序.キリスト者の生き方――兄弟愛の成長について

・キリスト者(クリスチャン)の生活は、そうでない人とどう違うのでしょうか。――改めてそう問われて、自分の生活を振り返ると、あまり違わないように思えて、返答に困るかもしれません。確かに、こうして日曜日には教会に来ている。その点は違っていると、自信をもって言えても、日々の生活のあり方、周りの人との接し方において、胸を張ってキリスト者であることを誇れるような所を探すのは難しい、と感じてしまうかもしれません。

・二ヶ月に一度聴いて来ましたペトロの手紙は、何度も申し上げておりますように、異教世界の中で生活しているキリスト者に宛てた手紙であります。1章の13節以下の所には、「聖なる生活をしよう」という小見出しがつけられていますが、「聖なる生活」とは、<区別された生活>という意味です。つまり、キリスト者は、他の人とは区別された生活が勧められているのであります。

・今日から2章に入りますが、冒頭に、だから、と言われておりますように、同じテーマが続いているのであります。直接的には、前回学びました22節以下で言われていたことを受けております。前回の箇所で言われていたことの要点は、22節にありますように、「偽りのない兄弟愛を抱くこと」、言い換えれば「清い心で深く愛し合う」ということが、「聖なる生活」であるということであります。そして、そのような生活は、23節にあるように、「朽ちない種」すなわち「神の変わることのない生きた言葉」によって「新たに生まれた」ことによって始まっている、というのであります。キリスト者というのは、朽ちない種である神の生きた言葉によって新しく生まれた者たちであり、そこには、清くて深い兄弟愛があるというのです。――こう言われて、気恥ずかしい思いをしない人はいないと思います。筆者も、これを読む人たちが決して成熟した兄弟愛に生きていないことを知っています。

・そこで今日の箇所では、生まれたばかりのキリスト者に教えるように、信仰生活の成長ということを教えます。この席には、私自身も含めて、信仰暦の長い方もおられます。しかし、22節で勧められているような兄弟愛に生きているかどうかということでは、生まれたばかりの乳飲み子同然であることを認めざるを得ないのではないでしょうか。筆者もそのような私たちに寄り添うようにして、どうすれば信仰生活が成長するのかを教えてくれます。 

・では、2章を見て行きましょう。

1.捨て去る――偽りのない兄弟愛のために

・さて、1節には、いきなり厳しい言葉が並んでいます。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、と言っております。筆者が私たちに寄り添うように教えてくれる、と申しましたが、それにしては、いきなり強烈なパンチのように感じられるかもしれません。筆者は、22節で「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」と言ったことと、現実との間の矛盾を、決して見逃してはいないのであります。この現実を捨て去らないことには、キリスト者の生活は新しくされないのであります。ですから筆者は、まずその現実に寄り添うのであります。

・最初に挙げられている「悪意」というのは、端的に「悪」を意味する語で「悪い事」の総称ですが、ここでは「兄弟愛」との関係ですから、「悪意」と訳されています。キリスト者は誰に対しても「善意」をもって接するべきであることは分かっていて、最初はそのように接するのですが、付き合っているうちに、自分と合わない所が見えて来たり、自分の立場が侵されそうになると、「悪意」が顔を覗かせるのであります。相手との関係で自分に余裕がなくなると、悪意が出て来ます。言い換えれば、自分中心であります。そこから、以下に記されている四つの悪も出て来ます。

「偽り」とは、餌でつって動物を捕まえることを意味する言葉ですが、人を騙すことであります。<うそも方便>などという言葉もあって、大人の世界では、「うそ」はあって当然と考えられて、許容され勝ちですが、「うそ・偽り」は自分の利益を守るために出て来るものであって、悪の始まりであります。

「偽善」というのは仮面をかぶることであります。内側の醜い姿・形を隠して、良く見せることです。本当の愛がなくても、愛があるように見せかけることです。人前では良い格好をするけど、内輪では身勝手というのも偽善のうちでしょう。

・「ねたみ」はどんな社会・団体でも出て来ます。教会も例外ではありません。主イエスの弟子たちも、他の弟子たちより良い地位につきたいと思ったことが、隠さず聖書に記されています。人格者と思われるような人であっても、他の人が自分より優れていたり、丁寧な扱いを受けていると、腹が立つのであります。「ねたみ」は自分で気付かないことが多いのが特徴です。知らない間に相手を傷つけてしまいます。神様から誉めてもらうよりも、人から誉められることを求めることから、「ねたみ」は起こります。

・「悪口」を言わない人はいません。漫才で互いに悪口を言い合っているのは罪がないし、夫婦が悪口を言い合っているのは微笑ましい面もあるのですが、自分を守るための悪口は戴けませんし、陰で囁かれる悪口は人を傷つけます。

・ここに挙げられている五つのことは、いずれも、ありのままの自分、神様が与えて下さった自分が気に入らなくて、自分を大きく見せよう、良く思われようとすることから来るものであります。自分を守るためのものであります。けれども、筆者はこれらを、みな捨てるように勧めます。これらを捨てるといいことは、無防備になることですから、不安であります。しかし、新しく生まれた者であるなら、全部捨て去らなければおかしいのであります。

・「偽りのない兄弟愛」というのは、神様から与えられたままの自分を受け入れて、兄弟姉妹の前でも、そのありのままの自分をさらけ出して、自分に出来る範囲で、相手の喜ぶことをするということであります。

2.霊の乳を飲む――乳飲み子のように主の恵みを味わう

・でも、それがなかなか出来ないのが私たちであります。筆者はそのことが分かっているので、続けて2節でこう言います。生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

・生まれたばかりの乳飲み子は、自分では何も出来ないし、まして人から偉くみられることを求めません。神の言葉によって新たに生まれるということは、何か人間が一段と立派になるということではなくて、むしろ、神様の前に乳飲み子になるということであります。信仰生活が長い者も、同様であります。一旦、乳飲み子に帰るところから、新しい成長が始まるのであります。

1節では、捨てるべきことが語られていましたが、2節では求めるべきもの、吸収すべきことが述べられています。何を求めればよいのか。それは、「混じりけのない霊の乳を慕い求める」ことであります。これを「飲んで成長し、救われるようになる」と言っております。

・では、「霊の乳」とは何でしょう。「霊の」という所に使われているギリシャ語は、聖霊などに使われる言葉ではなくて、「ロゴス」という「言葉」とか「理性」を表わす語に由来する言葉が使われています。ヨハネ福音書で「初めに言があった」と訳されている「言」と同じ語から来たものです。ですからここは、「神の言葉の乳」と訳してもよいのです。神の言葉を慕い求めて、これを飲むことによって、信仰の乳飲み子は成長するのであります。

・「混じりけのない霊の乳」と言われています。「混じりけのない」というのは、ごまかしがない、純粋な、という意味です。乳飲み子が飲む乳に混じりけがあっては大変です。御言葉にもごまかしや不純物がまじっては、危険です。命に関わります。これは説教者が最も気をつけなければならないことですが、聞く方でも、自分に都合の良い勝手な解釈で聞いたのでは、霊の乳を飲んだことにはなりません。少々飲みづらい乳であっても、混ぜ物で味付けして飲んだのでは、信仰は成長しないのであります。

・次の3節には、あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました、とあります。何でもない言葉のようですが、実はこの言葉には、詩編349(865)の言葉が用いられているのであります。詩編では、こう歌われています。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。ですから、ここは、<詩編にも、主の恵み深いことを味わえ、と書かれていて、あなたがたも、味わった筈ではないか>と言っているのであります。しかも、この「恵み深い」という言葉は、「クレーストス」という言葉で、キリストと訳している「クリストス」という言葉と、一字違いの似た言葉なのであります。だから、<主なるキリストがいかに恵み深いお方であるかを、じっくりと味わったではありませんか>と言っているのであります。「味わう」という言葉は、体験的な言葉であります。頭だけで理解するようなことではなくて、キリスト者としての生活の中で、主の恵み深さを味わうのであります。そうして初めて、1節で勧められていたようなことも、実際に、日頃の生活の中で、また教会の兄弟姉妹の交わりの中で実現することが出来るようになる、ということであります。逆に言うと、1節で挙げられていることが捨てられないとすれば、それはまだ、霊の乳を飲んで、そこから主の恵みを味わっていないということになるのではないでしょうか。

3.生きた石として――霊的な家に造り上げられる

・次に4節では、こう言われています。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。ここでは主イエスのことが「生きた石」と言われています。このあと、6節から8節までの所に、旧約聖書で、「石」について書かれている箇所が3ヶ所引用されています。最初は先程朗読していただいたイザヤ書28章の中の16節からの引用ですが、「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない」とあります。ここで「選ばれた尊いかなめ石」というのを、キリストのことを指していると受け止めて、<キリストを信じる者は、決して失望に終わることがない>と言おうとしているのであります。 7節の引用は、詩編11822節からですが、ここで「捨てた石」というのは、人々に捨てられて十字架にお架かりになったキキリストと理解していて、そのキリストが「隅の親石」すなわち、教会の基礎になった、ということであります。8節の引用は、イザヤ書814節からの引用ですが、ここでも「石」はキリストを指していると理解しているのですが、そのキリストが「つまずきの石、妨げの石」になっている、というのであります。不信仰な者は、キリストご自身につまずくのであります。キリストを受け入れらず、キリストの言葉を信じられません。十字架の時には、皆がキリストにつまずいて、見捨てたのであります。しかし、その主が、復活して、「尊い、生きた石」になられたのであります。

・この手紙を書いたとされるペトロは、かつて、足の不自由な男を癒したことで捕らえられて、議会で弁明を求められた時に、次のように言ったことが使徒言行録(41012)に記されています。「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」――ここでもペトロは、詩編118編の言葉を引用しながら、人々に見捨てられた主イエス・キリストこそが、隅の親石となったと証言しています。このような証言の言葉を聞くことこそ、キリスト者が「霊の乳」を飲むということであり、「主が恵み深い方だということを味わう」ことなのであります。

・ところが、筆者ペトロは、ここでは更に、5節で、こう言います。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。――驚くべきことに、キリストが「生きた石」であるだけでなく、「あなたがた自身も生きた石として用いられる」と言うのであります。「霊の乳」を飲む者は、「生きた石」とされて、キリストを土台とする「霊的な家」に造り上げられるのであります。「霊的な家」とは、教会(=信仰共同体)のことであります。

・この手紙をもらったキリスト者たちは、異教世界の中で非常に困難な信仰の戦いをしておりました。人々からは排斥され、迫害を受けることもあったのであります。それはまさに、捨てられた石になるような経験であったに違いありません。その人たちにとって、この筆者の言葉は、自らの姿を発見するような思いがして、慰めを受けたのではないかと思われるのであります。

・私たちもまた、この異教世界の中にあって、キリスト者であることは、ある意味で「捨てられた石」になること、周りの人からは見捨てられた生き方をすることになるのであります。しかし、その石が、キリストの「生きた石」の上に一枚一枚積み上げられて、「霊的な家」即ち教会に造り上げられるのであります。

・パウロもエフェソの信徒への手紙(21922)で、異邦人キリスト者に向かって、こう言っております。「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」――教会は誰かが建ててくれるものではありません。信仰の立派な人が建てるのでもありません。乳飲み子のような信仰しか持っていない者が、「霊の乳」を飲むことによって成長し、一つの石とされて、教会を形造るのであります。

4.聖なる祭司となって――霊的いけにえを献げる

5節の後半では更に、こう勧められています。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

・ここには、「生きた石」とされたキリスト者が、「霊的な家」である教会の中で、どのような役割を果たすのか、どういう生活をするようになるのか、ということが述べられています。教会員として、当番や様々な奉仕に当たるということが思い浮かぶかもしれません。それも、間違いではありませんが、ここでは、もっと基本的なことが勧められています。

まず、「聖なる祭司となる」と言われています。「祭司」と言えば、今では牧師がそれに当たる、と思われるかもしれません。しかしここでは、主が恵み深い方だということを味わった者は皆、祭司であると言われているのであります。

「祭司」とは、何をする人でしょうか。ユダヤ教の祭司はいけにえを献げるのがその務めでありました。ここにも、「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」と勧められています。

・では、「霊的ないけにえ」とは何でしょうか。竹森満佐一という人はこの箇所の説教の中で、聖書の他の箇所を引用しながら、三つの献げ物を挙げています。第一は、ヘブライ人への手紙1315ですが、そこでは「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」と言われています。「賛美のいけにえ」すなわち神を賛美する礼拝を献げることであります。第二は、ローマの信徒への手紙121にある有名な言葉ですが、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言われています。私たち自身を献げるということであります。それは、私たちの生活を献げるということであります。それは必ずしも牧師として献身するということではありません。生活全体が神様への感謝になっている、ということであります。第三は、ローマの信徒への手紙1516に書かれていることですが、「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません」と言っております。ここで言われている祭司の役とは、異邦人、即ちまだ信仰を持っていない人を神に喜ばれる供え物とすることです。言い換えれば、伝道によって、新たな信仰者を神様の前に献げることであります。以上、三つの献げ物とは、賛美の礼拝、自分を神に献げつくす感謝の生活、そして、伝道によって他の人を神に献げることであります。これらが、「聖なる祭司となって、神に喜ばれる霊的ないけにえを献げなさい」と言われていることの中身であります。霊の乳を飲むものは、そこまで成長させていただけるというのであります。

結.愛の共同体への成長

・以上のように、乳飲み子のようなキリスト者も、「霊の乳」である御言葉を飲み続けることによって、ここまで成長するのだということが語られて来たのでありますが、これは決して理想的なきれい事が述べられているのではありません。

・この手紙の宛先の教会の信徒たちも、取り囲む困難の中で、8節にあるように、御言葉を信じ続けることが出来なくて、つまずいてしまう人もあったのでしょう。教会の交わりの中にも、1節に書かれていたような、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口といったものが兄弟愛を傷つけていたのかもしれません。だからこそ、こうした勧めがなされているのでありましょう。

・私たちの教会や、私たちの身の回りにも、<「偽りのない兄弟愛」に満ち、清い心で愛し合っている>とは言えない現実があることを認めざるを得ないのではないでしょうか。だからこそ、ここで語られている勧めを謙虚に聞かなければなりませんし、ここで言われているように、人々から見捨てられて私たちのための捨石となってくださった、主の恵みを味わうことによって、私たちも愛の共同体に生まれ変わることが出来るし、人のつまずきにしかならず、捨てられるべき粗末な石である私たちも、「霊的な家」である教会を造り上げる一つの生きた石として用いられることが出来て、ついには神に喜ばれる「霊的ないけにえ」を献げることのできる群れへと成長することが出来るのであります。

・ペトロというのは、シモンという弟子に主イエスから与えられたあだ名で、その意味は「岩」であります。そのペトロも主イエスを裏切ってしまいました。しかし、主イエスは、そのようなペトロを、あだ名の通り「岩」「生きた石」として用いて、教会を造り上げられたのであります。その主は、私たちをも「生きた石」として用いようとなさっているのではないでしょうか。祈ります。

祈  り
 ・恵み深い主イエス・キリストの父なる神様!

・捨てられるべき石である私たちを、今日も拾い上げて下さって、乳飲み子のように、霊の乳を飲ませて下さって、「生きた石」へと生まれ返させ、成長させようとしていて下さることを覚えて、感謝いたします。

・どうか、私たちの身も心も、また私たちの生活も、あなたに喜ばれる「霊的ないけにえ」として献げることが出来ますように。

・どうか、この教会が、主イエス・キリストを土台とする、堅固な「霊的な家」として造り上げられますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年6月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 2:1−8
 説教題:「生きた石として」
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