「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」      (ヨハネによる福音書1224

 主イエスが群衆の歓呼のうちにエルサレムに入城された直後に、何人かのギリシャ人が弟子のフィリポのもとに来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。彼らは、異邦人でありながらユダヤ教に改宗した人たちとみられるが、主の奇跡の業のことなどを聞いて、主イエスに関心を抱いたようである。「お願いです
(原語は主よ)」という言葉から、弟子や主に対する尊敬の念を持ってやって来たことが伺えるし、「お目にかかりたい」という「見る」という言葉は、ヨハネ福音書では、人格的・信仰的な出会いの場面で用いられている。従って、ギリシャ人たちは主イエスに対する求道の志を持ってやって来たと思われる。
 それに対して、主イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と、これまでとは違って、十字架と復活の時が迫っていることを告げた上で、標記の言葉を語られた。これは、主イエスの死が多くの人に新しい命をもたらすことを示していて、イザヤ531112の預言の成就を見通した言葉であって、ユダヤ人、ギリシャ人の区別なく、全世界の人が救いに入れられることを告げられたのである。
 だが、その後で、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われ、更に、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と命じられる。つまり、主イエスとの人格的・信仰的な交わりを結ぶということは、単に主イエスから何らかの有益なものをいただくだけでなく、主イエスのため、福音のために自分の命を献げることを意味する(マルコ835参照)。その覚悟はあるのか、と問うておられるのだ。礼拝に来ている私たちも同様で、生活の一部ではなく、生活と生涯の全てを主に合わせることへと招いておられる。その招きに応えるとき、私たちは主のおられるところにいることになり、父なる神が私たちを、なくてならぬ大切な者として扱って下さる(26節)と約束しておられるのだ。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年8月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書12:20−26
 説教題:「一粒の麦」
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