「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」              (ヨハネによる福音書1125

 主イエスの愛する友ラザロが病気であるとの知らせを受けて、エルサレムに近いベタニアに主イエスが到着された時には、ラザロが墓に葬られてから既に四日もたっていた。もう死は確実である。多くの弔問客が来ていたが、誰も死の悲しみを拭い去ることは出来ない。そこは死が支配していた。ラザロの姉妹たちは異口同音に「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21,32)と言う。この言葉には、主イエスに対する信頼が表されてはいるが、死んだ者は主イエスでさえ今更どうすることも出来ないと、死の力への諦めが支配している。
 それに対して主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と明言されるが、マルタは、当時のユダヤ人たちの信仰に従って、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言うが、復活を未来に起こることとしてしか、受け止めていない。
 そこで主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」との力強い言葉を語られる。これは、主が人々の罪を負って死なれるが、その死を克服して必ず復活するとの宣言であり、そのことによって、罪によって破れた私たちと神との関係、隣人との関係が新しい命の関係に甦るということであり、しかもそれは、遠い未来の夢や理想ではなくて、現在のこととして語られているのである。
 私たちは誰も、その罪のゆえに、肉体の死を免れることは出来ない。しかし、主イエスの十字架と復活によって与えられた神との新しい関係は、既に現実のものであり、永遠に生き続ける。「このことを信じるか」との主の問いかけに、マルタは「あなたが…神の子、メシアである」と、ペトロの告白にも相当する告白をするが、この後、主がラザロを甦らせることを信じていなかったことが露呈する。私たちが復活を信じることは、いかに難しいことか。そのような私たちのために、主は忍耐深く、御言葉を語り続け、命の糧を注ぎ続けて下さる。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年6月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書11:17−27
 説教題:「死んでも生きる」
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