イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。               (ヨハネによる福音書113335

 死んだラザロの姉妹マルタとマリアがいるベタニアへ、主イエスが来られたと聞いて、マルタはすぐに迎えに出たが、マリアは、悲しみに暮れていて知らせが耳に入らなかったのか、家にいたので、マルタが家に戻って、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちすると、今度はすぐに立ち上がって、主イエスの許に行き、主を見るなり足もとにひれ伏した。私たちも目の前のことに頭が一杯で、主が私たちの近くに来ておられることに気付かないことがあるが、主は私たちを呼んで下さり、私たちの悲しみや苦しみをも、共有して下さるお方である。主の許に出かけよう。
 マリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、マルタと同じことを言う。この言葉には、主イエスに対する信頼が込められているものの、死んでしまった者は主イエスでさえどうすることも出来ない、との諦めが見える。主イエスは死に支配されて泣いているマリアやユダヤ人たちを見て、「心に憤りを覚え」られる。主は、人々の不信仰に対して憤っておられるのではない。主は、「どこに葬ったか」と言われるように、その心は、ラザロが横たわっている墓に向けられている。つまり、主は、マリアやユダヤ人たちを支配している死の力に憤りを覚え、それに立ち向かおうとしておられるのである。
 主イエスは「涙を流された」とも記されている。これはマリアたちが死の支配のもとで悲しんで「泣いた」のとは異なる。主イエスを十字架に架けようとする人々の罪のために泣かれた涙(ルカ19:41)と共通する。人々を捕らえ、支配している罪と死の力を憎んで、涙を流されたのである。そして主は、そのような罪と死の支配から人間を救い出すために、渾身の力を振り絞って、十字架と復活の道を歩まれるのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年7月5日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書11:28−37
 説教題:「主イエスの涙」
         説教リストに戻る