その日には、万軍の主が民の残りの者にとって、麗しい冠、輝く花輪となられる。                 (イザヤ書285

 エフライム(北王国イスラエル)の首都サマリアは、周辺が肥沃な谷に囲まれた丘の上にあって、塔のある城壁で囲まれていたので、冠のように見えた。預言者イザヤは、エフライムの指導者たちが周辺で生産される農作物によって贅沢な生活をし、酒宴に明け暮れていた様子を「酔いどれの誇る冠」と表現し、その「麗しい輝き」が、強大なアッシリアの侵略によって、「しぼんでゆく花にすぎない」ものであったことを思い起こさせる。そして、南王国ユダの祭司や預言者も、酒に酔ったように、アッシリアに頼るべきか、エジプトに助けてもらうべきかと揺れているうちに、北王国と同じような運命をたどることになると警告する。
 すると彼らは、乳幼児に教えるようなことを言うのかと反発するのだが、イザヤは、主の言葉が、まるで異国の言葉であるようにしか聞こえなくなり、ついには「つまずいて倒れ」「捕らえられる」ことになると、捕囚の憂き目にあうことを預言する。私たちもまた、神に信頼することを忘れて、世の力に頼ろうとするとき、よろめいたり、つまずいたりして、主の言葉が届かなくなる。
 だがイザヤは一方で、「その日」すなわち、主の裁きが行なわれる日には、標記のように、「万軍の主が民の残りの者にとって、麗しい冠、輝く花輪となられ」、主御自身が「裁きの座に着く者」となって、敵を押し返し、正義を守られると告げる。キリスト者にとって、「その日」とは、イエス・キリストの十字架と復活の御業が行なわれる日であり、主が罪を滅ぼして、私たちの社会や生活や教会を支配して下さる日である。こうして主がかつてイスラエルの民に約束された「安息の地、憩いの場」は、主イエス・キリストによって成就されたのである。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ1128)この主イエスの言葉を異国の言葉のように聞き逃さず、聞き続ける者に、永遠の安息が約束されている。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年7月26日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書28:1−13
 説教題:「麗しい輝き」
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