序.ラザロのしるしを見て――人々の反応

・先々週は、墓に葬られて四日もたっていたラザロを、主イエスが生き返らせたという驚くべき出来事を聞きました。ラザロの姉妹であるマルタとマリアのところには、彼女たちを慰めるために多くのユダヤ人たちが来ていましたが、彼らも墓に来て、一部始終を目撃いたしました。そして、今日の箇所の冒頭の45節には、マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた、と記されています。このユダヤ人の中には、主イエスに対して反感ないしは疑問を感じていた人も含まれていたのではないかと推測されますが、ともかく、死人が目の前で生き返るのを見て、多くのユダヤ人は主イエスを信じたというのであります。ユダヤ人たちは、たまたまマリアたちを慰めに来ていて、主イエスの奇跡を目撃することが出来たのは、幸運だというべきかもしれません。彼らがそこで得た信仰がどのようなものであったのか、聖書は詳しくは語りませんが、次の12章に記されるエルサレム入城の記事の中で、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた」(12:17)と記されていますので、彼らによってラザロになされた「しるし」(奇跡)が多くの人々に伝えられ、主イエスに対する人々の期待が高まることにつながったのは事実であるようであります。

・しかし、そのことは決して、単純に喜ぶべきことではありません。多くの群衆は、ユダヤ人をローマの支配から解放する王の出現を秘かに待ち望んでいましたから、主イエスをそのような自分たちの望みを叶える王として歓迎しようとするのであります。それは主イエスがなそうとしておられる救いの業とは全く違うことであります。主イエスは「しるし」を見て信じる人を、信用されなかったことが、223節以下に、こう記されています。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(2:2325)――人々は自分の望みが叶えられることを主イエスに期待してしまうのであります。しかし、主イエスがなそうとしておられることは、人々を罪から救うこと、即ち神様との関係を修復することであります。けれども人々はそんなことを余り期待していません。ですから、主イエスが十字架に架けられて殺される段になると、人々は躓いてしまうのであります。

・このような躓きは、当時のユダヤ人だけのものではありません。私たちの信仰も、自分の望みを叶えて下さる方への期待に過ぎないものになっていて、罪からの救いとか十字架ということはよく分からないとか、あまり興味がなくて、結局、自分たちの期待が満たされないと、信仰から離れてしまうということになり勝ちであります。

・このように、「イエスのなさったことを目撃して、イエスを信じた」と記されている人々にも問題があるのですが、一方、中には主イエスのなさった「ラザロのしるし」に危険を感じる人もいました。46節にはこう書かれています。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。――彼らは主イエスのなさったことに驚きを覚えると同時に、その影響を危惧したのでありましょう。今日の箇所には、彼らの報告を受けた当時の宗教指導者たちが重大な決定をすることになった次第が記されています。今日はその中に込められている神様の御心を聴き取りたいと思うのであります。

1.ローマ人が来て、滅ぼしてしまう――この世の力への恐れ

・さて、ラザロの出来事の報告を聞いた祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集しました。彼らの思いが47節後半から48節に、こう記されています。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」――「この男は多くのしるしを行っている」と言っております。彼らは主イエスが多くの奇跡を行ったことを認めているのであります。主イエスを神の子だとか、救い主だとは認めていませんが、主イエスのなさった奇跡は認めざるを得ないのであります。しかし、その奇跡の結果、多くのユダヤ人が主イエスを王として担ぎ上げて、ローマに対して反乱を起すようなことになれば、大変なことになる。ローマ軍がやって来て、エルサレムの神殿も、ユダヤ人も滅ぼしてしまうことになるだろう。そうなれば、自分たちの立場がなくなってしまう。――当時ユダヤはローマの統治のもとにありましたが、ユダヤ議会にある程度の自治権が与えられていました。当時の宗教的・政治的指導者たちは、ローマの支配は気に入らないのですが、ユダヤの宗教と国民を守るためには、ローマと妥協してうまくやって行かなければなりませんでした。それなのに、市民サイドから暴動が起これば、自分たちの責任を問われることになります。

主イエスはもちろん、この世の王になるおつもりはありませんし、ローマに抵抗するつもりもありません。祭司長やファリサイ派の人々も、そのことは分かっていたのではないかと思います。しかし、彼らは、主イエスによって自分たちの立場が失われるのが恐ろしいのであります。後日、主イエスがローマ総督ピラトの裁きを受けることになった時、ピラトは主イエスに邪心がないことを見抜いて、赦そうとしましたが、祭司長たちに扇動された群衆はそれを認めませんでした。ユダヤ人は皆、メシアの到来を待ち望んでいました。しかし、本当の救いを実現するメシアがそこに来ておられたのに、民衆は自分たちの望みを実現してくれる政治的な王を期待して、その期待がはずれると、主イエスに失望してしまいました。宗教指導者たちは、聖書に述べられている預言者たちの言葉に従って、主イエスが本当のメシアであるかどうかを見極めて、民を指導しなければならなかったのに、ローマの権力を恐れ、自分たちの立場を守ることに汲々としてしまいました。

しかし、私たちは、このような当時のユダヤの人々を、笑ったり軽蔑したりすることは出来ませんし、主イエスの十字架の責任を彼らだけに負わせることは出来ません。聖書は今も私たちの前に主イエスのお姿・御業を示しております。私たちはそれぞれの生活の中で、この主イエスをどう受け止めるのかが問われています。自分の耳に快い言葉は受け入れる、自分の願いに応えてもらえそうな部分は期待する。しかし、自分に都合の悪い言葉には耳を塞ぎ、主イエスを自分の生活の中心に迎えようとしない。私たちは自分の生活が安泰であることが第一なのであります。自分が生活の中心にいたくて、主イエスに自分の生活が支配されるのを拒んでいます。全てを主イエスに委ねることが不安なのであります。この世の立場、この世の人間関係が失われるのを気遣い、この世的に力を持つものの反発を恐れているのであります。その結果、主イエスを心の中から追放してしまっているのではないでしょうか。それはちょうど、ユダヤの人々がローマを恐れるのと同様であります。それは、主イエスを十字架に架けて殺そうとすることにつながります。ユダヤ人と同様、私たちも信仰は大切だと思っています。主イエスは偉大な人物であると思っています。しかし、自分の今の立場を守ろうとして、主イエスを殺してしまうのと同様の扱いをしていないでしょうか。

2.一人の人間が民の代わりに死ぬ――死刑の判決

・さて、祭司長やファリサイ派の人々の不安の声を聞いた大祭司カイアファは、こう語ります。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」49b〜50)――大祭司というのは、宗教上の最高権威者であります。祭司長やファリサイ派の人々が「どうすればよいか」と困っているのに対して、「あなたがたは何も分かっていない」と言いながら、自信たっぷりに彼の政治的な判断を述べたのであります。主イエスが、もしかして本当のメシアではないか、ということは考えようとしません。ただ自分たちにとって邪魔な人間だとしか考えていません。主イエス一人を殺しさえすれば、ローマから睨まれることもなく、国民全体が安泰となって好都合ではないか、というのであります。最高法院の議員の中には、イエスを殺すことについてためらいがあったかもしれません。しかしカイアファは、大胆に決断します。一人の尊い命がなぜ奪われなければならないのかというようなことを考えようともしない、極めて打算的、御都合主義的な判断でありますが、国民全体が滅びないという大義を掲げて、正当化しているのであります。

・恐ろしい判断でありますが、全体の平穏のために、一部が犠牲になっても仕方がないという考え方は、私たちもしかねないことであります。そういうことは、教会の中でさえ起こりかねません。教会の和やかな交わりを守るために、一部の撹乱分子を排除するというようなことも、政治的判断としてはあり得るのかもしれませんが、愛の共同体としては、たとえ和やかな交わりが乱されることはあっても、忍耐しながら、撹乱分子の気付きや悔い改めを待つということも必要であり、自分たちの方にも問題があったのではないかと問い直してみるべきであります。

・ところで、当時、ユダヤの最高法院には、死刑の決定をする権限は与えられておらず、ローマ総督が決めることでありましたが、この大祭司の発言は、死刑の判決を下したのも同然であります。こうして、少なくともユダヤ側の最高法院においては、主イエスを殺すことが意思決定されたのであります。

3.自分の考えを話したのではない――神が語らせた

・ところがヨハネ福音書の記者は、カイアファの発言を記した後で、驚くべきコメントを付けるのであります。51節にこう書かれています。これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。――「その年の大祭司」という表現は、毎年大祭司が交代したという意味ではなくて、正に主イエス・キリストが十字架に架けられることになる「その年」という意味ではなかろうかと推測されます。それはともかく、大事なことは、「カイアファが自分の考えから話したのではない」と言っていることです。それは、自分の考えではなくて、神様の御意志を話したのだ、という意味であります。だから「預言して」という言い方をしています。「預言」とは神様の言葉を語るということであります。カイアファは神様に用いられて、神様の言葉を語ったというのであります。

・また、「イエスが国民のために死ぬ」と言っていますが、この「ために」という所は、50節でカイアファが「民の代わりに死に」と言っている「代わりに」と同じ言葉が使われています。カイアファは、単にユダヤの国民がローマに滅ぼされないだけのことを語ったのでありますが、福音書記者は、主イエスの死が、ユダヤの国民の本当の救いのためであったという、神様の御心を聞き取っているのであります。

・カイアファの言ったこと、そして最高法院が決定したことは、人間の罪から出たものであります。しかし、カイアファの言葉は神の言葉に変えられ、主イエスの十字架の死は、人々を罪から救う神の御業となるのであります。神様は人間の罪をも救いに変えられるのであります。あの主イエスを裏切って、銀30枚で売ったイスカリオテのユダのしたことも同様であります。彼のしたことは大きな罪であり、自ら命を断たなければならないような裁きを受けることになってしまったのでありますが、主イエスを祭司長たちの手に引き渡すという重要な役割を果たすことになったのであります。――もちろん、だからと言って、罪を犯してもよいとか、私たちの犯した罪も全部救いに役立てられるというようなことではありません。しかし、神様の恵みと救いの御計画は、人の罪によって曲げられるとか潰されることはないのであります。

4.神の子たちを集める――十字架の福音のもとに 

・カイアファの発言に対する福音書記者のコメントは更に続きます。52節を見ると、国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである、と述べています。この「国民」というのは、ユダヤ人のことですが、主イエスが殺されるのは、カイアファが考えたように、ユダヤ人たちのためばかりではなく、「散らされている神の子たち」すなわち、世界の各地に散らばっている異邦世界の人々をも「一つに集めるため」だと言うのであります。先程朗読したイザヤ書49章は「主の僕の歌」と呼ばれるものの一つで、主イエス・キリストのことを預言しているものと受け取られています。その6節には、こう語られていました。こう言われる。わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。――ここまでは直接的には捕囚の民が帰ってくることを言っているのでありますが、メシアの到来によって、もう一度イスラエルの民が一つにされることを語っていると受け止められます。カイアファの理解と同じです。しかし、更に続けて、だが、それにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする、と語っています。つまり、メシアはイスラエルの民だけでなく、地の果ての異邦人にまで救いをもたらすというのであります。カイアファの思いを越えて、救いはあらゆる民族、あらゆる地域のあらゆる階層の人々にもたらされるのであります。後にパウロはガラテヤの信徒への手紙の中でこう言っております。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:2628

・パウロが「キリスト・イエスにおいて一つ」と言い、ヨハネが「神の子たちを一つに集める」というのは、一つの体なる教会のことを指しています。キリストを信じる全世界の者が、一つの群として十字架の福音のもとに召し集められるのであります。ヨハネは第一世紀末の教会の状況を見ながら、カイアファが期せずして言ったことは、神様がイエス・キリストによって、ここまでして下さることだったのだとの感慨をもって、書いているのであります。その神様の御業は、今も続いております。今も、世界各地の教会に主イエス・キリストを信じる者が召し集められつつあります。私たちはその神様の救いの計画の全貌を知りません。私たちの小さな伝道所にどれだけの人が集められることになっているのか、知らされていません。しかし、神様はこの伝道所をも用いて、神の子たちを今も、集め続けておられるのであります。

結.過越しの小羊となるために

・さて、カイアファの発言によって、ユダヤ人の指導者たちは、主イエスを殺そうという意思を固めました。54節を見ますと、それ以来、主イエスは公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された、とあります。「エフライム」という町が何処にあったのか、学問的には確認されていませんが、エルサレムから北東に2030kmのところにあったのではないかと言われています。主イエスがそこに行かれたのは、ユダヤ人たちの殺意を逃れられたというよりも、十字架にもっとも相応しい時を待たれるためでありましょう。

・その<相応しい時>というのは、55節にある「過越祭」の時であります。それは、かつてイスラエルの民がエジプトを脱出するときに、小羊の血を柱と鴨居に塗って、災いを逃れたことを記念する祭でありますが、このヨハネ福音書で、洗礼者ヨハネが述べておりましたように、主イエスこそは、人々が罪から救われるために捧げられる「神の小羊」であります。ですから、主イエスが十字架にお架かりになるのは、過越祭の時が相応しいのであります。

・主イエスがラザロを生き返らせた出来事は、結局、主イエスが神の小羊として十字架の上に命を棄てられることにつながったのであります。これは、ラザロを生き返らせた主イエスですら、御自分の命を救うことが出来なかったということでしょうか。――そうではありません。全く逆です。主イエスが自らの命をお棄てになることによってこそ、死すべき罪人が命を与えられることになるのであります。ラザロの甦りはそのことを指し示す大きな「しるし」であります。こうして私たちは新しい永遠の命を与えられた神の子として、十字架の主のもとに召し集められているのであります。  ・祈りましょう。

祈  り
 ・十字架の主イエス・キリストの父なる神様!

・あなたの大きな愛のゆえに、死すべき私たちがイエス・キリストの贖いによって、赦されて、あなたとの絶えざる命の関係を与えられたことを感謝いたします。

・どうか、主の十字架の福音のもとに留まり続け、この罪の世にあって、まことの命に生き続ける者とならせて下さい。

・どうか、神の子たちが、私たちの選択基準でなく、あなたの選びによって、このところに集められますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年8月2日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書11:45−57
 説教題:「神の子たちを集める」
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