これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
                (ヨハネによる福音書
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 墓に葬られて四日もたっていたラザロを、主イエスが生き返らせた出来事を目撃したユダヤ人の多くは、主イエスを信じた。その信仰が本物であったかどうかは別として、彼らが主イエスを王として担ぎ上げて、ローマに対して反乱を起すようなことにでもなれば、ローマ軍が来て、神殿やユダヤ国民を滅ぼすことになるだろうと、祭司長やファリサイ派の人々が危険を感じて、ユダヤの最高法院を召集した。
 すると、大祭司カイアファは、「あなたがたは何も分かっていない」と言いながら、自信たっぷりに、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(50)との政治的判断を述べ、最高法院は主イエスを殺す方向で意志が固められた。そこでは、主イエスが本物のメシアであるのかどうか、国民全体の安泰のためとは言え、一人の命を奪うことは正しいのか、といった議論は行なわれていない。自分たちの立場を守るための判断に過ぎない。
 ところが、ヨハネ福音書の記者は、この大祭司の発言について、標記のようにコメントする。これは、福音書が書かれた1世紀末の教会の認識が反映しているとみられるが、カイアファの言ったことは、神の意志を表わすものであり、しかも主イエスの死によって救われるのはユダヤ国民だけでなく、「散らされている神の子たち」、すなわち、世界各地に散らばっている異邦世界の神の子(信者)たちが、一つのキリストの体なる教会として召し集められることを語ったのだと記す。カイアファの発言と最高法院の決定は、人間の罪から出たものであるが、神はその決定をも救いの業に変えられる。こうして主イエスは、過越祭の時に「神の小羊」として、人々の犠牲として十字架に架かり、神の救いの御計画が成就するのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年8月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書11:45−57
 説教題:「神の子たちを集める」
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