「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」                  (ヨハネによる福音書1037,38

 主イエスを受け入れられないユダヤ人(の指導者)たちは、主イエスが「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(858)とか、「わたしと父とは一つである」(1030)と言われた言葉が、神を冒涜することだとして、律法に従って、石で打ち殺そうとする。それに対して主イエスは、「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した」(32)と言われる。「多くの善い業」とは、福音書に記された数々の奇跡の業を指すが、特に、「示した」という語を手懸りにヨハネ福音書を辿ると、「神殿を三日で建て直す」(219)と言われた箇所、ベトザタで三十八年間も病気であった人を癒された時に、「これらのことよりも大きな業を子にお示しになる」(520)と言われた箇所、復活の主が弟子たちに「手とわき腹をお見せになった」(2020)箇所などで用いられており、それらはいずれも、十字架の死と復活によって私たちの罪を赦して下さる御業を示している。主イエスが詩編82編の言葉を引用して、「わたしは神の子である」と言ったことが神を冒涜することにならないと言っておられるが、これは単なる弁明ではなく、その前後には指導者の罪に対する審きが語られていることを見なければならない。そうした罪を赦すための「善い業」を進めておられるのだ。しかも、その業は「父が与えてくださった業」(32)である。標記の「わたしを信じなくてもよい。・・・その業を信じなさい」という言葉には、十字架の御業に向かわれる主イエスの強い思いを読み取ることが出来る。
 この後、主イエスは、ヨハネから洗礼を受けた所に行かれた。そこは、ヨハネが「見よ。神の小羊」と、十字架の犠牲になられるお方であることを証しした所である。ここに、主イエスが父から与えられた「善い業」の原点がある。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年6月7日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書10:31−42
 説教題:「父の業を行う主」
         説教リストに戻る