イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。    (ヨハネによる福音書1140

 主イエスは、マリアやマルタやユダヤ人たちの悲しみを支配している死の力に対して、心に憤りを覚えて、墓に来られ、墓穴をふさいでいる石を取りのけるよう言われたが、マルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言う。彼女は主イエスが墓の前まで来ておられるにもかかわらず、死の冷酷な現実から離れられない。そのマルタに主は、標記のように言われた。これは、マルタの不信仰を叱られたというより、もう一度主の言葉を思い出させようとの暖かい配慮が込められた言葉である。
 「神の栄光を見る」とは、単にラザロが生き返るという最大級の奇跡を見ることだけを指すのではなく、それが指し示すもっと大きな事実を見ることである。人々が石を取りのけると、主イエスは「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」と、もうラザロが生き返ったかのような感謝を述べておられる。主はラザロが病気であるとの知らせを受け取った時から、「この病気は死で終わるものではない」と言われ、ラザロが生き返ることを確信しておられた。主イエスの願いは神の御心であり、神の御心は主イエスの願いであって、その間には完全な一致がある。
 ではなぜ、祈られたのか。それは「周りにいる群衆のため」であると言われる。主イエスは、ラザロの甦りを通して、主が罪の結果である死に対して渾身の憤りをもって立ち向かい、これを滅ぼし、人々に復活の命を与えるために、神から遣わされたお方であることを示そうとされたのだ。
「ラザロ、出て来なさい」との言葉と共に、ラザロは墓から出て来る。主イエスはこうして、罪によって崩れた神と人との関係を回復して、永遠の命を与えるお方であり、かつ、終わりの日には私たちの肉体をも復活させてくださるお方であることを示された。私たちはこうして、死を恐れる必要がない者とされたので、残された地上の生涯を、神にのみ栄光を帰する生き方をすればよいのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年7月19日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書11:38−44
 説教題:「神の栄光を見る」
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