その日が来ると、ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで、主は穂を打つように打たれる。しかし、イスラエルの人々よ、あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる。 (イザヤ書27:12)

 イザヤ書27章の冒頭には、主が「蛇レビヤタン」を罰し、「海にいる竜」を殺されるとの審きが語られ、「茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば、わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす」(4節)と言われている。これらは、イスラエル(選びの民=教会)を悩ました敵対勢力が滅ぼされる預言とも受け取れるが、むしろ、悪魔的なものを持っている私たち自体が罰せられることと受け止めねばならない。
 だが、滅びを望まないなら、「わたしと和解するがよい」(5節)と勧められる。「和解(シャローム)」とは、主なる神自身が「常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る」こと、即ち、ぶどう畑(イスラエル=教会)に、小羊であるキリストの血を、こやしとして注いで下さることによって成立するのであり、その結果、ぶどうの木が「根を下ろし…芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす」(6節)ようになる。こうして、「ヤコブ(選びの民=教会)の咎が贖われ、罪が除かれると…祭壇の石はことごとく砕けた石膏のようになり」(9節)とあるように、私たちの外と内にある異教的なものから解放され、「城壁に囲まれた都は孤立し、…見捨てられて荒れ野となる」(10)と言われるように、人間が造り上げたものが崩される。教会は、外形を立派に整え、人間的な魅力や文化的な装いで飾っても、人間を頼みとしている限り、造り主の憐れみと恵みは得られない(11節)のだ。
 それと対照的に、その日(キリストとともに始まった終わりの日)には、標記のように、主御自身が、打たれた穂の中から実を集めるように、異邦人の中から、救いの民を「ひとりひとり拾い集められる」のだ。十把一からげの救いはない。聖霊の働きとは、神の不思議な力が電波のように私たちに届くことではなく、主が汗と血を流して私たちを拾い集めて下さる働きなのである。主の日ごとの礼拝は、「角笛」で告げ知らされる終わりの日の礼拝の先取りである

 米子伝道所ペンテコステ礼拝説教<要 旨> 2009年5月31日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書27:1−13
 説教題:「ひとりひとり拾い集められる」
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