序.主が喜ばれる行為とは

・先週は、主イエスがラザロを甦らせたという出来事が、ユダヤの指導者たちの危機感を募らせて、大祭司カイアファが、国民全体が滅びないためには、一人の人間が死なねばならないと発言し、最高法院は主イエスを殺そうとたくらんで、逮捕命令を出したことを聞きました。

・主イエスと弟子たちは、逮捕命令が出ていることを知って、エフライムという町に、しばらく身を潜めていました。それは、逮捕されて十字架に架かるのは、過越祭の時が相応しいと考えておられたからであると思われます。

・今日の箇所は、その過越祭の六日前の出来事であります。主イエスはラザロたちの家があるベタニアに行かれました。ここは、エルサレムとは目と鼻の先の所であります。主イエスを捕らえようとする人たちの目が光っていたかもしれません。けれども、ラザロやマルタ、マリアが主イエスに感謝をこめて、食事の席を用意したからでしょう、主イエスはその席に来ておられました。

・この席でマリアが、非常に高価なナルドの香油を、主イエスの足に塗ったという、有名な行為のことが書かれているのですが、これとよく似た記事は他の福音書にも書かれています。しかし、マタイ、マルコ福音書では、場所が「重い皮膚病の人シモンの家」となっており、香油を注いだのは「一人の女」で、注いだのは足ではなくて頭となっているなど、食い違いがみらます。今日はそのことの詮索はせずに、主にヨハネ福音書に従って見て行きたいと思いますが、ヨハネ福音書には書いていなくて、マタイとマルコに書かれていることで、大変印象的なことは、主イエスが女のしたことを大変評価されて、「福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マタイ2613、マルコ149)とおっしゃったことであります。

・マリアのした行為を、主イエスは、なぜ、これほどまで高く評価されたのか。弟子の一人のイスカリオテのユダは、マリアの行為をむしろ非難して、主イエスにたしなめられております。ラザロやマルタはどうだったのか。今日は、その辺りと比較しながら、マリアのした行為の意味を探って行きたいと思います。そのことを通して、私たち自身が主イエスとどう向き合うべきなのか、私たちはどうすれば主に喜んでいただけるのか、ということが示されるのではないかと思うからであります。

1.ラザロがいた

・まず、1節を見ますと、過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた、と記され、2節の後半には、ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた、と書かれています。ベタニアは、先程も申しましたように、エルサレムのすぐ近くであります。危険が待っています。しかし主イエスは、それを承知で来られました。9節を見ますと、イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た、とあります。主イエスは秘かに来られたのではなさそうであります。群衆は、主イエスに逮捕命令が出てきることを知っていたでしょう。その中で、主イエスが今度はどうされるのかと、興味津々なのでありましょう。しかし彼らは、これから起ころうとしている主イエスの十字架の意味を知りよしもありまません。9節の後半には、こうも記されています。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。群衆は、ラザロを甦らせた主イエスにも関心がありますが、墓から甦ったラザロに興味があるのであります。それは、野次馬的な興味であったかもしれませんが、そこに甦ったラザロがいるということ自体、非常に大きな証しであります。ラザロと主イエスがどんな会話を交わしたのかは何も記されていません。しかし、ここにラザロが主イエスと共に食事の席に着いているというだけで、大きな意味があります。ラザロもこれから先の十字架のことや、まして主イエスの復活のことなど、思いも及ばなかったでありましょうが、実は、ラザロがここに座っていたことが、後になって、主イエスの復活を証しする役割であったことを知ることになるのであります。

・更に1011節を見ますと、祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである、と書かれています。甦ったラザロが生きてそこにいることで、群衆はイエスを信じるようになり、祭司長たちの思惑がはずれてしまうので、主イエスと一緒にラザロも殺してしまわなければならないと考えたのであります。ずいぶんひどいことですが、ラザロはそのようなことで、主イエスと同じく、狙われる立場になりました。しかし、主イエスと同じ立場になるということは、人間として、最高の栄誉ではないでしょうか。この夕食は、ラザロたちにとって地上における主イエスとの最後の食事となったでありましょう。しかし、この夕食は、終わりの日に復活した時の祝宴を指し示しているように思います。そこには、死を越えて主イエスと共にある喜びがあります。

2.マルタは給仕をしていた

・さて、2節の中に、短くマルタのことが触れられています。マルタは給仕をしていた、と書かれています。マルタは弟のラザロを甦らせて下さった主イエスへの感謝の気持ちを、給仕をすることで表わそうとしていたのでありましょう。私たちは、ルカ福音書10章によって、主イエスがマルタ、マリア姉妹を訪問された時、マリアの方は主イエスの足もとに座って話しに聞き入っていたのに対して、マルタはせわしく立ち働いていて、何の手伝いもしない妹を責めて、主イエスのお叱りを受けたことを知っています。その時と同じように、ここでもマルタは、活動的であります。悪気はありませんし、何とか主イエスに喜んでいただこうと思って一所懸命であります。これを非難する理由は何もありませんが、後で見るマリアのした行為と比べると、マルタのしていることは地上的、人間的な行為であります。主がラザロを甦らせて下さったことには大いに感謝しておりますが、そのことによって主が負われねばならなくなる苦しみや、その先のことについては、気がついていないようであります。主イエスに対する逮捕命令が出ていることは、知っていたのではないかと思われますので、これから先どうなるかを、心配していたかもしれませんが、それ以上ではありませんでした。

・ここに、通常、私たちが主に仕えようとしているときの限界が示されているように思います。私たちも主の恵みを様々な形で受けていることを覚えて感謝いたします。その感謝の思いを、主に仕え、教会のために奉仕することで表わそうといたします。そのこと自体、何も非難すべきことではありませんし、むしろキリスト者として相応しいことであります。しかし、普通の人間関係におけるお付き合いの延長のような形で、主に仕え、教会のために奉仕するということで、主イエスと私たちの関係はよいのでしょうか。そこには、主の恵みに対するお返し、あるいは〈今後とも恵みをいただきたい〉、〈悪い目に合わせて欲しくない〉、といった打算的な思いが働いていないでしょうか。そこには、打算を超えて、人生を預けるとか、全てを委ねるといった信頼関係が希薄であり、主のためには苦しみをも一緒に担いたいといった深い愛が見えません。――そのことは、このあとのマリアの行為と比較して見たときに、明らかになります。

3.香油を塗ったマリア

3節を見ますと、マリアのしたことが書かれています。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。――ナルドというのは、ヒマラヤ原産の植物の名前で、その根から香油が採れるのだそうですが、非常に高価なものであったと言われます。一リトラというのは約326gで、その価値はこの後でユダが述べる言葉でも分かりますように、300デナリオンで売れるほどのものでありました。1デナリオンは当時の労働者の一日分の給料に相当すると言われますから、一年分の賃金にも相当する高価なものを、惜しげもなく主イエスの足に注いだのであります。「油を注ぐ」というのは、旧約聖書では王や祭司や預言者の即位に際して行なわれることであります。メシアすなわちキリストという言葉は、「油注がれた者」という意味であります。マタイ、マルコ福音書では、足にではなく頭に注いだと記されています。ですから、マリアは主イエスこそ、王、祭司、預言者であり、メシア、救い主であるとの思いを込めて注いだと言えるかもしれません。

・もう一つ言えることは、ヨハネ福音書では、この後の13章で、主イエスが弟子たちの足を洗われたという出来事が記されています。当時のユダヤの習慣では、来客のために奴隷が足を洗うということをしたようであります。主イエス自ら奴隷の役をすることによって、主イエスがなそうとしておられることを弟子たちにお示しになったのでありますが、マリアは、それに先んじて、主イエスをお迎えして、自ら奴隷の役目をして、香油をもって足を洗うことによって、最高の賓客としてもてなそうとしたのかもしれません。しかも、女にとって大切な自分の髪の毛で主イエスの足をぬぐいました。そこには深い愛が込められています。いずれにしろ、これらのマリアの行為には、単なる感謝や尊敬以上のものが込められています。「家は香油の香りでいっぱいになった」と記しています。ラザロの墓では葬られてから四日もたっていましたので、死臭が漂っていました。しかし今は、ラザロが甦って、家いっぱいのよい香りが、復活の喜びを表わしているようでもあります。

4.マリアの行為を批判したユダ

・ところが、この様子を見ていた弟子の一人が文句を言います。ここでは、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った、とされていますが、マタイでは「弟子たち」と書かれていますし、マルコでは「そこにいた人の何人か」と書かれていますから、皆が同じ思いを抱いたのかもしれません。

・ユダはこう言います。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」――この言葉は、誰が語ったにしても、もっともな言葉であり、決して間違ったことを言っているわけではありません。むしろ、主イエスの愛の教えに合致した言葉であると言えそうです。それからすると、マリアの行為は明らかに無駄(浪費)であります。

・私たちは、自分に与えられた賜物や自分が稼いだものは、無駄に浪費するのでなく、最も有効な形で使いたいと考えます。自分のために使うにしても、他人のために捧げるにしても、本当に役に立つ使い方をしたいと思います。自分の限られた人生、与えられた時間も、無駄なことに使いたくはありません。あまり偏ったことに力を注ぐよりも、色んなことを経験したいし、世間に広く貢献できる事をしたいと考えます。特定の人のためにだけ人生を捧げるよりも、多くの人々に役立つこと、喜んで貰えることに力を注ぎ、情熱を傾けたいと考えます。それは、正常な感覚というより評価すべき感覚であると、普通は考えます。

・しかしヨハネ福音書は、こうした考え方を、ユダの平素の行為や、この後の裏切りの行為と結びつけております。6節にこう記しています。彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。――ユダは主イエスの信任を得て、集団の会計係りをしていたようであります。しかし、その立場を利用して、いわば公金を私物化していたというのであります。そのことは確かに、やってはいけないことであります。しかし、「彼がこう言ったのは貧しい人々のことを心にかけていたからではない」という言葉は、私たちもドキリとさせられるのではないでしょうか。私たちもきれい事を言い、時には貧しい人のために幾ばくかの捧げ物をするかもしれませんが、本当に貧しい人のことを思っているのでしょうか。ユダも、もとから盗人のような悪い思いを持って、弟子になったわけではなくて、主イエスのもとで、貧しい人たちのためにも貢献するような、理想的な働きが出来ると思って、身を投じたのではなかったでしょうか。しかし、ユダが理想として考えていたことと、主イエスのなさろうとしていることの違いがはっきりして来るにつれて、心が離れてしまったのではないでしょうか。そういうことは、私たちにもあり得ることであります。私たちは、自分の価値観や自分の格好良さや自分の利益のために、主イエスを利用しかねないのでありますが、いざと言う時に、それがあからさまになるのであります。ユダの裏切りも、結局はそうでありました。

・ユダの言葉は、直接的には、マリアを非難しています。しかし、その裏には、マリアのすることを、黙ってなすがままにしておられた主イエスへの批判があります。私たちも、主イエスがすぐに止めさせられないのをいぶかりながら、この後に語られる主イエスの言葉が、すぐには理解出来ないのであります。

5.葬りの日のために

・主イエスは7節で、こう言われます。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」――主イエスはマリアのしたことをはっきりと容認されます。無駄だとか、貧しい人々のために用いた方がよいとはお考えになりません。「わたしの葬りの日のために、それを取って置いた」と言われます。マリアは、この香油を他のことに使う機会もあったのではないかと思われます。ユダの言うように、貧しい人に施そうと考えたことがあったかもしれません。兄弟ラザロを葬る時に、この香油を使ってもよかったのです。しかし、使いませんでした。それは何故か、理由は分かりません。しかし、主イエスは「わたしの葬りのために、それを取って置いたのだ」と言われるのであります。この日に香油を塗ったことが、直接、主イエスが亡くなった時のために役立つということではありませんが、マリアのしていることが、主イエスの十字架の死を現実のこととして指し示すことになる、ということであります。

・マリア自身も、主イエスの葬りの用意をしているつもりはなかったでしょう。ただ、マリアは主イエスの命が狙われている中で、主の死が近いことを、直感的に知ったのでありましょう。弟子たちや、周りの者たちには、それが見えておりませんでした。マリアにも、これから起こることのすべてが読めていたわけではなかったにしても、今主イエスに対して出来ることをしておかなければ、間もなく出来なくなってしまう、という切迫した思いがあったのでありましょう。そういう思いの中で、恐らく、マリアが一番大切にしていたものを、敬愛する主イエスのために、献げたのでありましょう。この行為を見て、主イエスには、マリアが御自分の死を現実のこととして受け止めていることが分かりました。そして、まだ主イエスの死を本気で受け止めていない弟子たちやその他の人々に対して、主イエスの死が、葬りの準備が必要なほどに現実的なことであり、そのためにはどれほど貴重なものを献げても無駄ではないことを示されたのであります。

8節で主イエスはこう言っておられます。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」――主イエスの十字架は他の事と比べられるような事ではありません。主を愛することは、貧しい人や他の人を愛する事とは比べるような事柄ではありません。教会や礼拝のために自分の時間や賜物を使うことと、社会活動のために奉仕することは同列のことではありません。キリストを愛することがなくて、本物の隣人愛は出て来ません。キリストを愛するとは、私たちがキリストのために何かをしてあげるというよりも、主イエスが十字架の上で私たちのために死んで下さった、そのキリストの愛を受け止めることであります。

・高価な香油を注いだことは、異常な行動であります。相手が主イエスであるとは言え、無駄遣いであるには違いありません。実際の葬りの役に立ったわけでもありません。全くの浪費であります。しかし、この浪費にはマリアの愛が込められていました。主イエスの恵みに対する感謝が込められていました。それよりも何よりも、主イエスがその浪費を御自分の十字架の死に関わることとして受け止められました。主イエスの十字架は人の目には何の意味もない無駄なことのように思われたかもしれません。しかし、それは私たちの罪の贖いのために、どうしても必要な無駄でありました。十字架は<聖なる浪費>であります。マリアのしたことも、人の目には浪費でありました。しかし、主イエスはこれを十字架の死に関わる<聖なる浪費>とされたのであります。

・では、貧しい人々はどうなってもよいということでしょうか。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」とおっしゃいます。貧しい人を無視してよいというのではありません。貧しい人はいつも私たちの周りにいるのであります。そのために出来ることをしてほしい、というのが主イエスのお気持ちでありましょう。

結.わたしはいつも一緒にいるわけではない

・しかし、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」とおっしゃいます。主イエスの十字架の御業はただ一度限りのことであります。その時を逃すわけには行かないのであります。もちろん、主イエスは天に昇られる時に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ2820)と言っておられます。しかし、主イエスとの関係には時があるのであります。信仰には時があります。いつでも主イエスとの関係を結ぶことが出来るというものではありません。もう少し主イエスのことがよく分かってからとか、もう少し身辺が整ってから、というのでは、永遠に機会を失ってしまうかもしれないのであります。

・主の日ごとの礼拝ということも同様であります。マリアが香油を注いだという行為は、礼拝と呼んでもよい行為であります。礼拝は神を崇め、キリストを愛することであります。礼拝という行為も、キリストの愛を知らない人にとっては、無駄な浪費としか思えないかもしれません。そんな暇があるなら、もっと社会の役に立つことをした方がよいのにと考えるかもしれません。信仰を持っている人は、そのようには考えないかもしれませんが、毎週の礼拝を一回きりのかけがえのないものとは考えないで、他の大事な用事と天秤にかけてしまいます。しかし、一回一回の礼拝は神様が備えて下さっているかけがえのない時であります。その時に、他の事を犠牲にしても、最も大切な自分自身を芳しい香油として神様に献げることを、主は喜んで下さるのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・愛する主イエス・キリストの父なる神様!

・あなたの最も大切な御子を私たちのような者のために十字架にまで至らせて下さった愛を覚えて、御名を賛美いたします。

・その上、私たちが献げるささやかな礼拝をも喜んで下さることを覚えて感謝いたします。

・どうか、キリストのために、私たちの最も大切なものを献げることの出来る者とならせて下さい。

・どうかまた、私たちといつも一緒にいる隣人のために、あなたの 愛を分け与えることの出来る者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年8月9日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書12:1−11
 説教題:「主の葬りの日のために」
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