序.死に備えるために

・私たちは普段、自分の死ということをあまり意識せずに過ごしています。しかし、家族や身近な人の死を経験すると、自分の死のことを考えさせられます。昨年は教会員のK姉が天に召され、私たちもそれぞれに、自分の死のことを考えさせられたのではないかと思います。自分の葬儀の時のための写真を用意しておかなければと考えた方もありました。自分が死んだ時の身辺整理のことを考えた方もおられるかもしれません。そのように、自分が死んだ時に、遺された者たちが困らないように準備をしておくということも大切なことかもしれませんが、一番大切なことは、自分の死についての信仰の備えが出来ているか、ということであります。

・私たちは、自分たちの地上の生には終わりがあることを知っています。どんな裕福な人でも、どんなに健康で丈夫な人でも、必ず終わりの時を迎えなければなりません。そのことは誰も分かっているので、人生の終わりを受け入れています。しかし、それが余りにも早く来るのでなく、また大きな苦しみを伴わないで来ることを望んでいます。平均寿命より長く生きて、安楽に死ぬことが出来、老後に周りの者にあまり迷惑をかけなければ、それで良いと、多くの人は思っているのではないでしょうか。

・キリスト者はどうでしょうか。キリスト者は、復活を信じています。地上の生で終わるのではないことを、一応、信じています。しかし、復活の命について、どれほどの確信と希望を持っているでしょうか。復活ということについて、肉体を離れた霊魂が、空中を風のように漂っているようなイメージを抱いて、それが死者と生きている者とを結び付けているようなことを考えているとすれば、キリスト者でない人が考えているのと変わりありません。それでは、あの「千の風」の歌と同じであります。そこには、本当の命と言えるものがありません。

・では、キリスト者にとって、死とは、また復活の命とは、いかなるものでしょうか。――今日から、ヨハネによる福音書11章に入りますが、ここにはラザロの死と復活の物語が記されています。これは、単なる奇跡物語ではありません。主イエスが人間の死と命にどう関わって下さるかということが示されている物語であります。この出来事は、主イエスがユダヤ人たちから石で打ち殺されそうになった、先週聴いた出来事の直後にあったことであります。次の12章になると、主イエスはエルサレムに入城されて、受難週が始まります。ですから、ラザロの物語は、主イエスの十字架の時が迫っている中で行われた出来事であります。主イエス・キリスト御自身の死と復活との深い結びつきの中で行われた出来事であります。――この物語によって、主イエスの死と復活の意味が見えて来ますし、そのことによって、私たち自身の死への備えへと本物の復活の信仰へと導かれるのであります。

1.愛する者が病気

・さて、10章の終わりには、ユダヤ人たちに捕らえられそうになった主イエスが、彼らの手を逃れて、ヨルダンの向こう側103940)に行かれたことが書かれていました。そこは主イエスがヨハネから洗礼を受けられた所で、1(28)によれば、ベタニアという所です。聖書の後ろの地図(6.新約時代のパレスチナ)を見ていただきますと、死海のすぐ上の、ヨルダン川のほとりにあります。エルサレムから東に約30キロ離れた所です。ここはヨハネの活動の舞台でもありましたが、当時のユダヤ人社会の権力者から睨まれている者には、安全な場所であったようであります。

・今日の11章は、ある病人がいた、という言葉で始まっています。その人は、マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言いました。ここにもベタニアという同じ地名が出て来ます。しかし、これは主イエスが逃れておられたベタニアではなくて、地図で確認していただくと分かりますが、エルサレムのすぐ近く(2700m)にあるベタニアであります。マルタとマリアはルカ福音書でもお馴染みの姉妹で、主イエスは彼女たちの家庭と親しくされていて、エルサレムに来られた時にはよく訪問されたようであります。2節には、このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である、とありますが、そのことは、次の12章に書かれていることで、少し先回りして紹介されています。

・ラザロはその姉妹の兄弟でありました。弟と見られています。どんな病気か書かれていませんが、相当の重病であったようで、3節によると、姉妹たちはわざわざ主イエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。軽い病気ならともかく、重い病気は、本人が苦しむだけでなく、周りの者を心配させます。今なら信頼できる病院に預ければ、あとは医者に任せるしかないのですが、当時のことですから、医者に来てもらっただけでは、心配で心配でたまらず、自分たちが信頼している主イエスに来てもらえれば、何とかしていただけるのではないか、と思ったのでしょう。しかし、彼女たちは、「早く来て、治して下さい」とは言わせておりません。ただ、「あなたの愛しておられる者が病気なのです」とだけ言わせています。主のご判断に委ねようとする、控え目な言い方であります。しかし、心は、すぐにでも来てほしかったに違いありません。「愛しておられる者」という言い方も、目を引きます。現代では、病気を治すのは、医療や薬学の力と考えてしまいますが、実は、愛の力の働きも大きいのではないでしょうか。主イエスは医者ではありません。しかし、ラザロを愛しておられるその愛の力をもってすれば、重い病気からも救われるのではないか、と思ったのかもしれません。

2.死で終わるものではない

・ところが、姉妹からの伝言を受けた主イエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

・「この病気は死で終わるものではない」というのは、ラザロの病気は死に至るほどの重病ではない、という意味ではありません。その後で「神の栄光のためである」と言っておられます。これは、神様によって重い病も癒されて、神様の御栄光が表わされる、という意味にもとれますが、この物語の最後まで行くと、これは、<この病気でたとえ死んでも、それで終わらない>という意味で、死を超えた復活があることを示唆されたお言葉で、死からの復活が神の栄光を表わすことになるし、それによって神の子である主イエスも栄光を受ける、とおっしゃったのであります。

・ラザロを愛しておられた主イエスは、ラザロの重い病気を、単なる病気で終わらせられませんし、たとえ死に至ることがあっても、単なる死では終わらせない、と宣言しておられるのであります。私たちは、この主の言葉を十分に味わう必要があります。主は私たちをも愛していて下さいます。そうであれば、私たちや私たちの周りの者が病気になった時、それは単に私たちを苦しめるものではない、ということであります。たとえ、私たちや私たちの近しい者が死に至ることがあったとしても、それは、単に私たちが悲しんだり落胆したりするしかないものではない、ということであります。病気も死も、神の栄光を表わすためであり、神の子イエス・キリストがそれによって栄光を受けられる、というのであります。――これは、重い病気が癒されたり、死んだ者が生き返って初めて言えることだと考えては間違いでありましょう。たとえ病気が治らず、生涯付き合わなければならないような病気であっても、また、たとえ死に至らなければならなかったとしても、神と主イエスの愛のもとにある病気であり、死であれば、それは神と主イエスの御栄光を表わすものなのであります。

5節を見ると、改めて、イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた、と記しています。主イエスは、その愛をもって、病気に立ち向かわれた、ということを強調しているのであります。その結果、病気が治されるのか、死に至るのか、どちらにしても、大事なのは、主イエスの愛が注がれたかどうかであります。主イエスとの愛の関係がありさえすれば、病気や死を超えた、最善のことをして下さる筈であります。――そのことは、この後の主イエスの行動で示されます。

3.ユダヤに行こう

6節を見ますと、ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された、とあります。ラザロを愛しておられたのなら、すぐにでも出発して、ラザロのもとへ急がれればよかったのにと思いますが、なお二日間も動かれなかったのであります。ここでしなければならない大切な仕事が残っていたとは記されていません。むしろ、わざと出発を遅らされたのであります。――そのことは、14節を見ると分かります。主イエスはこう言っておられます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」と。この後、主イエスは死んでしまったラザロの所に行かれて、ラザロを生き返らされるわけですが、そのことが、結局は弟子たちをはじめ、多くの人々が主イエスを信じるようになるし、更には主イエス自身の復活のことを指し示すことになるし、あらゆる人の終わりの日の復活のことを指し示すことになるので、ラザロが死んだ時に居合わせなかった方がよかった、とおっしゃるのであります。

・主イエスはラザロを愛しておられます。しかし、ラザロだけでなく、弟子たちをはじめ、全ての人を愛しておられて、全ての人が主イエスを信じて、永遠の命を得られるようになることを望んでおられるのであります。そのことのために、ラザロの死も用いられるのであります。

・さて、二日間滞在された後、7節によると、弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」と言われます。これは、ただ<ラザロの所へ行って、神の御栄光を表わす御業をしよう>、ということではありません。ユダヤには、主イエスを捕らえて殺してしまおうと思っている人たちが待っているのであります。石で打ち殺されるということも予想されましたが、主イエスは既に十字架のことを視野に入れておられたと思われます。ですから、この言葉は、<十字架に架かろう>と言われたのに等しいのです。主イエスは愛するラザロのために、そして全ての人のために、敢然と十字架が待っているユダヤに向かわれるのであります。ここに、主イエスの私たちに対する愛も示されていると言ってよいでしょう。主イエスは病気や色々のことで苦しんでいる私たちのためにも、そして罪の中から逃れられないでいる私たちのために、御自分の身の安全を省みず、敢然と十字架へと向かわれるのであります。

・これに対して弟子たちは、「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」(8)と言っております。彼らは主イエスの決断を理解しておりません。そして、ただユダヤ人たちを恐れているのであります。あるいは、主イエスの身の安全を自分たちがお守りしなければならない、と思っているのかもしれません。

・飛んで16節を見ますと、主イエスのお言葉を聞いたディドモと呼ばれるトマスが、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言っております。ずいぶん勇敢な言葉であります。トマスはいい格好をしたわけではないでしょう。主イエスと共に死ぬことも覚悟したのでありましょう。しかしこれは、主イエスの決断とはほど遠い、見当はずれの決断であります。主イエスは決して弟子たちが一緒に戦って死ぬことを望んでおられません。弟子たちが死んでも何の益にもなりません。主イエスも、ただ十字架で死なれるのが目的ではありません。主イエスの十字架の死が人々の罪を贖い、人々を救うから、十字架に向かわれるのであります。人々を生かすために、自らの命を捨てられるのであります。それは、主イエスしか出来ないことであります。ペトロも、後に13章の終わりで、「あなたのためなら命を捨てます」と言いました。しかし、そのペトロがどうなったかは、ご承知の通りであります。私たちが命をかけて主イエスをお守りしたり、主イエスの力になってお助けするのではありません。私たちはただ、主イエスの行かれる所に従って行くだけであります。

4.昼のうちに歩く

9節に戻りますが、主イエスは弟子たちにこう言っておられます。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」――謎めいたお言葉ですが、前に聞いた94節の御言葉を思い出すのが適当であると思われます。生まれつき目の見えない人について、弟子たちの質問に答えて、こう言われました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」――主イエスが地上でお働きになる時間には限りがある。光である主イエスがおられる間に、どうしてもしなければならないことがある。主イエスが去られて、光を失い、夜が来てしまえば、あなたがただけでは、人々は躓いてしまう、という意味でしょう。主イエスは罪に覆われた闇の世界に光として来られました。そして、死が支配する世界に命をもたらせて下さいました。そのことをするために、今こそ、ユダヤに向かわなければならない、ということであります。

・こう言われた後、主イエスは11節で、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われました。すると弟子たちは、12節で「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言います。弟子たちは、主が「眠っている」と言われたのを、文字通り睡眠のことと受け取ったのでありますが、主イエスが言われたのは、死ぬことであり、<死んでいるラザロを生き返らせに行く>とおっしゃったのであります。

・ここで主イエスが「わたしたちの友ラザロ」と言っておられることに注目したいと思います。「友」というのは、軽い言い方のようですが、奴隷という言葉と対照的な言葉で、奴隷のように従属的な関係ではなくて、対等な人格的関係であります。それだけではありません。主イエスは後に、1513節で、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言っておられます。主イエスはラザロのことを「わたしたちの友」と呼ばれて、<このラザロのために、私はこれから命を捨てにいくのだ>という意味が込められているのであります。ラザロの命は主イエスが命を失われる愛によって、生き返らされ、私たちの罪に死んだ命も、主イエスの十字架の愛によって、新しい命に復活させられるのであります。

・主イエスによって生き返ることになるラザロの地上の命は、やがて終わる日が来ます。私たちの地上の命も、終わる日が来ます。しかし、主イエスが「友」と呼んで下さり、ラザロや私たちのために命を投げ出して下さった愛の関係には終わりがありません。主イエスが作って下さった、この愛の関係は永遠であります。その愛の関係こそが永遠の命であります。

結.信じるようになるため

・最後に14,15節の御言葉を、もう一度聴きましょう。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」

・主イエスがラザロの所に出かけるのを二日間遅らされたので、愛するラザロは死を経験しなければなりませんでした。そのことはラザロにとっても苦しいことであり、姉妹にとっても悲しいことであったに違いありません。しかし、そのことは、「あなたがたにとってよかった」のであります。弟子たちにとって、よかったのであります。なぜなら、死んだラザロが生き返るのを見ることによって、「あなたがたが信じるようになる」からであります。これまでに行われた諸々の奇跡の業とは違います。死が克服されるのを見ることになるからであります。

・もっとも、弟子たちはラザロの復活を見て、主イエスの復活を直ちに信じることが出来るようになったわけではありません。弟子たちが信じるようになるまでには、まだこれから主イエスの十字架があり、三日目の復活があり、そして何度も復活の主が、弟子たちの所に現われられなければなりませんでした。そして最終的には、あのペンテコステに聖霊が降らなければ、弟子たちは宣教活動を始めることが出来ませんでした。しかし、ラザロが一旦死んだこと、そして主イエスの愛によって生き返ったことが、主イエスの十字架と復活と結びつくことで、弟子たちは主イエスへの信仰を確実にすることが出来たのであります。

・「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった」と訳されていますが、口語訳では、「あなたがたのために喜ぶ」となっていました。原文には「喜ぶ」という言葉がはっきりと入っているのであります。ラザロが死んだことが、喜ばしいことなのであります。ラザロの死によって、弟子たちをはじめ、世界中の人々が主イエスの十字架と復活の喜びにあずかることになるからであります。ラザロの死は人を生かす死となるのであります。それは主イエスの死に結びついているからであります。

・主イエスは最後に、「彼のところへ行こう」と言われます。ラザロの所へ行くことは、十字架の死の所に行くことになります。主イエスはラザロを初め、全ての人を友とされる愛をもって「友のために命を捨てる」ために、ユダヤに向かわれるのであります。

・その主イエスは、聖霊において、御言葉をもって、今日も私たちの所に来て下さっているのであります。そして、私たちのために御自分の命をもって、私たちを生かそうとしておられるのであります。この主イエスとの関係は、永遠に滅びることはないのであります。この関係は、私たちが地上の命を終えることがあっても、永遠に終わらないのであります。この信仰を与えられることこそ、私たちが死のために出来る最良の備えであります。祈ります。

祈  り

 ・救い主イエス・キリストの父なる神様!

・一人の愛する友のために死に向かい給う主イエスの力強いお言葉を聴くことを許され、感謝いたします。

・どうか、この主の愛を覚えつつ、私たちも自らの死に備えることが出来ますように。そして今から、主の愛に基づく永遠の命に生きる者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年6月14日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書11:1−16
 説教題:「死で終わらない」
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