序.死に立ち向かう主

・ヨハネによる福音書11章に記されているラザロの死と甦りの物語を、数回に分けて聴いていくつもりですが、前回聴いた1節から16節までの箇所では、主イエスはエルサレムから30kmほど離れたベタニアという所におられて、そこで、愛するラザロが重病であるという知らせを受けられるのですが、それから二日間滞在した後で、ラザロたちが住んでいる、ユダヤ地方のエルサレムに近いもう一つのベタニアに向かわれたのでありました。

・ユダヤには、主イエスを殺そうとする人たちが待ちかまえています。主イエスの十字架の死の時が近づいていることを、主は十分に意識しておられました。一方、ラザロは既に死んでしまったことも、主イエスには分かっておられたようであります。そのような状況であるにもかかわらず、主イエスはラザロの所に向かわれるのであります。普通であれば、今更行っても、死んでしまったラザロはどうにもならないし、自分の死の危険が予想されるような所にわざわざ行く必要もないと考えますが、主イエスは、そのような、ラザロと御自分の死の現実が立ちはだかっているユダヤに、敢然と立ち向かわれるのであります。

・私たちは、死の危険が差し迫っているわけではないかもしれませんが、誰も死を避けることが出来ません。私たちの周りの人々も同様で、愛する者を先に送らねばならないようなことが起きないとも限りません。私たちは、日頃そういう事態のことは、あまり考えないし、考えたくもないのでありますが、私たちの現実というのは、私たちの力では避けることが出来ない死の力によって限定されているのであります。――そのような私たちの所に、主イエスは今日、御言葉をもって来て下さっております。主イエスは死に向かって、御自分の死をも恐れずに立ち向かって下さるお方であります。そのお方が私たちに何を語って下さるのでしょうか。

1.死の支配

・さて、17節を見ますと、主イエスがラザロたちの家のあるベタニアに到着された時のことが書かれています。イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた、のであります。ラザロの家があるベタニアと主イエスが滞在しておられたベタニアとの間は、一日以上を要する距離であります。ラザロが重病に陥ってから、使いの人が主イエスに知らせに来るのに、一日かかり、それを聞いてからなお二日間滞在されて、出発されてから一日かかったとすれば、ラザロが葬られてから既に四日たっていたことは、うなずけます。死んでから三日くらいの間には、たまには息を吹き返すということもあったようでありますが、四日もたつということは、もう死は確実であります。当時はドライアイスというようなものはありませんから、おそらく、異臭がたち始めていたでしょう。

18,19節を見ますと、ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた、とあります。十五スタディオンというのは、3km弱であります。マルタ、マリア姉妹を慰めるために、多くのユダヤ人がエルサレムの町から来ておりました。当時のユダヤの習慣では弔いの儀式は一週間くらい続いたようであります。「ユダヤ人」とあるのは、これまでの箇所では、ユダヤの指導者たちのことを指していましたが、ここでは、一般の知人・友人たちと考えてよいでしょう。多くの人が来て姉妹を慰めましたが、もう亡くなったラザロをどうすることも出来ません。姉妹も、知人たちも、死の悲しみを拭い去ることは出来ません。そこには、死が支配しています。死の現実は、次第に動かしがたいものとして、受け入れざるを得ません。葬儀というのは、死の現実を受け入れるための儀式であります。

20節には、主イエスが来られたことを聞いた姉妹の反応が記されています。行動的なマルタは、すぐに迎えに行きましたが、受動的なマリアは悲しみに沈んでいて、主イエスが来られたという知らせも耳に入らなかったのかもしれません。二人の性格の違いについては、ここで論じてみてもあまり有益ではありませんので、次に進みます。

21節を見ますと、マルタは主イエスにお会いすると、こう言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」同じ言葉は、後の32節で、マリアによっても語られています。このマルタとマリアの言葉の中には、主イエスに対する二つの思いが込められているように思います。一つは、主イエスがすぐに来て下さらなかったことに対する、多少の不満の気持ちであります。非難しているわけではありませんが、もう少し早く、まだ生きているうちに来て下さったら、事態は変わっていたかもしれない、という残念な気持ちであります。

・しかし、そこには、主イエスのお力に対する信頼の思いも含まれています。主イエスであれば、たとえ重病でも、そこから抜け出させて下さったに違いない、という信頼であります。けれども、二人は、こうなってしまったら、もう時間を引き戻すことは出来ないし、死んだラザロを、主イエスでさえ今更どうすることも出来ない、と思っているのであります。主イエスが目の前に来て下さっているのに、彼女たちは死の力の支配から抜け出せないでいるのであります。死の現実を引っくり返すことは、いかに主イエスでも出来ないことだと、諦めてしまっているのであります。人の死というのは、私たちにとっては、これほどに重いものであります。人の死に遭遇して、当初はなかなか信じられなかったり、受け入れられなかったりするものですが、結局は、諦めて、受け入れざるを得ないのであります。敗北は免れないのであります。

2.終わりの日の復活

・続いてマルタは22節で、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と言っております。この言葉は、どういう気持ちを表わしているでしょうか。今回はラザロの死に間に合わなかったので残念な結果に終わったけれども、もし間に合っていたら、主イエスが神様にお願いされるならば、それを神様はかなえて下さると、今でも信じていることには変わらない、という気持ちの表明と受け取ることが出来ます。それだけでなく、もう少し進んで、今は自分たちではどうすることも出来ない現実の前に、悲しんでいるが、主イエスであれば、この悲しみを和らげたり、取り除いたりするために、何らかのことをして下さるのではないか、という期待も込められています。期待というよりも、主イエスなら、この悲しみを克服させて下さるという信頼が込められています。<あなたに対する愛と信頼は、今でも変わりませんよ>という、人間としての最大限の信頼を表明する言葉であります。

・それに対して主イエスは23節で、ズバリ、「あなたの兄弟は復活する」と明言されます。主イエスは、最初にラザロの重病の知らせを聞いた時に、4節で既に「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言っておられ、弟子たちがラザロは眠っていると誤解したのに対して、14節で、「ラザロは死んだのだ」と言われ、「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった」と言われて、復活のことを暗示されていたのでありますが、ここで主イエスはマルタに対しても、はっきりと、ラザロを甦らせることを言明されたのであります。主イエスはマルタの信仰が、先に申しましたように、まだ曖昧であることを見抜いて、更に前進させようとしておられるのであります。

・ところがマルタは、そのような主イエスのお心を理解しておりません。彼女は24節で、こう言います。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。――終わりの日に復活があるということは、当時の大多数のユダヤ人たちの信じていることでありました。サドカイ派の人たちは復活ということを信じておりませんでしたが、ファリサイ派の人たちをはじめ、多くの人々は、現在の命は終わっても、未来に訪れる終末の時には、復活すると信じていたのであります。マルタはそのことを言っているのであります。主イエスが言われる「復活」ということも、そのような未来に起こることとしてしか、受け止めていないのであります。そこには、目の前にある現在の死については、受け入れざるを得ないという諦めがあります。主イエスのお言葉によっても、少しも慰めを得ていないのであります。

・私たちもまた、復活の信仰ということを、そのように捉えているところがないでしょうか。死をもって、地上での生命は終わり、遺された者との交流は絶たれてしまう。死んだ者は、一旦は無の世界へ行ってしまう。故人の思い出とか、功績というものは残るが、それも日が経てば、忘れられてしまう。ただ、終わりの日が来れば、クリスチャンであれば、もう一度墓から甦って、親しい者に再会できるし、主イエスにもお会い出来る。天国にも行ける。それまでの間は、死と闇が支配する世界にいなければならない。・・・ただ、それではあまり淋しいので、「千の風」ではないけれど、肉体を離れた「霊」のようなものが、死んだ人と生きている人との間を取り結んでいて、墓に行けば、そういう交流が出来る。あるいは、亡くなった方の霊が天から地上に残されている者を見守っていて下さる。そこにかすかな慰めを見出す。・・・こういうのが、復活の信仰の中身になってしまいがちであります。そこでは、復活の命が、現在に生きていないのであります。

3.「わたしは復活である」

・そういうマルタに対して、主イエスは25節で、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われます。これは非常に力強いお言葉であります。

・「わたしは・・・である」という言い方は、これまでにも何回か聴いて来ました。「わたしは命のパンである」(648)、「わたしは世の光である」(812)、「わたしは羊の門である」(107)、「わたしは良い羊飼いである」(1011)。この後にも出て来ます。これまでのものは、いずれも喩えによる表現でありました。しかしここでは、主イエス御自身が「復活」(口語訳では「よみがえり」)であり、主イエス御自身が「命」だと言われるのであります。これはどのように理解したらよいのでしょうか。主イエスはこの時、まだ十字架と復活を経験されていませんでした。しかし、このお言葉によって、御自分はこれから死んでも、必ず復活すると宣言しておられると受け止めることが出来ます。主イエスは私たちの復活の初穂となって下さるのであります。また、御自身が復活であるということは、<主イエスキリストの何かが復活であるということではない>ということであります。主イエスの「思想」が永遠的な価値を持っているとか、主イエスの「教え」が私たちの死んだような心を生き返らせるというのではありません。主イエスの持っておられる「魂」が永遠に生き続けるとか、私たちの魂を生き返らせるというのでもありません。主イエス自身が復活であるということは、主イエス自身が死んで復活されるということであります。復活ということには死ということが含まれています。死ななければ復活はありません。主イエスは死なれるのであります。主イエスは不死ではないのであります。死すべき人々の罪を負って完全に死なれた上で、復活されるのであります。死を克服されるのであります。主イエス御自身が命の源なのであります。私たちは主イエスと結びつくことによって、主イエスの命そのものを受けるのであります。私たちは、罪によって、神様との関係、隣人との関係に破れがあります。生きた関係が破れて、死んだ関係になっています。しかし、主イエス自身の命が注がれるので、新しい命、新しい関係に甦ることが出来るのであります。

・「わたしは復活であり、わたしは命である」と現在形で語っておられるということは、遠い未来のことを言っておられるのではありません。夢や理想を語っておられるのではありません。現在のこと、現実のこととして語っておられるのであります。マルタは終わりの日の復活のことを信じておりました。間違いではありません。しかし、終わりの日が来て初めて復活の命が与えられるのではなくて、主イエスと向き合っている今、現実のものとなるのであります。終わりの日のことが、今から始まるのであります。

・「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われます。口語訳聖書では、「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と「たとい」という言葉を入れて強調した訳になっていました。その方が原文のニュアンスが出ていると思います。主イエスを信じる者もやがて肉体の死を迎えなければなりません。しかし、たとえそうなっても、主イエスの復活の命をいただいている者には、死はもはや何の力も持ち得ないということであります。死は恐れでもないし、生きている時に持っていた何物かを失わねばならないことでもありません。<肉体は死んでも魂は生き続ける>ということでもありません。確かに、地上の命と新しい命とが、全く同じだというのではありません。罪にまみれた古い命から、救われた新しい命に甦るのであります。失われた神様との関係や損なわれた隣人との関係が、主イエスの命を受けることによって、もはや人間の不信仰や人間の身勝手な感情にはよらない、主イエスの信仰と愛による新しい関係に創り変えられるのであります。

・主はまた、26節で、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とも言われます。これは、主イエスを信じる者には肉体的な死がない、という意味ではありません。罪を犯した私たちは、死を免れることはありません。しかし、肉体の死によっても、滅びることはないということであります。主イエスの十字架の死によって罪が赦されるので、神様との関係が切れることがないからであります。既に与えられた永遠の命は生き続けるのであります。

結.このことを信じるか

・最後に主イエスは、「このことを信じるか」と問うておられます。主イエスは、御自身が復活であり、命であることを語られました。しかし、その命がラザロのものになることを信じ、マルタのものにもなることを信じなければ、何もなりません。ラザロの死による悲しみは拭われませんし、マルタ自身の命は新しくなりません。

27節でマルタは、こう答えております。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」――マルタはユダヤ人の一人として、以前から、神の子メシアがこの世に来られるということを信じておりました。でもその方は、終わりの日に現れる方だと思っておりました。しかし今マルタは、目の前におられる主イエスが、その方であると言っているのであります。終わりの日に起こるべきことが、今すでに起こっている、と告白しているのであります。24節で「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言っていたことからすれば、信仰の大きな前進であります。このマルタの告白は、他の福音書で、主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問われたのに対して答えたペトロの告白(マタイ1616ほか)に相当するものであります。

・しかし、この後、主イエスとラザロが葬られている墓に行った時、39節でマルタは「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言うと、主イエスから「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われて、不信仰をたしなめられています。主イエスから直接、御言葉を受け、「信じております」と答えたマルタですら、死んだ人が復活するということを心の底から信じるということは、これほどに難しいことなのであります。

・ところで、「このことを信じるか」との問いかけはまた、私たちにも向けられています。私たちがどう答えるかによって、復活の命に生きることが出来るかが決って来ます。マルタの答えを繰り返しただけで、新しい命が与えられるということにはなりません。私たちの日々の生活の中で、「わたしは復活であり、命である」という主イエスの御言葉が、力を持ち、生き始める時に、真実に答えたということになるのでありましょう。

・しかしそれは、私たちが心を新たにするとか、一念発起したら出来る、というものではありません。主イエスはマルタに対して、忍耐深く御言葉を語り続け、またこの後、ラザロの復活を目の当たりに示すことによって、信仰へと導かれました。主イエスは、不信仰な私たちにも、忍耐をもって御言葉を語り続け、命の糧を注ぎ続け、また現実の生活の中で、様々な出来事を通して、信仰から信仰へと導いて下さるに違いありません。そのようにして、主イエスから離れないようにされている者は、既に新しい命に生かされているのであります。永遠の命に生き始めているのであります。礼拝は、そのような新しい命に生かされていることを確認出来るひとときであります。
・感謝して、祈りましょう。

祈  り
 ・復活であり命である主イエス・キリストの父なる神様!
 ・今日も命の御言葉を注いで下さいましたことを感謝いたします。

・どうか、あなたの愛のゆえに、命の主から離れることなく、地上の命を終える時まで、信仰を持ち続け、命が養われ続けられますように。そしてどうか、終わりの日に、あなたのもとに凱旋することが出来ますように。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年6月21日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書11:17−27
 説教題:「死んでも生きる」
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