序.「体の復活、永遠の生命」を信じるために

・私たちは毎回の礼拝において、使徒信条を告白しておりますが、その最後の部分で、「体の復活、永遠の生命を信ず」と言っております。これは、全てのキリスト者(カトリック、プロテスタントを問わず)が信じていることであります。しかし、自分の体の復活、自分が永遠の生命に生きているということについて、どう捉えているかということになると、必ずしも一様ではないし、日頃、私たちはあまり深く考えないで過しているかもしれません。

・ヨハネによる福音書11章は、ラザロの死をめぐる一連の経過が記されていて、これまで三回にわたって聴いて来たのでありますが、今日の箇所は、いよいよラザロが生き返る場面であります。情景が目に浮かぶような、かなり生々しい表現があるために、大変印象深い箇所でありまして、多くの芸術家が絵や彫刻で、この場面を描いております。

・しかし、ラザロの復活は、私たちが信じている終わりの日の「体の復活」ではありません。ラザロはいずれまた死ぬのであります。では、この出来事は主イエスがなさった奇跡の一つに過ぎなくて、私たちとはあまり関係のないのかと言うと、そうではありません。この出来事が指し示していること、そして、ここで主イエスが語っておられることが大切であります。そのことの中に、私たちの復活や永遠の生命を私たちが信じる重要なポイントが含まれているように思います。今日は、そのことを、与えられた箇所から聴いて行きたいと思います。

1.再び心に憤りを覚えて

・冒頭の38節に、イエは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた、とあります。「再び」とあるのは、すぐ前の33節で、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して」と書かれていたからであります。主イエスは何に対して憤っておられるのでしょうか。33節の所でも申しましたが、主イエスは、マリアや彼女に同情するユダヤ人たちの不信仰に対して憤っておられるというよりも、マリアやマルタやユダヤ人たちの悲しみを支配している死の力に対して、憤りを覚えておられるのであります。死の力に立ち向かっておられるのであります。主イエスは、何か超能力のようなものを持っておられて、それでもって死んだ人を生き返らせるという奇跡を楽々と行われるのではありません。人の死というのは、罪の結果であります。その死を覆すには、単なる不思議な能力ではなくて、主イエスの愛を込めた渾身の戦いが必要なのであります。だから今、主イエスは激しく憤っておられるのであります。

2. 石を取りのけなさい

墓は洞穴(ほらあな)で、石でふさがれていました。当時の墓は、横穴か斜めに下がっていくような穴で、その入り口を石でふさいだようであります。石が死んだ人を死の世界に閉じ込めるのであります。石の向うに閉じ込められた者は、もう二度と、そこから出て来ることが出来ません。

・ところが主イエスは「その石を取りのけなさい」と言われます。それを聞いたラザロの姉妹マルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言います。マルタは、主イエスが愛されていたラザロの遺体にもう一度対面したいと考えておられるのだと思ったのでしょう。でも、死んでから四日もたっていて、死臭が立ち込めているので、お止めになった方がよい、と言っているのでしょう。極めて現実的な判断であります。

・主イエスがベタニアに来られて、マルタがお迎えしたとき、23節にありましたように、主イエスは、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。するとマルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。マルタは主イエスが終末の時の復活のことを言っておられるのだと思ったのであります。それに対して主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われます。これは、<復活というのは、未来のことではなくて、今のことだ>ということをおっしゃったのであります。この主の言葉に対してマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と、立派な告白をしたのであります。

・そのマルタですが、今、石でふさがれた墓の前に立って、四日もたって臭いはじめているラザロの遺体を思い浮かべながら、主イエスのお言葉を忘れたかのように、石を取りのけることを止めさせようとするのであります。マルタは死の冷酷な現実から離れられないのであります。先日の国会で脳死の判定が子供にも適用することを認める法律が成立いたしました。今の医学では、脳死の判定をされた者は、たとえ心臓が人工的に動いていても、もはや蘇生させることは出来ないのであります。まして死んで四日もたった者を蘇生させることなど出来ません。私たちは死という現実の前には何の力も持ち得ないのであります。マルタも、「わたしは復活である」と言われ、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と明言された主イエスが、墓の前まで来て下さっているにもかかわらず、死の力から抜け出せないでいるのであります。――これが私たちの姿でもあります。主イエスの言葉を聞いて、<主イエスを信じます、復活を信じます>と告白までしていながら、なお、死の力の支配から抜け出せていないのが、私たちの現実の姿であります。

3.神の栄光が見られる

・そのような現実の中になお留まっているマルタに向かって、主イエスは40節で、こう言われます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」――マルタに直接このように言われたということは、どこにも書いてありませんが、姉妹たちの使いの者が主イエスに、ラザロが病気であることを伝えた時に、4節で「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言っておられます。この言葉が使いの者たちによって伝えられている筈ではないか、ということでしょうか。あるいは、聖書に書かれていませんが、マルタに直接言われていたのかもしれません。あるいは、25節でマルタに言われたことを、言い換えれば、「神の栄光を見られる」ということになるということかもしれません。

・この40節の主の言葉は、マルタの不信仰を叱られたものだと理解できます。しかし、ただ非難されたのではなく、主のおっしゃったことを忘れてしまっているマルタに、もう一度、主のお言葉を思い出させようという暖かい配慮が込められているように思われます。私たちも含めて、人は皆、死の力の前に弱いのであります。主イエスの力強いお言葉を忘れて、常識や経験の範囲で判断してしまうのであります。主はそのようなマルタや私たちに、神の栄光を仰がせようとなさっているのであります。

・では、「神の栄光を見る」とは、具体的には何を指しておられるのでしょうか。葬られてから四日もたって、もうにおっていると思われたラザロが、この後、墓から出て来るのを見るということが、「神の栄光を見る」ということであると考えられます。確かに、マルタでさえ信じられなかったようなことが起こされたのであり、そのことは主イエスが父なる神に願ってなされたことですから、そこに神様の栄光を見ることが出来ます。しかし、神の栄光とは、ただ、ここで行なわれるような最大級の奇跡が行なわれることでありましょうか。冒頭で申しましたように、ここで生き返ったラザロも結局は死ぬのであります。ですから、ここでラザロが生き返ったというだけなら、永遠に続くことではないのであります。「神の栄光」とは、ラザロが主イエスによって生き返った出来事が指し示している、もっと大きなことであります。それは、次の4142節で語られる主イエスの言葉に鍵があるように思います。

4. わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します

・人々が40節の主イエスの言葉をどう受け止めたかは分かりませんが、その迫力に押されたのか、ともかく石を取りのけました。すると主イエスは天を仰いで言われました。「天を仰いで」とありますから、神様に祈られたということです。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」4142節)――この祈りは不思議な祈りであります。神様に向かって、<ラザロを甦らせて下さい>と、お願いになるのかと思ったら、いきなり、願いを聞き入れて下さったことへの感謝から始まるのであります。主イエスがラザロの病気のことをお聞きになった時に、「この病気は死で終わるものではない」とおっしゃいました。この時から、主イエスの願いははっきりしていたし、その主イエスのお心は神様に通じているから、今更、<ラザロを甦らせてください>などと言う必要がないし、その願いは神様に受け入れられていると確信しておられるのでありましょう。主イエスの願いは神様の御心であり、神様の御心は主イエスの願いとなるのであります。その間には完全な一致があるのであります。

・では、なぜここで天を仰いでお祈りをされたのか。それは、「周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と言っておられます。ヨハネによる福音書の記者が、これまで一貫して語って来たことは、主イエスが神から遣わされたお方であるということでありました。ユダヤ人の指導者たちは、そのことを受け入れることが出来ませんでした。主イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹させた奇跡も、生まれつき目の見えなかった人を見えるようにされたのも、単に人々を驚かせるためではなくて、主イエスが神様から遣わされたお方であるということを信じさせるためであります。それは単にご自分を、神様と気心が通じ合った偉い者のように見せる、ということではありません。

・なぜ神様から遣わされた者であることを人々に信じさせる必要があるのでしょうか。――それは、主イエスが神様から遣わされたのが、人々を罪から救うためであるからであります。神様が私たちを罪から救おうとされていることを、主イエスの御言葉と御業の全てにおいてお示しになる(啓示される)ことこそが、主イエスが遣わされた目的だからであります。主イエスを信じ、受け入れることによって、神様の救いの御業を受け入れることになるのであります。

・主イエスの御業は、この時点ではまだ完結しておりません。十字架と復活の御業は、もうそこまで近づいておりました。ラザロの甦りの御業は、十字架と復活の御業を指し示す御業であります。ラザロが生き返ること自体に、永遠的な意味はありません。しかし、ラザロの甦りを通して、主イエスが罪の結果である死をも滅ぼされるお方であること、そして死に勝利して、復活され、人々にも復活の命を与えるお方であることを、示そうとされているのであります。

・神の栄光は主イエス・キリストによってこそ、現されるのであり、主イエス以外の如何なることによっても現されないのであります。ラザロの甦りを見ることによって、人々は神様の栄光そのものではないけれども、神様の栄光の一端を仰ぐことが出来るのであります。神様の栄光とは、罪ある人間を救い出そうとされる神様の愛から発する光であります。その光を主は今、照らそうとしておられるのであります。

5.出て来なさい

・このような神様と主イエスの一体性を示す祈りに続いて、43節にあるように、主イエスは、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。この主イエスの言葉は、神様のお言葉でもあります。神様の言葉は、創造物語で、「光あれ」と言われると光が創造されたように、その言葉が現実となります。主イエスの声と共に、死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。当時の習慣では、体の全体を布で巻いて葬ったようでありますが、まさに、葬られたままの姿で、出て来たのであります。顔は覆いで包まれていました。息も出来ず、目も見えない状態であります。そこで主イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われます。こうして、ラザロは自分で歩いて行くことが出来るようにされました。人々は夢や幻を見ているのではなく、霊魂のようなものが甦ったのでもなくて、ラザロの体が甦ったことをお示しになりました。主イエスは、私たちの魂だけを甦らせて下さるのではなく、体も甦らせることの出来るお方であることが示されています。もちろん、ラザロは、もう一度死ぬことになります。まだ、永遠に生きる体に甦ったのではありません。しかし、終わりの日の主にある復活においては、魂だけでなく体も、甦ることが、このことによって暗示されています。

結.復活の命に生きる

・私たちはこの世において、様々な死と出会わなければなりません。親しい方との別れを経験しなければなりません。愛する者を先に送るという耐え難い悲しみを経験しなければならないかもしれません。そして、自分自身の死と向き合わなければならない時が、遅かれ早かれ来るのであります。

・私たちは、出来る限りの対応をするにしても、死の運命を押し留めることは出来ないのであります。それならば、諦めるしかないのでしょうか。愛する人との分れの悲しみも、時間が解決するのを待つしかないのでしょうか。自分の死については、覚悟を決めるしかないのでしょうか。

・そうではありません。主イエスは私たちが経験する全ての死に 対して、憤りをもって立ち向かって下さっているのであります。ラザロの物語は、そのことの一端を私たちに教えてくれていますが、私たちは、ラザロの死との戦いの先にある主イエスのもっと大きい戦いのことを知っています。主イエスは十字架の戦いをして下さいました。この戦いを戦うことは、天の父なる神様の御旨でありました。この神様の御心と一体の主イエスは、堂々と十字架の戦いをなさいました。それは、私たちを死に追いやる罪との決定的な戦いでありました。主イエスは死すべき私たちの罪の全てを担って、死んでくださいました。罪がなく、従って死ぬ必要もない主イエスが死んで下さったことによって、罪の問題は解決済みとなりました。それゆえに、主イエスは御自身が墓から出て来られました。もはや、死の力が主イエスを墓に留めておくことは出来なかったのです。死の力が主イエスの愛の力、命の力によって滅ぼされたのであります。それは、私たちがもはや死すべき私たちが死ぬ必要がなくなったことを意味します。神が与えて下さった命を取り戻すことが出来るようにされたのであります。

・神がもともと与えて下さった命とは、神と良い関係を保ちながら神と共に生きる命であります。ところが、私たちは罪のために、神様との関係が崩れておりました。しかし、その関係が、主イエスの十字架の死によって、完全に修復されたのであります。もう一度、神様との良い関係を持って生きることが出来るようにされたのであります。それはもはや再び破れることのない関係であります。それが「永遠の命」であります。

・この命は、たとえ肉体が滅びることがあっても、死ぬことはありません。私たちの肉体は罪のために死を免れません。しかし、私たちの肉体の死も、もはや永遠ではありません。ラザロの復活が示すように、主イエスは死んだラザロの肉体を甦らされました。そして御自身も死の墓からお甦りになりました。主イエスは私たちをも肉体の死から復活させることがお出来になる方であります。私たちがラザロと同じように、一度死んでも、この世でもう一度生き返るというのではありません。私たちの肉体が復活するのは、マルタが信じていたように、終わりの日であります。それが、使徒信条で告白している「体の復活」であります。しかし、私たちは終わりの日の肉体の復活というのが、どのようなものであるのか、十分に知ることは許されていません。しかし、主イエスによって修復された神様との良い関係、「永遠の命」は、終わりの日をも突き抜けて生き続けます。だから私たちは、死後のことや、終わりの日のあと、肉体がどうなるのかというようなことを心配する必要はありません。

・私たちは、主イエスの十字架と復活の御業によって、永遠の命が保証され、神の栄光を見ることが出来る者とされました。もはや死を恐れる必要はありません。私たちはただ、残された地上の生涯を、主を信じつつ、神にのみ栄光を帰する生き方をすればよいのであります。・祈りましょう。

祈  り
 ・主イエス・キリストの父なる神様!

・ラザロの物語を通して、主イエスが父なる神様の御意志を受けて、人の死を滅ぼされるお方であることを覚えることが許され、感謝いたします。

・どうか、礼拝ごとに、主イエス・キリストの十字架と復活に示されたあなたの御栄光を仰ぐことによって、主にある人々と自分自身に約束されている永遠の命を信じつつ、これからの人生を生きる者とならせて下さい。

・どうか、一人でも多くの方が、私たちと同じく、あなたの御栄光を仰ぎ、救いに加えられますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年7月19日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書11:38−44
 説教題:「神の栄光を見る」
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