あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
                 
(ペトロの手紙一 2:5)

 1章でキリスト者たちに、「聖なる者」として「偽りのない兄弟愛を抱く」ように勧めた筆者は、2章の冒頭で、「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去れ」と言う。だが、これらを捨てることは無防備になることで、不安になるので、捨てきれないのが私たちである。そこで筆者は続けて、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳(神の御言葉)を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです(2)と言う。一旦、乳飲み子に帰るところから、新しい成長が始まるのである。そして、「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました(3)と言う。キリスト者は、「霊の乳」を飲むことによって、既に、主が恵み深いことを体験的に味わっているのである。その恵み深さは、「人々から見捨てられた」主が、「尊い、生きた石」となったことに示されている。それは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(詩編118:22)と言われている通りである。
 ところが筆者は更に、標記のように、キリスト者自身も「生きた石」として用いられて、霊的な家(教会)に造り上げられると言う。異教世界の中にあって、キリスト者は、ある意味で「捨てられた石」としての生き方をせざるを得ない。だが、その石が、キリストという頑丈な親石の上に積み上げられて、教会となる。そこでのキリスト者の働きとは、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえ」(5)を献げることだと言う。「霊的ないけにえ」とは、賛美の礼拝、感謝の生活(自分を献げる)、伝道(他の人を神に献げる)、の三つである。これは単に理想を述べているのではない。主がまず捨てられて「生ける石」となって下さったことによって、捨てられるべき粗末な石である私たちも「霊的ないけにえ」を献げることが出来る者たちとされたのだ。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年6月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 2:1−8
 説教題:「生きた石として」
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