序.イエスが来られる

・今日、与えられております聖書の箇所は、主イエスが、いよいよエルサレムに来られる場面であります。ここには人々が主イエスをどのようにお迎えしたかが記されています。

・ところで、主の日ごとに行なわれる私たちの礼拝にも、主イエス・キリストが来て下さいます。2000年前のように、肉体をもって来られるのではなく、聖書の御言葉を通して、聖霊において来られるのでありますが、確かに現臨して下さると信じているのであります。主イエスが私たちの礼拝に来られるというのは、比喩ではありません。目には見えませんが、主イエスが愛の御人格をもって、私たちに接近しようとされているのであります。聖書に書かれていることは、確かに過去の出来事であります。しかし、そこで主イエスと人々との間に起こっていることは、今も起こるのであります。もちろん、状況は違います。しかし、人々に対する主イエスの御心は今も同じであります。同じ御心をもって、今日も私たちに接近されるのであります。

・ここには2000年前の人々が、どのようにお迎えしたかが書かれていますが、今、私たちはどのように主イエスをお迎えするのかが問われます。主イエスは人々に、どのようにして迎えなさいというようなことは、ここでは何も語っておられません。人々は、彼らなりの思いを行動に表わして、お迎えしました。一方、主イエスは、重大な覚悟をもってエルサレムに入られます。主イエスは、何のためにエルサレムに来たのかということを、旧約聖書に記された、奇妙な王の姿をもってお示しになります。しかし、人々は、弟子たちをも含めて、まだそのことがよく分かっていません。弟子たちは、後になって、その意味が分かるのであります。そして、この福音書が書かれることになるのであります。

・このような主イエスと人々や弟子たちとの関係は、今の私たちと主イエス・キリストとの関係を表わすものであります。私たちは主イエスがどのような思いをもって、エルサレムに来られたか、そして今、私たちのところに来られるのか、そのことを、私たちは必ずしもよく理解しておりません。分かったつもりでいるのですが、結局は、当時の人々と変わらない面があるのであります。

・今日は、この聖書の箇所を通して、主は私たちに、主イエスの真実を示そうとされているのであります。主イエスが私たちと、どう関わろうとしておられるのか、私たちのために何をして下さるのかが、示されるのであります。今日は、そのことを、聴いていきたいと思います。

1.なつめやしの枝を持って――「イスラエルの王」を歓迎して

12,13節には、このように書かれています。その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」

・「その翌日」というのは、ベタニアでマリアが主イエスの足に香油を注いだという出来事があった翌日で、過越祭の五日前に当たります。多分その日は日曜日であったろうと考えられています。キリスト教会では、受難週に入る日曜日のことを「棕櫚の日」と呼んで来ました。それは、口語訳聖書では、群衆が棕櫚の枝を手にとって主イエスを迎えたと書かれていることに由来しますが、その後の研究で、それは私たちが知っている「棕櫚」ではなくて、新共同訳のように「なつめやし」が正解であることが分かったのです。他の福音書では、単に「木の枝」、「葉のついた枝」と書いてあるだけですが、ヨハネ福音書が「なつめやし」としたのは、それが祝いや喜びを表わす時に用いられたからだと思われます。

「ホサナ」以下は、詩編118編からの引用ですが、これは仮庵祭の際に、群衆が列をなして神殿に入る時に歌われるもので、その歌をもって群衆は主イエスを歓迎したということであります。「ホサナ」というのは、「今救い給え」という意味ですが、私たちの「万歳」と同じように、歓呼のために使われたようです。

・注目しなければならないのは、「イスラエルの王に」と言っていることです。これは詩編にはない言葉ですが、ルカでも「王」と言われ、マタイ、マルコでは「ダビデ」と言われています。つまり、群衆は主イエスを、政治的にイスラエルを解放する王として迎えたということであります。このような迎え方は、これより更に300年ほど前に、当時ユダヤを支配していたシリア王国に対して、ユダヤのマカバイ家の人たちが立ち上がって独立をもたらしたという歴史的出来事があったのですが、その時にエルサレムへ凱旋する英雄を迎えた様子と同じなのであります。

・「祭りに来ていた大勢の群衆」とありますから、エルサレム以外の人たちもいたのでしょうが、主イエスがガリラヤ地方でなさった数々の奇跡の業のことを見聞きしていたのでしょう。以前に主イエスが五千人以上の人々を五つのパンと二匹の魚で満腹させられた出来事がありましたが、その時、人々が主イエスを王にしようとして連れて行こうとしたので、主イエスは山に退かれたということが書かれていました(615)。そういう流れが、ここまで続いていたことが考えられます。また、17,18節には、こう書かれています。イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。ラザロが墓から甦った出来事が伝えられて、主イエスに対する期待がますます増幅したようであります。

・さて、このような群衆の期待は、ユダヤがローマの支配下にあったという当時の政治的状況を反映しているのでありますが、このような期待をもって主イエスを迎える群衆の姿は、決して私たちと無縁ではありません。私たちもまた、私たちがこの世で生活する上で困っている諸問題を解決して下さるお方として、主イエスをお迎えしようとするのであります。私たちは、キリスト教が御利益宗教ではないことをよく弁えているつもりであります。ただ病気を治していただけるとか、商売が繁盛するとか、家内安全だとか、あるいは、国が他国に勝利するとか、経済が繁栄するとかいうことを主イエスに期待するのは間違いであるということを知っております。そして、ただ政治的な王への期待をして歓呼して主イエスを迎えた群衆が、それから一週間もしないうちに、その期待が裏切られたときに、「十字架につけよ」と叫ぶ群衆に変わってしまったことを批判して、自分たちは主イエスに対して、そんな期待をしていない、と言うのかもしれません。しかし、私たちが主イエスに期待し、神様に祈っていることは、自分や周りの人たちが健康で平安な生活が出来ることであり、仕事やこの世の営みが順調に行くことであり、人間関係がうまく行くことであり、せいぜい、自分の人生に生きる指針を与えられたり、世のため人のために貢献出来たり、教会が盛んになることではないでしょうか。そうした期待が、悪いというのではありません。しかし、私たちは、そうした期待に反して、自分の思ったように事が進まないとか、不具合が生じると、いつの間にか主イエスへの期待が薄れ、自分の生活の中から主イエスを追い出してしまって、場合によっては、主イエスに期待したのは、空しいことだった、などと思ってしまいます。表立って主イエスを否定するわけではなくとも、主イエスとの交わりに喜びや感謝が持てないとすれば、私たちの期待の仕方に、どこか問題があるのではないでしょうか。

・ところで主イエスは、これまでは群衆が誤った期待をしたときは、そっと山へ退かれたり、その愚かさを諭されたりしたのですが、この時は違いました。主イエスは彼らの歓呼の声を受け入れておられるかのようであります。ルカ福音書によれば、群衆があまりにも声高に賛美することに対して、ファリサイ派の人たちが眉を顰めて、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言いますと、主イエスは「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」と言われました(ルカ193940)。主イエスは群衆や弟子たちの歓呼を止めることが出来ないものとして、容認しておられるのであります。主イエスは、この群衆の叫びが、もう間もなく、「十字架につけよ」という叫びに変わるのを、ご存じないわけではありません。そのことを知りながら、十字架へと向かって行かれるのであります。今こそ、その時が来たと思っておられるからであります。人々が主イエスに期待していることと、主イエスがこれからしようとしておられることは、大きく違っております。しかし、主イエスはその食い違いの真只中へと進まれるのであります。私たちの期待も、主イエスが私たちのためにしようとされていることと、食い違っているのです。しかし、主イエスはその私たちのところへ、今日も来て下さるし、私たちのための十字架の歩みを止められることはないのであります。

2.ろばの子に乗って

・ただし、主イエスが進まれるお様子は、人々の期待した姿とは少し違う点がありました。14節にありますように、イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった、のであります。そのいきさつについて、他の福音書に詳しく語られているのですが、要点は、主イエスがろばに乗って入城することを決めておられて、弟子たちに命じて連れて来させられたということであります。

・凱旋将軍であれば、威風堂々と馬に乗って入城するのが普通です。群衆はそういう主イエスを期待したかもしれません。弟子たちも、選りによって、なぜ乗りにくくて歩くのも遅いろばの子なのか、よく分からなかったのであります。後になって分かったことですが、それは15節にある旧約聖書の言葉の成就なのであります。これは、先程朗読されたゼカリア書9章からの引用であります。これは、イスラエルの救いに関する黙示的な預言の一部ですが、99節後半からをもう一度読みますと、こう言われています。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。」――ここでは「ろばに乗って来る」ことが、「高ぶることなく」ということに結び付けられています。そして、これこそが、神に従う勝利者であり、本当の平和をもたらす者であることが告げられているのであります。主イエスは力によって勝利されるのではなくて、十字架に至るまでもへりくだられることによって、罪に勝利されて、人と人との平和の基礎となる、神と人との間の平和を取り戻されたのであります。

3.分からなかった弟子たち――十字架と復活によって

・しかし、この時点では、弟子たちはそのような主イエスの御意図を理解しておりませんでした。16節には、こう書かれています。弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。――「イエスが栄光を受けられたとき」というのは、主イエスの復活のときのことであります。その時になって初めて、弟子たちは、主イエスがろばに乗って入城されたのは、ゼカリア書の預言の成就であり、人々や自分たちが主イエスに期待したことは、見当はずれであって、主イエスが目指しておられたのは、十字架への道であり、自分たちのしたことは、主イエスを十字架に追いやることでしかなかったということが分かったのであります。主イエスは御自分を理解せず、自分本位の期待をする者たちを、裁くことをなさらずに、彼らの誤解から生じる結末を一身に負われたのであります。その結果、復活して、栄光を受けられたのであります。

・私たちもまた、主イエスに勝手な期待を抱きつつ、主イエスを迎える者であり、その結果、自分の思い通りにならないと、勝手に失望したり、批判したり、主イエスから遠ざかったりするのでありますが、主イエスは、私たちがそういう者たちであることを御存知な上で、そのような仕打ちにも耐えて、十字架に架かって下さったし、今も心を痛めつつ、私たちに出会って下さっているのであります。

17,18節は、先程も触れましたが、ラザロを死者の中からよみがえらせられたことによって、群衆が誤った期待を抱くようになったことを述べているのであります。こうした記述は、他の三つの福音書にはありませんで、ヨハネ福音書だけが、ラザロの物語を主イエスの入城と結びつけているのですが、ヨハネがここで言いたいことは、ラザロの復活の出来事の意味であります。ヨハネがよく使う「しるし」という言葉がここでも出て来ますが、これは奇跡を表わす言葉であるとともに、その奇跡が指し示そうとしている意味をも表わす言葉であります。ラザロの復活の出来事は、人々が誤解したように、主イエスの絶大な力を示して、主を王に担ぎ上げたり、主に従わせるための「しるし」ではなく、罪のゆえに、死の力の前にはどうすることも出来ず、諦めざるをえない人間たちのところに、主イエスが憤りを持って来て下さるお方であり、自ら、十字架にお架かりになるほどに、死と戦って下さることによって、罪に勝利して復活して下さり、私たちに新しい命をもたらせて下さるお方であることを示す「しるし」なのだということであります。弟子たちも、当時はそのことが分かっていませんでした。しかし、今、ろばの子に乗って入城される主イエスのお姿を思い起こしつつ、それは人類の罪と死を滅ぼすための戦いへと向かわれるお姿であり、その先にはラザロの復活で示される、御自身の復活と私たちの新しい命への救いがあるのだ、ということを改めて喜びをもって噛み締めているのであります。

結.まことの王を迎えて

・最後に19節にファリサイ派の人々の言葉が書き残されています。彼らは、「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」と言っております。群衆が雪崩を打つように主イエスになびいて行くのを嘆く言葉であります。しかし、実際は、この後、群衆の心は雪崩を打つように、主イエスから離れて、「十字架につけよ」と叫ぶのであります。それが群衆であり、また私たちであります。その群衆の流れを、当時の最高権力者であるピラトでさえ、押し止めることが出来ませんでしたし、私たちもまた、世をあげてあの男(主イエス)に付いて行かないのであります。何をしても無駄だと言わざるを得ない私たちの姿です。

・しかし、その中でただ独り、全くぶれることなく、十字架への道を真直ぐに歩まれたのが主イエスであります。この主イエスの歩みを、誰も曲げることも、まして止めることも出来ませんでした。そして、その主イエスの歩みこそ、人を罪から救う歩みであり、その歩みを、誰も、どんな悪の力も、それを止めることが出来なかったのであります。サタンをして、「見よ、何をしても無駄だ」と言わしめるのが、主の十字架と復活の御業であります。

この世の王や偽物の王は、軍馬にまたがり、力を頼み、数を頼みとします。私たちも、そのような王の出現を期待します。しかし、まことの王はろばの子に乗って、ただ独りで十字架の道を歩まれます。私たちはそのような王に失望します。そのような王に従うことに不安を覚えます。恐れさえ感じてしまいます。しかし、まことの王は、今日も私たちのところに、ろばの子以外のものに乗って来ようとはされません。私たちは、主イエスがろばの子に乗っておられるお姿に、何か違和感を覚えながらも、最初はついて行こうとするかもしれません。しかし、その行き着く先が十字架であることが分かった時に、ついて行けなくなることがあります。礼拝は、ろばの子に乗った主イエスが来られる場であります。主は決して、軍馬にまたがって礼拝に来られることはありません。そのような主イエスに、私たちは恐れを覚えざるを得ません。

しかし、ゼカリアは言います。子に「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの乗って。」ろばの子に乗って来ておられるお方こそ、まことの王なのであります。この王に従って行くとき、あらゆる恐れから解放されるのであります。そしてゼカリア書が続けて言うように、その先に本当の平和があるのであります。

昨日は64回目の終戦記念日でありました。太平洋戦争は64年前に終わったものの、まだ地上には争いが絶えませんし、私たちの日常にも争いがあり、平和の時が何時訪れるのか、私たちには全く見えないように思われます。しかし、主イエスがろばの子によって私たちのところに来て下さったことによって、真の平和は始まったのであります。なぜなら、主イエスによって、神と私たちの間の平和が既にもたらされたからであります。この主イエスを私たちが喜んでお迎えするこの場所から、恐れが消えて、ほんとうの平和が始まるのであります。 ・祈りましょう。

祈  り
 ・父なる神様!

・御子イエス・キリストを地上に遣わして、十字架と復活の御業をなして下さったとともに、今日も主イエス・キリストを私たちの礼拝に遣わして下さったことを感謝いたします。

・私たちが主に期待することは、御心と食い違うことが多いと思われますが、どうか繰り返し主にお会いすることによって、主がなして下さったことを正しく知り、魂の奥深くから、喜びと感謝をもって、主をお迎えすることが出来るようにして下さい。

・地上にはまだ多くの争いがありますが、どうか、あなたとの平和が成就した、この礼拝の場所から、私たちの日常の中に、そして世界中に、平和が広がって行きますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年8月16日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書12:12−19
 説教題:「まことの王」
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