られていますが、主イエスの十字架の死の御決意を示すお言葉でありました。

・今日の箇所は、それに続く主イエスのお言葉から始まっておりますが、ここでは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と祈っておられます。十字架を前にした苦悩の祈りであります。これをお聞きになりまして、皆様はおそらく、主が、最後の晩餐の後でゲッセマネの園で祈られた、苦悩の祈りを思い出されたのではないかと思います。ヨハネによる福音書にはゲッセマネの祈りの場面がないのですが、それに代わるのが、この箇所であります。

・その祈りの後、天から声が聞こえます。神からの答が返って来たのであります。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」――そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは、「天使がこの人に話しかけたのだ」と言います。それに対して主イエスは30節で、「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」とおっしゃいました。つまり、ここで天から聞こえた神様の声は、ただ主イエスの祈りに対するお答えであるばかりでなく、そこにいた群衆も聞くべき神様の言葉であるということでありますし、ひいては、今日の箇所全体で示されていることが、父なる神様の御意志を示す「天からの声」だ、ということであります。

・今日は、十字架を目前にした主イエスの苦悩の祈りと、それに対する神様の答え、そしてその後、主イエスが人々に語られた言葉の全体を通して、天からの声を聞かされているのであります。ここから、神様が十字架を通して私たちのためになそうとしておられる御意志を聴き取るとともに、その御意志に従う者とされたいと思うのであります。

1.心騒ぐ

・さて、最初の27節に戻って、「今、わたしは心騒ぐ」と言われたことに、思いを寄せたいと思います。

・「心騒ぐ」という言葉は、このヨハネ福音書では、これまでに、ラザロの墓に行かれて、マリアたちが泣いているのを御覧になった時に、心に憤りを覚えられたことが記されていた箇所で用いられていて、「興奮して」と訳されている言葉と同じであります。その時は、死の現実が人々を支配していることに、心を騒がされたのであります。もう一箇所は、この後の13章で、ユダの裏切りを告げられる場面で、「心騒がせ、断言された」と記されています。この時も、サタンがユダを支配している現実を前にして、心を騒がされたのであります。今日の箇所では、他の箇所のように、筆者による状況描写ではなく、主イエス御自身の言葉として、「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃっているのであります。御自分の死を前にして、心を騒がせておられるのです。マタイ、マルコ福音書のゲッセマネの祈りの場面では、「わたし(の心)は死ぬばかりに悲しい」と言われ、続いて「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っておられます。ここでも、『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と逡巡しておられます。そこには、出来れば十字架を避けたいというお気持ちが表れています。

これらのお言葉を私たちはどう受け止めるべきでしょうか。主イエスのようなお方であっても、死が恐ろしいということなのでしょうか。しかし、単なる死であれば、多くの殉教者たちが、堂々と命を捨てましたし、特攻隊などは、内心はともかく笑顔さえ見せながら死の飛行へと飛び立って行ったのであります。人間は、喜び勇んで死に向かうことだって出来るのであります。けれども、主イエスの十字架は単なる死ではありません。むしろ、自ら「心騒ぐ」とおっしゃっていることに意味があるように思います。主イエスの死は、単に御自分が思い切ればよい問題ではありません。人々の罪の結果の死であります。神様の御心に反する人々の罪の重さが、主イエスを苦しめているのであります。私たちの罪が、主を苦しめているのであります。もし、私たちが主の苦しみを理解できないとすれば、それは私たちが自分の罪に気付いていないということであります。主が私たちの受けるべき苦しみを受けて下さっているのであります。

・主イエスは続けて祈られます。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」――十字架は人間が犯した最大の罪の結果であります。しかし、十字架こそ、神様が人間の罪を贖うために備えて下さったことであり、主イエスはこのために遣わされたのでありますし、この十字架こそが神様の御名の栄光が現れる時なのであります。主イエスが、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈っておられるのは、<十字架の御業によって神様の栄光を現そうとしておられる、その御心をどうぞ進めてください>という意味です。これは、ゲッセマネの祈りで、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られたことと同じであります。主イエスは、神様の御栄光を現すために、御自分の命を献げることを、改めて決心されて、神様に表明なさったのであります。

2.栄光を現そう

・その祈りに対して、冒頭でも聞いたように、神様は「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」とおっしゃいます。「わたしは既に栄光を現した」とは、何を指しておられるのでしょうか。ヨハネ福音書の最初には、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(114)とありました。主イエスが受肉されたこと自体が、栄光を現す出来事でありました。また、カナの婚礼の出来事においても、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(211)と記されていました。その後の様々な奇跡の業も主の栄光を現す出来事でありますし、ラザロの出来事においても、主イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」(114)と言われました。このように、主イエスのここまでの御生涯の全てが、神様の御栄光を現すものでありましたが、それらはあくまでも、最終的な御栄光を指し示すしるしでありました。それに対して神様は、主イエスの祈りに応えて「再び栄光を現そう」と言われます。それは、主イエスの十字架と復活によって、決定的に御栄光を現そう、ということであります。

・しかし、これを聞いた群衆は、「雷が鳴った」とか「天使がこの人に話しかけたのだ」と言いました。彼らは神様が語られたということが分からなかったのかもしれませんし、語られていることの意味も分からなかったのでしょう。人々が理解するのは、十字架と復活の御業が行われた後になってからであります。

・しかし、主イエスは30節にあるように、「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」とおっしゃいます。主イエスは既に神様の御意志を弁えておられます。これから何が起ころうとしているのか、聞かなければならないのは、主イエスではなくて、むしろ、群衆であり、私たちであります。

3.すべての人を自分のもとに引き寄せよう

・そこで主イエスは、31,32節で、これから起ころうとしていることの意味を語られます。「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」――これは、33節に解説されているように、主イエスがどのような死を遂げられるか、即ち、主の十字架の死にはどのような意味があるのか、主の死によって何が起ころうとしているのかを語っておられるのであります。

・「今」という言葉が31節に2回繰り返されて強調されています。27節でも「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃいました。人の罪を一身に背負って苦しんでおられる「今」、そして十字架に上げられようとしている「今」であります。主イエスを殺そうとしている者たちが、その目的を果たそうとしている「今」であります。しかし、その「今」は、反対に、「この世が裁かれる時」、「この世の支配者が追放される」時、なのであります。「この世」とは、神の御心に背き、主イエスを迎えようとしない不信仰な者たちであります。光よりも闇を愛する人たちであります。それは一部の敵対者だけではありません。私たちのことであります。「この世の支配者」とは、当時の指導者というよりも、この世全体を支配しているサタンのことであります。そのサタンが今や、追放されるのであります。支配者ではなくなるのであります。では、「裁かれる」とは、どういうことでしょうか。「裁き」という言葉は、もともと「分かれ目」という意味を持っています。白か黒か、有罪か無罪かの決着がつけられるということであります。この場合はもちろん、有罪としか考えられません。神に捨てられるということになる筈であります。ところが、主イエスはそうはおっしゃいません。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われるのであります。

「地上から上げられるとき」とは、十字架の上に上げられるとき、という意味であります。3章のニコデモとの対話の中で、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」とおっしゃいました。これは、十字架の予告でありました。主イエスは最終的には、復活の後、天に挙げられます。いわゆる昇天です。そのことも含んでいるかもしれませんが、ここでは、すぐ目の前に迫っている十字架のことと理解すべきであります。十字架は死刑の裁きを受け、捨て去られることであります。しかし、その時こそ、「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言われるのであります。死すべき者、滅びるべき者、永遠の闇に捨て置かれる筈の者が、主イエスの方へ引き寄せられる、救い上げられるのであります。「すべての人」というのは、必ずしも「全員」と受け取ってはならないでしょう。万人が自動的に救われるということではありません。ここでは、ユダヤ人だけではなく、異邦人も、という意味に受け取るべきでありますし、更に、何らの差別なく、すべての人(万人)を主イエスのもとへ招いておられるということです。主は、すべての人を救いへと引き寄せようとしておられるのであります。

4.光の子となるために

・それに対して群衆は、34節でこう問い返します。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」

・ここで群衆が「律法」と言っているのは、広く旧約聖書のことを指しています。旧約聖書の中では、確かに救い主メシアは永遠におられるということが記されています。例えば、先程朗読したイザヤ書の96節では、「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない」と言われていました。また、ダニエル書7章は、「人の子」のような者が天から現れるという幻が書かれている箇所ですが、その14節に、「彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と語られています。この群衆はユダヤ人の指導者たちのように、主イエスに敵対しているわけではありません。むしろ、期待と不信が入り混じった目で主イエスを見ているのであります。主イエスが御自分のことを「人の子」と言っておられることも、ある程度理解していたと思われます。しかし、待望の王や「人の子」は、聖書によれば、永遠の存在として描かれているのに、「人の子は上げられなければならない」(十字架に架かって死なねばならない)と言うのは、矛盾ではないか、というのであります。旧約聖書の中には、「主の僕の歌」と呼ばれているもののように、「人の子」の苦難について預言されているものもあるのですが、彼らは、そのことと、「人の子」が永遠の存在であるということとが結びついていないのです。ですから、「人の子」とは誰のことをおっしゃっているのか、分からなくなってしまうのであります。無理もないことです。

・このような群衆の疑問に対して、主イエスは直接にはお答えになりません。そして35,36節で、「光」のことを語られます。なぜでしょうか。人々は自分のメシア像、自分の「人の子」像に、主イエスを引き寄せようとします。主イエスを自分たちの期待どおりのメシアにしたいのであります。しかし、本当のメシア、本当の「人の子」は彼らの方に引き寄せられるのではなくて、「すべての人を自分のもとへ引き寄せる」お方であります。それは、自分の意のままに振舞う独裁者のようにではなくて、人々のために自らを十字架の上に捨てることによって、引き寄せ給うのであります。それが神様の御心であり、それが栄光を現すということであり、それが、暗闇の世に光をもたらすということであります。

「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と言われます。「光」とは、主イエス・キリスト御自身であります。812節でこう言われていました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」光である主は、罪と悪が支配する暗闇のこの世に来られました。人々はこの光を自分のもとに引き寄せようとします。しかし、真の光は人々の勝手な望みをかなえるために来られたのではありません。人々を罪の暗闇から救い出して、御自分のもとに引き寄せるために来られたのであります。その光を信じないならば、元の暗闇の中に捨て置かれざるを得ません。今、光が来られている間に光の子となって、光に従って行くのでなければ、また暗闇に呑み込まれてしまうのであります。主イエスは94,5節でも、こう言っておられました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」また、119,10節でも同様のことをおっしゃっていました。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」――光である主を自分の意のままに、手元に置いておくことは出来ません。光の主に向かって、歩み出さなければ、光の内に留まり続けることは出来ないのであります。私たちの中には光がないし、私たちの力で光を自分たちのところに留めておくことは出来ないからです。光は、十字架にお架かりになった主イエス・キリストのところにしかないのであります。

結.光のあるうちに

・「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」――これは何と暖かい、思い遣りに満ちた勧告ではないでしょうか。信じるか信じないかを決める時は、私たちの手中にあるのではないのです。十字架の主イエスが私たちに向かって、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と言って下さる時を逃しては、光の中を歩き続けることは出来ないのであります。今、光があるうちに、決断が必要なのであります。

28節で、天からの声が聞こえました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」それは、主イエスに対する天からの声でありましたが、30節で主イエスは、「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」とおっしゃいました。今日、私たちに向けて、天からの声が与えられています。それは、<主イエスの十字架にこそ、栄光があらわされている。この光があなたがたの前に照らされている今のうちに、光を信じなさい>という声であります。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」――主はこう言って、今日、私たちを光のうちに招きいれて下さるのであります。祈りましょう。

祈  り

 ・光の主なるイエス・キリストの父なる神様!

・今日、私たちを十字架の光のもとにお招き下さり、光の子となるようにと引き寄せて下さっていますことを感謝いたします。

・どうか、再び暗闇の中をさ迷うことがないように、光のもとに留めて下さい。どうか、私たちを光から去らせようとする様々な力から、私たちを引き離して下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年9月6日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書12:27-36a
 説教題:「光の子となるために」
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