序.石で打ち殺そうとして

・ヨハネによる福音書10章は、「わたしは良い羊飼いである」という、主イエスの有名な言葉が語られているところであります。この言葉は、詩編23編の「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」で始まる美しい詩や、讃美歌354番の「かいぬしわが主よ」とともに、緑の若草に羊たちが憩う、のどかな風景を思い浮かべさせてくれます。

・しかし、10章の後半は、この主イエスの話を巡る、ユダヤ人たちの厳しい反応が記されているのであります。今日与えられている31節以下の箇所の最初には、ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた、と記されています。「また」とありますのは、以前に859節で、主イエスが「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言われた時にも、ユダヤ人たちが石を取り上げたことがあったからであります。石を取り上げるというのは、デモ隊が警官に向かって石を投げるのとは意味合いが違います。旧約聖書では、殺人罪をはじめ、背教の罪や神を冒涜した場合、姦淫の罪、安息日の違反など、17種の律法違反について、石で打ち殺すことが定められていたのであります。

・では、ユダヤ人たちは、主イエスの何をもって、石打の刑に処すべきと考えたのでしょうか。8章の場合は、主イエスが「わたしはある」と言われて、御自分について神様と同じような言い方をされたので、神を冒涜するものだ、と考えたのでしょう。今回は、主イエスが「わたしは羊飼いである」とおっしゃって、詩編などでは神様について言われている羊飼いを、御自分に関して言われたということもあったでしょうし、直接的には、30節にあるように、「わたしと父とは一つである」と言われたことが、神を冒涜することになると考えたのでしょう。――これは、ユダヤ人としては、律法に則した正当な判断であると言えます。

・この点、日本人は、極めていい加減であります。木や石でも、山でも神様にしますし、人間も死んだら、誰でも仏にしてしまうのであります。ユダヤ人は、いかなる意味においても、人間を神とすることはいたしません。信仰の父とされるアブラハムも、十戒を取り次いだモーセも、イスラエルを繁栄に導いたダビデ王も、決して神とはされなかったのであります。世界の歴史の中では、独裁者が自分を神として崇めさせることが、幾度もあり、わが国でも戦前には、天皇が神と崇められました。しかし、ユダヤ人は、そういうことは絶対しないのであります。だから、主イエスの言動を、断じて認めることが出来ないのであります。こんな、神を冒涜する者は石で打ち殺さねばならないと考えるのであります。

・今日の箇所には、そのようなユダヤ人に対して、主イエスがどう語られたかが記されています。――では、ユダヤ人でない私たちには、ここで主イエスが語られる言葉は、関係のないことなのでしょうか。私たちは、主イエスが「わたしは父とは一つである」と言われても、殆ど抵抗を感じないかもしれません。主イエスは立派なお方なのだから、父なる神様とは、その心情においても、行動においても、殆ど一つである、と考えるのかもしれません。

・それならば、私たちは主イエスに対して、最大の敬意を払っているのでしょうか。主イエスを父なる神と一つであると信じるならば、この方が私たちの生活の中心におられるような生き方をする筈であります。この方を全面的に信頼して、その語られる言葉に聴き従う筈であります。――しかるに、私たちの生き方は、自分の思いや、自分の満足が中心になっているのではないでしょうか。御言葉に従うよりも、人間的な知恵や自分の感情に従っているのではないでしょうか。――そうであれば、主イエスに石を投げつけないとしても、主イエスを受け入れない点では、ユダヤ人たちと少しも変わらないのであります。

・ですから、主イエスがユダヤ人たちに語られた言葉を、私たちも真剣に、自分たちにも語られている言葉として、聴かなければなりません。主イエスは、石を取り上げて殺そうとするユダヤ人たちに、何とお語りになったでしょうか。

1.善い業を示した

32節を見ると、主イエスは、「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」と問うておられます。

・主イエスは、ユダヤ人たちが石を取り上げた理由が分かっておられないわけではないでしょう。彼らの心の底には、主イエスに対する妬みがあります。しかし、彼らはそんなことで、主イエスをリンチにかけるようなことをしません。彼らは律法上の理由を考えています。それは、先程も触れましたように、主イエスが「わたしと父とは一つである」と言われたことが、神を冒涜することに当たり、レビ記によれば、神を冒涜した者は石で打ち殺されねばならないとあるからであります。主イエスは、そんな彼らの心の内を御存知の上で、32節のように問われます。

・「多くの善い業」とは、どのような業のことを指しておられるのでしょうか。ヨハネ福音書でここまでに紹介されて来た業と言えば、サマリアの女に命の水を与えられたこと、三十八年もの間、病気で苦しみながら、ベトザタの池の回廊で横たわっていた人を癒されたこと、五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹されたこと、生まれつきの盲人の目を開かれたことなど、多くの業を思い起こします。これらは、当事者にとっては、驚くべき恵みの業でありました。しかし、ユダヤ人たちは必ずしも、すんなりとは受け止めなかったことは、これまで見て来た通りであります。彼らは主イエスを認めたくなかったからであります。

・主イエスは、敢えてそうした業を思い起こさせながら、「どの業のために、石で打ち殺そうとするのか」と問われます。これは、主イエスがなさった奇跡の業によって、主イエスを単なる人間ではないことを認めさせようとなさっているのでしょうか。確かに、奇跡は主イエスが神であることのしるしであります。けれども、人間が奇跡的なことを行ったからと言って、神様扱いするのは、信仰的とは言えません。

32節の主イエスの言葉を、もう少し注意深く見ますと、まず、「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業」と言っておられます。主イエスがなさった業は、ただ主イエスの力を示すものではありません。「父が与えてくださった」ものであります。父なる神の御意志によってなさったことであります。それも、単に奇跡で人を驚かすということではなくて、それぞれ、困っている人、問題を持っている人を、神様が愛されることと関わっています。

・また、「多くの善い業をあなたたちに示した」と言われています。「善い業を行なった」と言わずに「示した」と言っておられます。実は、この「示す」という言葉は、ヨハネ福音書では非常に重要な箇所で使われているのであります。最初は、神殿で商人たちを追い出された時で、218節でユダヤ人たちは、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言いました。この「見せる」が「示す」と同じ言葉です。この時、主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と答えられました。これは御自身の十字架の死と三日目の復活のことを預言されたのです。これぞ、主イエスの善き業であります。次に、ベトザタの池で三十八年間も病気であった人を癒された時に、ユダヤ人たちは、その業を安息日にしたことを問題にしましたが、主イエスは、こう言われました。「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」(51920)。ここで「大きな業」とは、「死者の復活」のことを言っておられるのであります。このあと、14章では、弟子のフィリポが主イエスに「父を示してください」と言った時に、主は「わたしを見た者は、父を見たのだ」(149)と答えられました。そして最後に出てくるのは、復活の主が弟子たちに現れた時で、「手とわき腹とをお見せになった」(2020)と書かれている「お見せになる」が「示す」という言葉なのです。このように、「示す」という言葉は、主イエスの十字架の死と復活を通して私たちの罪を赦して下さった御業が語られる箇所で、用いられているのであります。ですから、主イエスの業は、<多くの奇跡の業も含めて、どの業も、主イエスこそ私たちを罪から救うお方である>ということを示す、父なる神から与えられた業なのであります。

32節の問いかけによって、主イエスは、どの業も石打の刑に当たらないどころか、全て父なる神の救いの御心に添った善い業であることをお語りになっているのであります。

2.神を冒涜?――わたしは神の子である

・これに対してユダヤ人たちは答えて、こう言います。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」33節)

・彼らは、主イエスがなさった個々の奇跡的な業に、律法違反を見出すことは出来ません。彼らも「善い業」と呼ばざるを得ません。彼らが問題とするのは、主イエスが御自分のことを、「わたしはある」と、神様と同じ言い方をされたことや、「わたしと父とは一つである」と言ったりされたことでありまして、それらの主イエスの言葉が神を冒涜することになり、石打の刑に当たるというのであります。彼らは主イエスの業と言葉を分離して考えていて、業については文句の言いようがないのでありますが、言葉だけを捉えて、神を冒涜したと言うのであります。

・これに対して主イエスは34節以下で、こう言われます。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」3436節)

34節で主イエスが律法(旧約聖書のこと)から引用されているのは、先程朗読しました詩編82編の中の6節の言葉であります。(82編を開いて下さい。)そこで「神々」とか「いと高き方の子(神の子)」と呼ばれているのは、神から裁きの権限を与えられている地上の権力者のことであります。主イエスは、この記述を引用することによって、<神でもない地上の権力者が聖書の中で、「神々」とか「神の子」と呼ばれているではないか、だから、私が自分のことを「神の子」といっても、神を冒涜していることには当たらない>、と弁明しておられるのだと、一応解釈出来ます。

・しかし、主イエスが詩編82編から引用されたのには、もっと深い意味があると思われます。82編全体を読むと、「神々」とか「いと高き方の子」と呼ばれ、神から裁きを託されている筈の権力者たちが、2節では、「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか」と非難され、5節では「彼らは知ろうとせず、理解せず、闇の中を行き来する」と言われ、更に7節では、「あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する」と、裁きの言葉が語られています。聖書に通じていたユダヤ人たちは、主イエスの言葉を聞いて、このようなことが語られた82編全体のことを思い出したに違いありません。

・主イエスは、そのような内容を持つ82編から引用することによって、<あなたたちは、世の指導者を自認しているけれど、ここで言われているように、あなたたちこそ「不正に裁き、神に逆らう者」であり、「没落する」者なのではないか。そのようなあなたがたのことを、神は「神々」と呼んでおられるのであれば、父の御心に従って善い業を行っている私が自分を神の子と言って、なぜ悪いのか>と言っておられるのであります。

・私たちもまた、ユダヤ人たちと同じように、自分を指導者・支配者とする者であります。自分を神とはしないまでも、自分を正しいとして人を裁き、自分を「神々」の一人としているのであります。そして、主イエスを受け入れるかどうか、主イエスに従うかどうかを自分で決めようとしているのであります。そんな私たちは、82編で言われているように、神の裁きを受けなければならないのでありますが、主イエスはそのような私たちのためにこそ、父なる神の御心を受けて、「善い業」を進めておられるのであります。

3.父の業を行う

・主イエスは更に続いて37節で、こう言われます。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

・このお言葉には、御自分が父なる神の業を行っているということを何とか分かってほしいという、主イエスの強い思いが込められているように思います。「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」とまで言われます。信仰者にとって、主イエスを信じることが最終目標であります。しかし、主イエスは<自分を信じてくれなくても、父の御心によって行っている業だけは信じてもらいたい。そうすれば、父なる神と私とが一つであることが分かるだろう、>とおっしゃるのであります。ここには、主イエスがこれまでして来られたことに対する確信を見ることが出来るとともに、これからなさろうとしている十字架の御業に向かわれる覚悟を読み取ることが出来るのではないでしょうか。「あなたたちは知り、また悟るだろう」と言われていますが、この「知る」と「悟る」の原語は同じ言葉で、「あなたたちは知ったし、知り続けるだろう」ということであります。ユダヤ人たちは、主イエスの業と言葉を分けて考えようとしますが、主イエスの業にこそ、父なる神の御心に従う神の子の全てが表わされている、ということであり、そこで表わされていることは永遠の真実なのであります。

結.ヨハネの証しに戻る――見よ、神の小羊

・このような主イエスの思いが詰まった言葉が語られたのでありますが、39節によると、ユダヤ人たちはまだ悟ることが出来ず、またイエスを捕らえようといたします。けれども主イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれました。結局は彼らの手によって捕らえられ、十字架に向かわれることになります。しかし、まだその時は来ていなかったということでしょう。彼らは主イエスを捕らえることは出来ませんでした。

・そして、主イエスは40節によれば、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在されました。そこは、主イエスが伝道を開始される前におられた所であり、ヨハネから洗礼を受けられた場所であります。主イエスにとって、原点とも言える場所であります。そこに戻られたということは、もう一度、初心に立ち帰って心を新たにして出直そう、ということではありません。かつてここで、何があったでしょうか。

・洗礼者ヨハネはこう証言しております(23234)。「わたしは“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」――ヨハネはそれまで主イエスを知りませんでした。しかしこの時、聖霊が降るのを見て、主イエスが神の子であることを知ったのであります。

・今、ユダヤ人たちは、主イエスが神の子であると言われることに躓いています。私たちもまた、自らの生活の中で、主イエスを神の子としない生き方をしております。そのような者たちが、どうすれば、主イエスを神の子として受け入れ、このお方に全面的に従って行く者とされるのか。

・主イエスの上に聖霊が降るのを見たヨハネは、この後、「見よ、神の小羊だ」(136)と言って、主イエスの弟子になる人たちに証しをしました。ここに、主イエスの原点があり、主イエスを神の子として受け入れるための証しがあります。主イエスは、ヨハネ福音書10章で、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。主イエスは私たち羊のために命を捨てられる羊飼いであります。この羊飼いは、イスラエルの民のために犠牲となった小羊のように、十字架の上で血を流して私たちの贖いとなって下さるお方であります。主イエスの御業は全てそこに集約されるのであります。それが父の業であります。

・今日の箇所の最後の41節以下に、こう書かれています。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。41,42節)

・父なる神の御心に従った主イエスの業を指し示すヨハネの証しがあるところでは、主イエスを信じる者が起こされるのであります。今も、「見よ、神の小羊」との証しがなされる、教会の礼拝において、主イエスを信じる者が起こされ、父なる神の救いの御計画が、着実に進められて行くのであります。そのような礼拝がここに備えられていることを感謝したいと思います。
・祈りましょう。

祈  り
 ・救い主イエス・キリストの父なる神様!

・主イエスに向かって石を投げかねない私たちを、御許に呼び集めて下さって、主イエスの血の滲むような御言葉を賜わることが出来て感謝いたします。

・どうか、十字架の御言葉に耳を傾け、受け入れ、従って行く者とならせて下さい。どうかまた、主イエス・キリストを証しする者とならせて下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>    2009年6月7日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書10:31−42
 説教題:「父の業を行う主」
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