序.主イエスに会いに来たギリシャ人

・先週は、主イエスが、大勢の群衆の歓呼のうちに、エルサレムに入られたことを聴きました。このとき群衆が主イエスに求めているものと、主イエスがこれから人々に与えようとしておられるものとの間には食い違いがありました。そのことは、13節に記されている群衆の歓呼の叫びの言葉と、15節の引用句によって示されている主イエスのお姿の食い違いに表わされています。群衆は、自分たちの国をローマの支配から救い出す強い「イスラエルの王」を求めています。ところが主イエスは、軍馬にまたがった強い王のお姿ではなくて、ろばの子に乗っておいでになる王であります。十字架に向かわれる王であります。この食い違いについて、群衆はもちろん、弟子たちですら、この時は気付いていなかったことが、15節に記されていました。

19節には、歓呼して主イエスを迎える群衆について、ファリサイ派の人々が言った言葉が記されています。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」――彼らは主イエスを逮捕して殺そうとたくらんでいます。しかし、群衆があまりにも熱狂的に主イエスを迎えているので、手がつけられないのであります。彼らは主イエスを亡き者にしようとしている点では群衆とは正反対でありますが、これから起こることの本当の意味を知らないという点では、同じであります。

・ファリサイ派の人々は、「世をあげてあの男について行った」と言っております。「世をあげて」ということは、ユダヤ人だけではなかったということであります。他の国々の人々も混じっていたということを示唆しています。それを受けて、今日の箇所の20節が続きます。こう記されています。さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシャ人がいた。

・このギリシャ人がどういう人なのか、詳しい説明は記されていませんが、「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た」とありますから、異教徒ではない(ユダヤ教徒)ということが分かります。つまりギリシャ人でありながら、ユダヤ教に改宗した人たちであると考えられます。そうした人のことを、使徒言行録では「神をあがめるギリシャ人」(174)と呼んでいたようであります。その人たちが神殿で礼拝するだけでなく、主イエスのなさったことなどを聞いて、主イエスに関心を持ったようであります。ラザロを甦らせた奇跡のことも聞いたのかもしれません。

21節を見ますと、彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだのであります。なぜフィリポのもとに来たのか、その理由は定かではありませんが、「フィリポ」という名前がギリシャ風の名前ですし、出身地のベトサイダという所は、ガリラヤ湖のほとりにある町ですが、正確にはガリラヤ地方ではなくて、異邦人が多く住んでいた町ですので、フィリポと何らかの接点があったのかもしれません。

・面白いのは、ギリシャ人たちの言葉であります。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と言っております。この「お願いです」と訳されている言葉の原文は、普通「主」と訳される「キュリエ」という言葉が使われています。「主」というのは神様か主イエスにしか使いませんので、ここでは「主」と訳すのが相応しくないので、「お願いです」と訳してあるのです。しかし、ギリシャ人が「主」という言葉を使ったということは、主イエスの弟子であるフィリポに対して敬意をもって接したことが伺えますし、ひいては主イエスに対して、並々ならぬ尊敬の念をもってやって来たことが読み取れるのであります。

・もう一つ着目したいのは、「お目にかかりたい」という言葉です。ここには「見る」という言葉が使われています。と言っても、単に顔を見る、お姿を見るということではなくて、お会いしてお話しを聞きたいという意味でしょうが、ここに使われている「見る」という言葉は、ヨハネ福音書の中では、信仰と結びついた使われ方をしています。1章に主イエスの受肉のことを述べた箇所がありますが、そこでは、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。この「栄光を見た」というのは、単に<肉眼で見た>とか<出会った>ということではなくて、<心の目で見た>、<信仰をもって見た>、ということであります。また、1章の終わりに、主イエスと弟子たちとの出会いのことが書かれていますが、そこにもこの「見る」という言葉が何度も使われています。例えば、ここと同じフィリポが主イエスに出会った後、ナタナエルに出会うと、彼は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言うのですが、それに対してフィリポは「来て、見なさい」と言うのです。それで主イエスの所に行くと、主イエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われ、更に「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言われています。そこで言われているのも、単に肉眼で見るとか、出会うという以上に、人格的な出会い、信仰の出会いを表しています。ですから、ここでもギリシャ人は、単にお目にかかってお話が聞きたいという以上の人格的、信仰的な出会いを求めているのではないかと見ることが出来るのであります。彼らは、主イエスに対する求道の志を持ってやって来たのであります。

・ところで、今日、この礼拝にやって来た私たちも、主イエスにお目にかかるために来ているのであります。単に聖書の勉強のために来たのではありませんし、キリスト教の講演を聞きに来たのでもありませんし、何か人生の指針を得るような講話を聞きに来たのでもありません。主イエスの御言葉を聴き、その御人格に触れ、主イエスの救いに入れられるために来たのであります。

・この後、ギリシャ人たちは主イエスにお会いすることが出来たのかどうか、その結果、主イエスを信じるようになったのかどうかは、記されていません。23節以下で主イエスが語っておられるお言葉は、直接ギリシャ人たちに語られたのか、弟子たちを通して間接的に伝えられたのかは分かりませんが、いずれにしろギリシャ人は、何らかの形で、この言葉を聴くことが出来たと思われますし、ヨハネとしては、この言葉がギリシャ人に語られたかどうかよりも、自分たちに伝えられた言葉として、どうしてもここに記しておきたかったのでしょう。そして、その言葉はまた、今日、主イエスが、私たちに対して語って下さるお言葉でもあります。かつて、ギリシャ人たちが全世界の異邦人の代表として聴いた言葉を、今日は私たちも聴くことが出来るのであります。

1.栄光を受ける時

23節以下の主イエスのお答えで、最初に言われたことは、「人の子が栄光を受ける時が来た」でありました。これは、ヨハネ福音書の中では画期的な言葉であります。というのは、これまでの所では繰り返し、「イエスの時はまだ来ていない」と語られて来たからであります。例えば、2章の「カナの婚礼」の場面で、母マリアが「ぶどう酒が足りなくなりました」と言われると、主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」(24)とおっしゃいました。また、7章で、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった」と記した後で、「イエスの時はまだ来ていなかったからである」(731)と注釈をつけています。ラザロが甦った場面では、主イエスが墓に来られて、「石を取りのけなさい」と言われると、マルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いますと、主は「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とおっしゃいました。これは、ラザロの甦りの奇跡が、神の栄光を現わすことになる、という意味ですが、主イエスが決定的な栄光をお受けになる時が来たのではありませんでした。しかし、ここでは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と宣言されているのであります。「人の子が栄光を受ける時」とは、これまでにも暗示されて来たように、主イエス・キリストの十字架と復活の時であります。この後の27節を見ていただきますと、主イエスはこう祈っておられます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」――このように、主イエスは、この時から、栄光を受ける時が遂に来た、と言い始めておられるのであります。

・では、なぜギリシャ人が「お目にかかりたい」と言ってやって来た時に、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言い始められたのでしょうか。――ここに重要なメッセージが含まれているように思います。つまり、主イエスの十字架と復活によって救いのみ業が行なわれて、栄光をお受けになる時というのは、同時に、救いがユダヤ人だけではなくて、異邦人にも及ぶ時である、ということであります。今、ギリシャ人たちが、主イエスに対して深い尊敬の念を抱いて、面会を求めたとしても、それが直ちに彼らの救いになるわけではありません。しかし主は、これから十字架の道へ進もうとされている時に、ギリシャ人たちがやって来たことを知らされて、このギリシャ人たちをも含めて全世界の人々を救う時が、今やまさに来ようとしている、いや、来させねばならない、とお考えになったのではないでしょうか。

そうであれば、今こうして私たちが礼拝に来て、主イエスにお目にかかりたいと願っているならば、主はそのような私たちのためにも、十字架の救いを分かとうとしていて下さるということではないでしょうか。ギリシャ人が主イエスにお目にかかりたいと思ったことが、直ちに救いに繫がるのではないように、私たちが礼拝に来ていることが、直ちに救いに繋がるわけではありません。しかし、主イエスがギリシャ人の訪問を受けて、「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃって、彼らをも救いに入れようと決心なさったように、私たちが礼拝に来ているのを見て、私たちをも十字架の救いに入れようと決心して下さっているのではないでしょうか。

2.一粒の麦

・続いて24節では、主イエスのお言葉の中でも最もよく知られている言葉の一つをお語りになりました。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」――これは一つの譬えを用いて語っておられるのでありますが、その意味は、誰でもすぐに理解出来ます。麦の実は、そのままテーブルの上に置いておいても、ただの一粒の麦に過ぎません。腹の足しにもなりません。しかし、あたかも人が死んで地中に葬られるように、一粒の麦が土の中に埋められてはじめて、やがてそこから芽が出て、多くの実を含む穂となるのであります。そのように、主イエスも、十字架の上で死んで墓に葬られることによってはじめて、そこから新しい命が生み出され、多くの者が罪赦されて、キリストにある新しい命に生き始めるのだ、とおっしゃるのであります。

先程、旧約聖書の朗読でイザヤ書53章の最後の部分を読んでいただきました。実は、これは52章の13節から始まる「主の僕の歌」と呼ばれているものの、最後の部分であります。全体が主イエスの苦難と死を暗示しています。その最後の部分は、苦難と死の結果、大きな実りがあることが述べられています。

彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。

わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

                  (イザヤ5311,12

主の僕が自らを投げ打って、人々の罪・過ちを負って死ぬときに、罪赦されたおびただしい人々が、彼の実りとして与えられるというのであります。今、ギリシャ人が主イエスのところにやって来たことから、主イエスはこのイザヤの預言がやがて成就して、ユダヤ人、ギリシャ人の区別なく、全世界の人々が救いに入れられることを見通しておられます。しかし、その成就には主の僕が「自らをなげうつ」ことが不可欠であります。そのことを主は、一粒の麦の譬えで示そうとされたのであります。ギリシャ人は主イエスに何を期待してやって来たのか分かりませんが、主イエスはここではっきりと、自らの死を宣言されているのであります。今あなたがたが会いたいと思っている私は、そのような者なのだよ、あなたがたには、その覚悟はあるのか、ということであります。

・私たちが主イエスに出会うということは、十字架の主に出会うことです。地に落ちて死に給う方と出会うのであります。「お目にかかる」とは、先程申したように、ただ外見を見ることではなく、この人の思想や教えを学ぶのでもなく、この方と人格的に交わることです。<あなたの罪のために命を棄てた私と交わることになるのだよ、その覚悟はあるのか>、と問われているのであります。

3.自分の命を愛する/憎む

・続いて25節には、厳しいお言葉が語られています。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

・今、24節で聴いた「一粒の麦」の譬えは、主イエス御自身のことをおっしゃっているのだと理解して聴きました。文脈からして、そう受け止めて間違いありませんし、そう受け止めなければ意味のないことであります。しかし、それに続く26節はどうでしょうか。これは普通、一般論を述べておられるように受け止められることが多いのではないかと思います。ところが、ある説教者は、これは主イエスが御自分のことを言っておられるのだ、と述べております。言われて見ると、これは24節の言い直しであるとも読めるのであります。そうかと言って、これは主イエス御自身のことだけを言っておられるのでないことも明らかで、大切なことは、主イエスが御自分の命を失って下さったことと、私たちが自分の命を失うこととが結び付けられているということであります。そうであれば、24節の「一粒の麦」の譬えも、単に主イエス御自身のことをおっしゃったのではなくて、私たちにも当てはまることとして聴くことも出来るのであります。

25節の中に「自分の命を憎む」という厳しい言葉が使われています。これは、何も自殺が勧められているのではありませんし、自分の命なんか大した値打ちはないのだから、粗末にしてもよい、ということでもありません。「自分の命を愛する」とは、自分の命を自分のこと(自分の利益)だけに用いる、ということであります。ですから、「自分の命を憎む」というのは、その反対で、自分の命を自分のためだけに用いない、ということであります。自分だけを愛する自己愛に勝つということは、「憎む」という言葉を使わなければならないほど、厳しいことであるということでしょう。

ここで間違ってはいけないのは、単なる自己犠牲が勧められているのではない、ということであります。終戦記念日前後には、毎年、かつての「神風特攻隊」のことや「回天」という潜水艦の特攻隊のことがテレビや新聞で取り上げられますが、ここでは、そういうことが尊いこととされているのではありませんし、テロリストが行なう「自爆テロ」が勧められているのでもありません。

この25節と似た言葉を主イエスはマルコ福音書(835)でも語っておられますが、そこでは、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と言っておられます。「キリストのため、福音のため」ということが大切であります。もちろん、世のため、人のために自分を犠牲にするとか、身を粉にするというようなことも美しいことであり、大切な愛の業であるとも言えるのでありますが、「キリストのため、福音のため」ということが抜けていると、いつの間にか、「自分の名誉のため」にすり替わってしまったり、「自分たち仲間のため」に留まってしまったりするのであります。

4.主に仕える

・次の26節前半では、「キリストのため」ということが、一層はっきりと述べられています。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と、「わたしに」が強調されています。ここで「仕える」と訳されている言葉は、ディアコネーという語で、普通「奉仕」と言われている言葉ですが、「奉仕」というと、自分の生活の中で余裕のある部分を人のために使うというニュアンスが拭い切れないのですが、ここでは、主イエスに「奉仕する(仕える)」ということは、「従う」ということ、端的に言えば「弟子になる」ということだと言われるのであります。「従う」とか「弟子になる」ということは、生活の一部分を献げるということではありません。生活を共にする、生涯を献げるということであります。自分の生活が、主イエスの生活と一緒になるのであります。自分の都合や自分の考えを基準にするのではなくて、すべてを主イエスに合わせて行くということであります。――それは、何か自分を失ってしまうようで、恐ろしいような、心細いような気がするかもしれません。しかし、それが、自分自身への囚われから解放されて、本当の自由が与えられるということであり、それが、25節で「永遠の命に至る」と言われていることであります。

結.父が大切にしてくださる

・最後に、26節後半で語られている、すばらしい恵みの言葉を聴きたいと思います。「そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」――主イエスに仕える者、主イエスのために自分の命、自分の生涯、自分の生活を献げる者は、主イエスのおられる所にいることが出来るのであります。主イエスと共にいることが出来るのであります。それだけではありません。更に、主イエスに仕える者を、父なる神が「大切にしてくださる」とも言われています。「大切にする」とは、重んじる、尊ぶという意味を持った言葉であります。神様が私たちを、なくてならぬ大切な者と扱って下さるということであります。

・ギリシャ人は、どういう思いで主イエスにお目にかかろうとしたのか、ただ興味本位であったかもしれません。私たちが礼拝に来ているのも、何か心の拠り所を得たいというだけの思いであるかもしれません。しかし、主イエスは、<そのあなたのために、自分は一粒の麦となって死ぬのだ>と言って下さり、<その私に仕えるならば、私と一緒にいることになるし、そのようなあなたを、神は大切にして下さる>、と約束されるのであります。
・祈りましょう。

祈  り

 ・イエス・キリストの父なる神様!

・御子イエス・キリストを私たちのために、かけがえのない「一粒の麦」として下さり、また私たちのような者が主と共におらせていただけ、神様が私たちを重んじて下さることへと招いておられることを覚えて、感謝いたします。

・どうか、主イエスの十字架の恵みを受け入れて、自らの命を憎む者とならせて下さい。

・どうか、今日示された主の恵みを、まだ知らない者、また礼拝から遠ざかっていて、その恵みを受ける機会を失っている者を顧みて下さり、永遠の命に至ることが出来るようにして下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年8月23日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書12:20-26
 説教題:「一粒の麦」
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