「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」                      (ヨハネによる福音書1278
 主イエスがラザロを死者の中から甦らせたことを感謝して、食事の席が用意されていたのであろう。ラザロが主イエスにどんな感謝の言葉を述べたかは記されていないが、ラザロがそこにいるだけで、主イエスを証しすることになった。その影響の大きさは、祭司長たちが主イエスだけでなくラザロをも殺そうと謀った(10)ほどであった。マルタは「給仕をしていた」(2)とだけ報告されている。感謝の気持ちを給仕することで表わそうとしたのであろうが、それは地上的、人間的な感謝の域を出ていない。私たちの主イエスに対するあり方も、この域を出ていないのではないか。
 それに対してマリアは、300デナリオン(一年分の賃金に相当)もの高価な香油を主イエスの足に塗った。そこには、王や祭司や預言者に「油を注ぐ(キリスト)」と言う意味が込められていたのか、或いは主イエスの洗足行為(13)を先取りして、主イエスの僕であることを示すものであったのか、マリアの考えた意図は記されていないが、彼女の主イエスに対する深い愛が込められていたことは疑い得ない。
 ところがこの行為を、弟子の一人がとがめて、「なぜ、この香油を貧しい人々に施さなかったのか」と言う。確かにマリアの行為は誰が見ても無駄としか思えない。それに対して主イエスは標記のように言われた。マリア自身は葬りの日のためとは考えていなかったであろうが、主イエスに逮捕命令が出されていたこともあり、主の死が近いことを感じ、切迫した思いの中から、一番大切にしていたものを献げたのであろう。主イエスの十字架も人の目には無駄な死としか見えないかもしれない。だがそれは<聖なる浪費>である。貧しい人はいつも私たちの周りにいる。しかし、主イエスとの関係には時がある。一回一回の礼拝も、最も大切な自分自身を献げるべき、かけがえのない時である。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年8月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書12:1−11
 説教題:「主の葬りの日のために」
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