序.しかし、あなたがたは

・今日は、ペトロの第一の手紙2章9、10節の御言葉を与えられております。その冒頭に、しかし、あなたがたは、と語られています。「あなたがた」とは、直接的にはこの手紙の宛先の教会のキリスト者たちでありますが、これまでもお話しして来たように、それは異教社会の中にある小アジアの教会の人々であります。

・当時はまだ、キリスト教に対する迫害がまだそれほど激しくなっていなかった時代であると考えられていますが、それでも、周囲の異教社会との間では、様々な軋轢があったと思われますし、絶えず、<自分たちの立場はどこにあるのか>ということが問われたのではないかと思われます。この手紙は全体が、キリスト者の立場はどこにあるかについて述べたものだと言ってもよいのでありますが、今日の箇所は特にそのことが、「神の民」という言葉で集中的に語られている個所であります。

・前回6月に聴きました21節から8節までの箇所では、「生きた石」という言葉がキーワードになっていました。「生きた石」というのは、まずは主イエス・キリストについて言われていました。4節にはこう書かれています。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い生きた石なのです」。――これは、主イエスが人々から捨てられて十字架に架けられたことが神様の御心であり、信仰の揺るがない礎石になっている、ということを述べたものであります。しかし、続いて5節では、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」と言われていて、信仰者自身も「生きた石」になることが勧められているのであります。「霊的な家」とは、キリストの「生きた石」と信者の「生きた石」で造り上げられる教会のことであります。今日の箇所の言葉で言えば「神の民」ということであります。

6節から8節にかけては、旧約聖書の言葉を引用しながら、その尊い「生きた石」が、信じない者たちにとっては「家を建てる者の捨てた石」であり、「つまずきの石、妨げの岩」になっている、と言うのであります。「家を建てる者」とは、直接的には、当時のユダヤの宗教指導者をはじめとするユダヤ教の信者たちのことでありましょうが、彼らが捨てて十字架に架けたキリストが「隅の親石」になって、新しい神の民である教会が建てられたのですが、それが主を信じない者たちにとっては「つまずきの石、妨げの岩」となっているのであります。

・それを受けて、今日の箇所では、「しかし、あなたがたは」と言って、主イエスを信じる者の立場が語られるのであります。ここに述べられていることは、当時の小アジアの教会の人々にだけ当てはまることではありません。主イエス・キリストを信じるすべての人々に語られていることであります。

・私たちも小アジアの人々と同様に、異教社会の中にあります。ですから、日々の生活の中で、絶えず自分の立場が問われます。「尊いかなめ石」であり「隅の親石」となって下さっている主イエス・キリストの上に建てられる家の、「生きた石」の一つになりきっていてよいのか、古くからの伝統の上に建てられている家の一部にもなっていた方がよいのではないか、あるいは、もっと新しい様式で建てられる、鉄筋コンクリートのような家の一部材にもなっていた方がよいのではないか、という迷いが生じたりします。現実に、主イエス・キリストを土台としている教会は、必ずしも立派に見えませんし、どんどん成長していくようにも見えません。現代の様々な問題や、私たちの身の回りに起こって来る困難を解決する道が、教会の中に見えて来ないように思えます。

・今日の箇所は、そんな私たちに、「しかし、あなたがたは」と語りかけるのであります。

1−1.選ばれた民

あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です、と言われています。ここでは神の民について四つの言い方がされています。いずれも旧約聖書の中で用いられている言い方であります。この内の三つに「民」という言葉がありますが、実はヘブル語では三つとも違う言葉です。ですから厳密にはニュアンスが違うのですが、ここではほぼ同じ意味と考えていただいて結構です。旧約聖書の中で「民」と言えば、イスラエルの民のことでありますが、ここではそれを教会に適用しているのであります。

まず、あなたがたは「選ばれた民」である、と言います。イスラエルの民は、自分たちこそ神に選ばれた特別な民族であると誇って来ました。確かに、アブラハム以来、神様の救いの歴史を担う民として、特別な扱いを受けて来ました。真の神様を礼拝するのはイスラエルの民だけでありました。彼らは神様の約束を受けて、それを信じて、この時まで約二千年の歴史を歩んで来ました。

どうしてイスラエルの民が選ばれたのかということについては、先程朗読いたしました申命記7章に書かれていました。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をのってあなたたちを導き出し…」(778)。――このようにして選ばれたイスラエルの民ですが、神に対する背反を重ねて、遂に約束の救い主メシアが神から遣わされたときに、その方を十字架に架けてしまいました。こうして、イスラエルの民について言われていることが、新しい信仰の民である教会に受け継がれることになったのであります。

では、どのような者が新しい民に加えられるのかと言えば、かつてイスラエルの民について申命記で言われていたのと同様です。そのことをパウロはコリントの信徒への手紙一の126節以下で、こう言っております。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。…」(12629)――これは、この世における選択基準とは全く違います。神の一方的な選びによるのです。ですから、私たちの方で誇るべきことは何もありません。

・教会の力というのは、その構成員の力によるのではありません。選んで召して下さったお方の力によるのであります。教会に力が出ないとすれば、それは召して下さっているお方の力を信じていないからであります。

1−2.王の祭司

・次に、あなたがたは「王の系統を引く祭司」であると言われています。これは出エジプト記1956などから取った言葉でありますが、この部分の原語の読み方は二通りあって、<王なる神に仕える祭司>という意味と、<王的支配権を持つ祭司>という意味に読めます。キリストは王であり大祭司であると言われます。そのキリストに仕える民は、キリストの役割の一端を担って、神と民との間を執り成す祭司としての役割を持つということでありましょう。祭司とは、人々に代わって神の前に立って献げ物をする人です。5節には、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを…献げなさい」と勧められていました。そこでは、三つの献げ物があることを学びました。それは、礼拝を献げる、自分自身を献げる、伝道によって新たな信仰者を献げるということでありました。選ばれた私たちは、何も良いものを持ち合わせてはいないのですが、それら三つのものを献げることによって、祭司の役目を果たすことが出来るということであります。

1−3.聖なる民

・三つ目は、あなたがたは「聖なる国民」であると言われています。これも出エジプト記19章から来た言葉ですが、1章の15節でも、「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」と勧められていました。その時、「聖なる」とは<区別する>と言う意味であると申しました。「聖なる国民」とは、他の人々よりも道徳的に優っているという意味ではなくて、神のために他の民と区別された民ということであります。教会が「聖なる国民」と言われるのも、教会には清い人ばかりが集まっているとか、教会の人々には罪がないという意味ではなくて、教会には主イエスがおられるので、教会に属する人々は主イエスの贖いを受けているという点で、他の集団とは区別される集団であるということであります。

1−4.神のものとなった民

・四番目は、あなたがたは「神のものとなった民」であると言われています。<神の所有とされた民>という意味であります。これも出エジプト記19章で、「今、わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」(195)と言われていることが根拠になっています。神との契約によって、神の宝(=所有物)になったということです。旧約聖書には、地縁、血縁による共同体という考え方はありません。神の言葉である十戒に基づいて契約をした民ということであります。しかし、イスラエルの民は、その契約を破りました。そこで、御子の血による新しい契約が結ばれねばならなくなりました。こうして誕生したのが教会であります。私たちは神様に背いて神様から離れようとします。しかし、神様は御子によって私たちを自分の宝として取り返して下さるのであります。

2.驚くべき光の中へ

・以上、「しかし、あなたがたは」ということで語られた四つの言葉によって、<私たちが召されている教会とは何か>、<私たち主イエスを信じる者の立場はどのようなものであるのか>、ということを聴いて参りました。

・教会を取り巻く現代の世界は、一見華やかであり、私たちの身の回りも、平和な日常生活が営まれているように見えていますが、世界の不況は深刻で、将来に対する明るい展望が描きにくい状態にありますし、その中で暗い事件が次々と起こっております。オバマ大統領は「Change」を訴え、「Yes, I can」と言って、人々に希望を抱かせようとしましたが、世界の現実を変えることは容易ではありません。わが国も今日は衆議院選挙が行なわれており、政権交代が行なわれるかもしれないのですが、それでもって明るい未来が開けるわけではないことを、誰もが感じております。身の回りを見ても、容易に解決しそうもない重い問題が、そこここにあって、心を暗くしがちであります。その中で、教会は何が出来るのだろうか、身近に苦しんでいる人の問題の解決も出来ないで、どうしてこの地域の救いに貢献できるのだろうか、と思ってしまうのであります。

・しかし、その中で聖書は、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」と語ります。私たちの中からは、何の希望も力も見出すことが出来ないとしても、その私たちを、神は御自分の民として選び出し、この世界における祭司の役目に就かせて下さるというのであります。

・続いて聖書は、それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった、と語ります。私たちが主イエスを信じる者とされたということは、罪と悪と死が支配する暗闇の世界から、主の愛と赦しが満ちた救いの光の中に移されるということであります。私たちが工夫したり努力したりして、暗さの中に小さな光を灯して行かなければならないのではありません。主イエス・キリストのまばゆいばかりの光の中に招き入れられるのであります。私たちが問題を一つずつ解きほぐしながら、解決の道をつけていかなくてはならないのではありません。主イエス・キリストが問題の根を断って下さったのであります。救いの御業は主イエス・キリストによって、既に成し遂げられたのであります。

・もっとも、私たちはすぐまた、光に目を閉ざして、暗闇の中にもどろうとします。神様に向かおうとせずに、神様に背を向けて自分で解決の道を探ろうとして苦しみます。しかし、神様は選ばれた民を見捨てられることはありません。もう一度、御言葉をかけて下さって、光の中へと招き入れて下さいます。礼拝は、そのような救いの光を浴びる場であります。

・イザヤ書60章で、預言者イザヤはこう告げています。

 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ6012)。――植村環先生は、このイザヤ書の説教の中で、<教会は主の光が射しているいちばん目抜きの場所です>と言われています。また、<教会の中に、霊的なバッテリーをちゃんと用意して、それが主イエス・キリストという電源にちゃんと接続している、そうならば本当に光を発する教会となりうる>とも言われております。この小さな伝道所も主の光の電源にちゃんと接続しているのであれば、主の栄光が現れるのです。

3.力ある業を広く伝える

9節の最後には、そのような光を受けている教会の使命が語られています。9節の中ほどから読みますと、それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです、と言われています。

 「力ある業」というと普通は奇跡のことを言いますが、ここで用いられているギリシャ語は<卓越した業><驚くべき威力>を表わす言葉であります。私たちのような者が、暗闇の中から光の中に招き入れられることは、全く驚くべきことであり、正に奇跡としか言い得ないことであります。教会がなすべきことは、その驚きの業を広く伝えるということであります。難しいことではありません。十字架と復活の御業によって自分が暗闇から光の中へ移し変えられたことを語ればよいのであります。そうすれば、十字架と復活の福音自体が持っている力が、世の中の暗い部分を明るくし、暗闇の中に佇んでいる人を、光の中に招き入れることが出来るのであります。

・私たちが「選ばれた民」とされたのは、もちろん私たちが福音に与かるためであり、私たち自身が暗闇から光の中へ招き入れられるためでありますが、それに終わるものではありません。救いとは、神様と私たちの関係が個人的に変わることでありますが、それに留まるものではありません。私たちは「神の民」となるのであります。救われた者の集団(=教会)に加わるのであります。そして、この集団に与えられた役割は、先程聞きましたように、神様と人との間をつなぐ「祭司」の役割を担うことであります。その役割とは、自分自身を献げると共に、新たな信仰者を献げるということで、それは言い換えれば、福音を取り次ぐ(広く伝える)ということであります。一人でも多くの人を暗闇の中から光の中へと招き入れるということであります。

結.憐れみを受けている

・最後に10節の言葉を聴きましょう。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている。」――これはホセア書からの引用であります。ホセア書1章を見ますと、預言者ホセアは淫行の女ゴメルをめとるように神から命じられるのであります。そして妻ゴメルは淫行を重ねて、子を産むのですが、二番目の女の子を、主は「ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名づけよ」と言われ、三番目の男の子には「ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ」と命じられるのです。ところが2章になると、ユダとイスラエルの民がひとつに集められて、一人の頭が立てられて、「ロ・ルハマ」と呼ばれていた者が「ルハマ(憐れまれる者)」と呼ばれ、「ロ・アンミ」と呼ばれていた者が「アンミ(わが民)」と呼ばれるようになる、と言うのであります。つまり、この物語は、教会の頭である主イエスが立てられて、それまで神の民でなかった者が神の民と呼ばれるようになり、神の憐れみを受けなかった者が、憐れみを受けるようになるという、大転換が起こったことを預言していると受け止めて、ペトロはここに記しているのであります。

・私たちは皆、淫行の妻ゴメルのように、神に対して貞操を守らない、罪深い者たちであります。「神の民でない者」「憐れまれぬ者」とされても、止むを得ない者たちであります。しかし、主イエス・キリストによって、「神の民」「憐れみを受ける者」とされたのであります。立場が大きく転換させられたのであります。

今日の箇所には、<私たちの立場がどこにあるか>ということが語られている、と最初に申しました。異教の中で現実の生活をしているうちに、私たちは自分の立場が分からなくなったり、自分の立場に確信を持てなくなったりいたします。実際、私たちは自分の立場に相応しくないことをしてしまいます。

しかし、今日、主はペトロの言葉を通して、私たちに語って下さいます。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。あなたがたは暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れられた者です。かつては神の民ではなかったが、今は、主イエス・キリストの故に、憐れみを受ける者とされたのです。もはや、暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れられたのです。だから、あなたがたはその主の恵みの御業を広く伝える者となりなさい。人々を光の中へ招き入れる者になりなさい」。――私たちの立場ははっきりしているのです。   私たちは、現実の生活の中で、与えられた立場を見失い、望みを失いがちでありますが、主は決して私たちをお見捨てにならず、私たちの立場を守って下さることを覚えたいと思います。
・祈りましょう。

祈  り
 ・主イエス・キリストの父なる神様!

・あなたは、御子イエス・キリストの故に、私たちをあなたの民として下さり、今日も、光の中へと招きいれて下さいましたことを、感謝いたします。

・どうか、この「神の民」としての立場を常に確信し、その恵みを広く人々に伝える者とならせて下さい。

・あなたの光に照らされながら、光に気づいていない人たち、光を避けて暗闇の中から出て来ようとしない人たち、が多くあります。どうか、その方々をも光の中へと招いて下さい。そのために私たちがなすべきことを教えて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年8月30日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 2:9−10
 説教題:「選ばれた民」
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