序.死が支配する中へ

・ヨハネによる福音書11章は、ラザロの死をめぐる一連の経過が記されているのでありますが、前回に聴きました17節以下の段落では、主イエスがラザロたちの家族が住むベタニアに来られた時には、既にラザロは墓に葬られて四日もたっていたということが書かれていました。

・そして、ラザロの姉妹であるマルタとマリアのところには、多くのユダヤ人たちが弔問のために訪れていて、彼女たちを慰めておりました。しかし、死んでしまったラザロを、もうどうすることも出来ません。悲しみの中にある彼女たちに同情は出来ましても、彼女たちの悲しみを取り除くことは、誰も出来ません。そこには死が支配しておりました。誰も死の支配を覆すことは出来ません。

・主イエスが到着されたと聞いて、マルタが迎えに出て来ましたが、彼女は主イエスに会うなり、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と申します。この言葉には、彼女の主イエスに対する最大限の信頼が込められています。しかし、主イエスであっても、死んでしまったラザロを、もはやどうすることも出来ない、という諦めが彼女を覆っています。彼女は死の支配の内にあります。

・主イエスは、「あなたの兄弟は復活する」とおっしゃるのでありますが、彼女はそれを、終わりの日の復活のことだと理解して、復活ということを現実のこととしては、受け取れないのであります。そこで主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と宣言なさいます。それに対してマルタは主イエスを「神の子、メシア」であると信じます」と告白するのでありますが、そのことと、主が死をも支配なさるお方であるということが、現実のこととして結びついていないのであります。依然として死が支配しているのであります。

1.「あなたをお呼びです」

・今日の28節以下の箇所は、今度は妹のマリアと主イエスの対面の場面に移ります。

・最初、主イエスが来られたということが伝えられた時、マルタはすぐに迎えに出ましたが、マリアは家の中に座ったままであったことが、20節に記されています。悲しみのあまり、伝えられた言葉が耳に入らなかったのかもしれません。ルカによる福音書に記されているマルタとマリアの有名な記事では、主イエスが家に来られた時、マルタはもてなしのためにせわしく立ち働いていましたが、マリアは主の足もとに座って、主の話に聞き入っていました。マルタは行動的でありましたが、マリアは起こっている事態に深く沈潜する性格であったのかもしれません。だから、知らせも耳に入らなかったのでしょう。マリアも主イエスを深く愛しておりましたし、信頼しておりました。ですから、主イエスが来られたことを知ったならば、主イエスのお側に行って、主が何と言って下さるか、聞きたいと思ったに違いありません。

・主イエスはそういうマリアのことをよくご存知であります。そこで、マルタに、マリアを呼ぶようにおっしゃったようであります。28節を見ますと、マルタは、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした、とあります。主イエスはマルタと同じようにマリアもまた、死の支配のもとにあって、悲しみに暮れていることを憐れまれました。主は、深い悲しみの中にあるマリアにも介入しようとされるのであります。

・マルタはマリアに「耳打ちした」と書かれています。なぜ、大きな声ではなく、耳打ちなのでしょうか。マリアの周囲には弔問に来ているユダヤ人たちがいました。彼らの中には、主イエスに対して敵意を抱いている人たちがいたのかもしれません。それで、その人たちに知られないよう、小声で知らせたのかもしれません。あるいは、他の人に知れると、大勢の人が主イエスの周りに集まって、マリアが独りで主のお言葉を聞くのを妨げることになるのを気遣ったのかもしれません。

・いずれにしても、マルタの言葉を聞いたマリアは、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行きました。ここには、主イエスが来て下さった喜び、自分を呼んで下さったことのうれしさ、そして、立ち上がって主の許へ行くことの幸いが表わされているように思います。32節を見ますと、マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏した、と書かれています。悲しみと落胆の中にあるマリアを訪ねて下さった主に、倒れ掛かるようにしてひれ伏すのであります。そこには、愛し信頼する方と共に、悲しい事態を共有できる喜び(慰め)が表わされているように思います。――主イエスは、このように、私たちの悲しみの時、苦しみの時に、私たちを呼んで下さるお方であることを、改めて確認したいと思います。主は私たちの近くに来て下さっているのであります。しかし、私たちは目の前のことに頭が一杯になって、主イエスが近くまで来て下さっているという知らせも、耳に入らないことがあります。主は私たちのことを忘れておられません。私たちを呼んでいて下さるのであります。その知らせを耳にしたら、マリアのように、すぐに立ち上がって、主イエスの所に向かえば良いのであります。そして主イエスの前にひれ伏して礼拝すればよいのです。教会は、私たちを待っておられる主イエスと出会える場所であります。ここで、私たちの悲しみも苦しみも、主イエスと共有出来るのであります。こちらから何も言わなくても、主イエスは私たちの悲しみも苦しみも御存知であります。主は、私たちに最も必要なものを与えて下さるにちがいありません。私たちは、つい他のものに助けを求めたり、慰めを見出そうといたします。しかし、まず、主の許に出かけるべきであります。

・ところで、30節を見ると、イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた、と書かれています。なぜ、彼女たちの家まで行かれなかったのか。主イエスを敵視するユダヤ人たちがいるので、マルタが来ないように言ったのかもしれません。あるいは、先程も述べましたように、悲しみのどん底にあるマリアが慰めを受けるには、一対一で遭うのがよいとマルタが配慮したのかもしれません。

・しかし、31節にあるように、ユダヤ人たちは、マリアが急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追ったのであります。このことで、この後、墓でラザロが生き返らされるのをユダヤ人たちも見ることになり、そのことで、物議をかもすことになるのでありまして、マルタの人間的な配慮とは違う方向へ事態は進展することになるのであります。

・さて、主イエスの足もとにひれ伏したマリアは、32節にあるように、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、マルタと同じことを言います。マリアは、ある意味でマルタ以上に主イエスを愛し信頼していたと思われますが、このような思いを述べるのが人間の限界であります。彼女も、死の力に支配されているのであります。彼女はこう言って、泣き伏すしかないのであります。

2.泣いているのを見て

33節を見ると、イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、とあります。

主イエスは、マリアが泣き、弔問に来たユダヤ人たちも泣いているのを御覧になるのであります。マリアはこれまでにもさんざん泣いたと思われますが、愛する主イエスが来て下さったことによって、改めて、どっと涙がほとばしったのではないでしょうか。弔問客のユダヤ人も泣いています。ユダヤ人と言っても、主イエスに敵意を持っている人ばかりではありませんが、敵意を持っていた人も混じっていたかもしれません。いずれにしろ、ラザロや姉妹たちとは親しい関係にあったユダヤ人たちでありましょう。皆、泣いているのであります。悲しんでいるのであります。死が支配しているのであります。人の力ではどうにもならないという絶望が覆っているのであります。

・主イエスは、こうした悲しみを御覧になります。主イエスは人の悲しみを超越しておられるので、人が泣いたり喚いたりしているのを無視されるのではないか、主イエスには私たちの悲しみや苦悩を分かってもらえないのではないか、主イエスとは人間の弱さを共有できないのではないか、と思ってしまうかもしれませんが、そうではありません。主イエスは、私たちの弱さを見て下さいます。死に支配されている現実を見て下さいます。――もちろん、主イエスが死に支配されることはありません。しかし、死が人間を虜にしている現実を、決して無視されません。そして、私たちの悲しみを深く憐れまれるのであります。

3.心に憤りを覚え、興奮して

・では、このようなマリアやユダヤ人たちの様子を主イエスが御覧になって、どう対処されるのでしょうか。力強い慰めの言葉を語られるのでしょうか。マルタに語られたように、復活のことを話されるのでしょうか。そうではありませんでした。

・「心に憤りを覚え、興奮して」とあります。非常に感情的な言葉が並んでいます。意外な感じさえします。11節によれば、主イエスはラザロを生き返らせるおつもりで、ここへおいでになったのであります。そうであれば、こんなに興奮なさらずに、マルタに語られたように、復活のことを語っておられたらよいのに、と思うかも知れませんが、そうではないのです。主イエスは、確かに神の子であり、死を恐れないお方であります。死を命に変えることが出来るお方であります。しかし、主は人間の痛みや悲しみを理解されず、死の恐ろしさを知らないお方なのではありません。神の子であると同時に、人の子でもあるお方であります。人間の感情をもお持ちの方であります。

・「心に憤りを覚え」とあります。ただ悲しまれるのではありません。何を憤っておられるのでしょうか。ここではユダヤ人たちの敵意や無理解を憤っておられるのでないことは明らかであります。では、マリアや彼女に同情するユダヤ人たちの不信仰に対して憤られたのでしょうか。それはあったかもしれません。

・しかし、この後を見ると、34節で主イエスは、「どこに葬ったのか」と言っておられます。主イエスの心はラザロの遺骸が横たわっている墓に向かっておられるのであります。主イエスは、ラザロの命を奪い、マリアやマルタやユダヤ人たちの悲しみを支配している死の力に憤りを覚えておられるのであります。その死の力に立ち向かおうとして、思いを燃やしておられるのであります。

4.涙を流された

35節を見ると、イエスは涙を流された、と記されています。新約聖書の中で最も短い節の一つです。昔、聖書に節をつけた人が、この言葉に感動して、他の言葉とは一緒にしたくない、と思ったのかもしれません。また、新約聖書中で、主イエスが「涙を流された」と記すのは、ここだけであります。

・では、なぜ主イエスはここで涙を流されたのでしょうか。マリアやユダヤ人の弔問客が泣いたのと同じでしょうか。主イエスも彼女たちと同じように、死の力に支配されて、涙を流されたのではないことは、先程も申し上げた通りであります。ですから筆者は、誤解のないように、彼女たちが「泣いた」と記した時とは違う、「涙を流す」という珍しい言葉を使っているのであります。では、主イエスの涙を何と理解すればよいのでしょうか。

・新約聖書の中で主イエスが「泣いた」と記されている所が、実は一箇所あります。そこでは誤解の恐れがないので、マリアたちが「泣いた」のと同じ言葉が使われているのですが、それは、主イエスが十字架に向けて、いよいよエルサレムに入ろうとされた時であります。ルカ福音書1941節ですが、こう書かれています。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない』」と。主イエスを十字架に架けなければならないエルサレムのために泣かれたのであります。人々の罪のために泣かれたのであります。この時の主イエスの涙と、今、ラザロの墓へ向かおうとされる主イエスの涙には共通点があるのではないでしょうか。その共通点とは、人の罪のために流される涙である、ということであります。ラザロが死ななければならず、私たちも死ななければならないのは、罪があるからであります。主イエスは単に、死んでしまったラザロをいとおしんで涙を流されたのではありません。ラザロやマリアやユダヤ人たちを捕らえて、支配している罪と死の力を思って、涙を流されるのであります。主イエスは今、その罪と死の力と対決しようとされているのであります。

・主イエスは捕らえられる前に、ゲッセマネの園で苦しみもだえて祈られました。また主イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈られました。そこに描かれている主イエスのお姿と、今、ラザロの死と対決しようとして涙を流される主イエスには共痛点があります。主イエスは罪と死に支配されている人間を救い出すために、渾身の力を振り絞っておられるのであります。主イエスは神の子だからと言っても、罪と戦ったり、死を克服したりするのは、何でもない簡単なことではないのであります。激しい憤りと涙をもって臨まなければならない事柄であり、主イエスの命が捧げられなければならない事柄なのであります。

・先程朗読いたしましたホセア書118節で、預言者ホセアは、神の言葉を次のように語っていました。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。」――神は滅ぼされるべき町々のために、「激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」とおっしゃるのであります。この言葉は、まさに十字架で罪と死の力と戦われる主イエスを預言したものと言えるのではないでしょうか。主イエス・キリストは、私たちの罪と死をも、このように涙を流すほどに憎み、これと戦って下さったのであります。否、今も戦って下さっているのであります。

結.どんなに愛しておられたことか

・さて、36節を見ますと、主イエスが涙を流された様子を見ていたユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った、と書かれています。――このユダヤ人たちというのは、主イエスに敵対していたユダヤ人ではなくて、どちらかというと、主イエスに好意を持っていた人たちではないか、と一般に解釈されます。彼らもラザロを愛し、ラザロの死を悲しんでおりました。涙を流される主イエスを見て、主イエスも自分たちと同じように、ラザロを愛し、ラザロの死を悲しんでおられるのだ、と一種の感動をもって漏らした言葉だと理解するのです。しかし、私は思います。仮に主イエスに敵対していたユダヤ人であったとしても、悲しむ者と共に泣き、心に憤りを覚えて、興奮しておられる様子を見た人なら、誰でも、主イエスがどれほどラザロを愛しておられたかを、感じることが出来たのではないでしょうか。しかし、同時に、「どんなにラザロを愛しておられたことか」という言葉には、諦めを読み取ることも出来ます。こんなに愛しておられても、ラザロの死をどうすることも出来ないのだ、という諦めであります。主イエスに好意を持っていようが、敵対心を持っていようが、その点は同じであります。

・次の37節を見ますと、こう書かれています。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。――これは、普通、主イエスに敵対していたユダヤ人の言葉だと解釈されます。しかし、敵対するユダヤ人たちは、以前に主イエスが生まれつき目の見えない人の目を開けられたときに、本人が証言しているにもかかわらず、その事実を受け入れられなかったのであります。だからここで語っているのは、ある程度主イエスの力を認めている人たちだと見ることも出来るのであります。あるいは、敵対するユダヤ人たちが、主イエスの力の限界を冷笑している言葉であるのかもしれません。しかし、主イエスに好意を持っていようがいまいが、この言葉には、やはり死の力に対する諦めが支配しています。主イエスでも、死の力を覆すことは出来ないのだ、という諦めであります。

・ユダヤ人たちだけではありません。主イエスをこよなく愛するマリアも同様に、主イエスの愛を覚えるのではありますが、そこまでであります。私たちが主イエスを見る目も、往々にして同様であります。主イエスの様々な言動を見て、愛の深い方だとは誰も感じるのであります。しかし、死の力を克服するお方だとは、なかなか信じられないのであります。

・主イエスはこの後、墓に入られて、既に死臭が漂っていたラザロに向かって、「ラザロ、出てきなさい」と叫ばれると、彼は墓から出て来るのであります。――このことは、次々週に聴くのでありますが、主イエスは死人をも甦らせられるお方であることが、示されるのであります。

・そのことは、主イエス御自身の十字架の死からの復活を指し示しております。私たちは、涙と憤りをもって罪と死に打ち勝ちたまう主イエスの、憐れみに満ちた深い愛を受けているのだということを、覚えたいと思うのであります。主イエスは、その愛をもって、私たちの不信仰と罪を乗り越えて、私たちを救い出し給うお方であります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・愛に満ちた主イエス・キリストの父なる神様!

・ラザロの死に対して、涙と憤りをもって立ち向かい給うた主イエス・キリストの深い愛を覚えて感謝いたします。

・罪深い私たちでありますが、どうか、私たちの罪と死をも、主イエスのご支配の下に置いて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年7月5日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書11:28−37
 説教題:「主イエスの涙」
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