序.ぶどう畑の歌

・本日はペンテコステ=聖霊降臨節であります。主イエスが復活して天に昇られた後、お約束どおり弟子たちに聖霊が降って、彼らが宣教の働きを開始した事を覚える日であり、教会の誕生日とされている日であります。

・隔月にイザヤ書から御言葉を聴いて来ておりますが、今日の箇所の2節以下のところに「主のぶどう畑」という小見出しが付けられています。ちょうど5年前のペンテコステに、5章1−7節にある「ぶどう畑の歌」という箇所を取り上げたときに、今日の27章の2−6節も併読したのであります。

・この箇所には、直接、聖霊降臨のことが出て来るわけではありませんが、「ぶどう畑」とは、旧約聖書の世界では、神様に選ばれた民=イスラエルを表わしていて、イエス・キリスト以降は、選ばれた民は「教会」に引き継がれたと考えられていますから、教会の誕生日であるペンテコステに、ぶどう畑についての御言葉を聴くのはふさわしいと言えるのであります。

・今日の箇所の3節には、主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る、とあります。また、12節以下の「イスラエルの回復」という小見出しが付けられたところには、今日の説教の題に引用した、あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる、という言葉もあります。これらは、選ばれた民であるイスラエルの民について語られたものでありますが、教会についても当てはまることであります。主なる神様は、聖霊において今も教会に働いて、「水を注ぎ」「見守り」、「ひとりひとりを拾い集めて」下さっているのであります。今日は、この箇所から、聖霊なる神様が私たち教会にどのように働いていて下さるのか、そしてどのように、命の実を実らせて下さるのかを、聴き取りたいと思います。

1.レビヤタンの絶滅

・さて、イザヤ書27章は、「主のぶどう畑」について語る前に、1節で、蛇レビヤタン海にいる竜を主が殺されることが述べられています。ここは、すぐ前の26章の最後の部分(20,21節)の続きと見られるのですが、「主の審判」が告げられている箇所を受けているのであります。

・「蛇レビヤタン」とか「海にいる竜」というのが何を表わしているのか。イザヤの時代の北イスラエルは、既にアッシリアに滅ぼされており、南ユダもバビロンやエジプトの脅威のもとにあったと考えられます。ですから、「蛇レビヤタン」とはアッシリアのことを指し、「海にいる竜」とはバビロンやエジプトのことを指すと見ることも出来ます。

しかし、これらはそのような特定の勢力を表わすのではなく「蛇」というのは、アダムの時以来、人類を悩まし続けたサタンを表わすものであり、「レビヤタン」というのは旧約聖書では海に棲むとされる怪物であり、これも人間に対して悪魔的な働きをする想像上の生物であります。「竜」は「蛇」とも訳されますが、新約聖書では黙示録に出て来て、当時ユダヤを支配していたローマ帝国を暗に示していますが、いずれにしても、これらは神に敵対する悪魔的な勢力を表現しています。

・それらが、「その日」つまり、終末的な日には、主によって罰せられ、殺されるというのであります。これは、強大な政治勢力によって痛めつけられていたイスラエルの民にとっては、希望を与えられる預言でありますが、これは、単に、そうした敵対勢力が滅ぼされることと受け止めてはならないのであります。単に、ぶどう畑を脅かす政治勢力が審判を受けるということではないのであります。先に、5章で聴きました「ぶどう畑の歌」では、このように歌われておりました。(p1067

よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」(イザヤ5:2)――ぶどう畑が外から脅威を受けるだけでなくて、ぶどう畑のぶどう自体が酸っぱいぶどうになってしまった、と嘆かれているのであります。イスラエル自体の中に、不信仰や偶像礼拝が蔓延したのであります。

・「ぶどう畑」が「教会」を表すとして受け止める場合も、教会を脅かしている、この世の悪魔的な勢力が主によって滅ぼされることとして受け止めるだけではなく、教会の中の私たち自身の中にある悪魔的なものが、主の「強い剣をもって」、罰せられ、殺されようとしているのだ、と受け止めなければならないのではないでしょうか。556節には、こう歌われていました。

 「さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。」(イザヤ5:56)――このように、神様は私たちを荒れ果てるに任されるというのであります。

2.和解への招き

・ところが、今日の272節以下では、一転して、その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え、と語られます。5章では、神様に見捨てられたかに見えたぶどう畑が、ここでは、もう一度甦えらされることが歌われるのであります。

3節では、こう言われています。

主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。

 5章では、「荒れるにまかせる」「見捨てる」と言われていた主なる神様が、ここでは「夜も昼も見守る」と言われ、「雨を降らせるな」と言われていた方が、ここでは「常に水を注ぐ」と言われるのであります。

4節を見ると、わたしはもはや憤っていない、とも言われます。驚くべきことに、神様は、憤りを収めて下さるというのであります。――神様はそんなに簡単に心を変えられるお方なのでしょうか。神様はそんなに甘いお方なのでしょうか。――そうではありません。神様が憤りを収めて下さるのは、主イエスが私たちの罪を担って下さったからであります。主イエスが神様の憤りを一身に負って、十字架にお架かりになったからであります。

4節の続きには、茨とおどろ(雑草のこと)をもって戦いを挑む者があれば、わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす、と言われます。5章では、「茨やおどろが生い茂るであろう」と言われていたのに、今度は、それらが焼き尽くされるのであります。ここで「茨とおどろ」は何を表わすのでしょうか。イスラエルや教会の発展を妨げる外敵と受け取ることも出来ますが、むしろ、イスラエルの内部、教会の内部にあって、神に逆らう者、あるいは教会を乱す者と考えた方がよいのではないでしょうか。――私たちはここで、教会の中にいる、まだ信仰が不確かな人や、教会の交わりを乱す人のことを考えない方がよいでしょう。他人のことを考えるよりも、自分が「茨とおどろ」ではないかと、謙遜に自分自身を顧みるべきであります。他人の不信仰を嘆いたり、非難したりすることによって、自分が「茨とおどろをもって戦いを挑む者」になってしまっていないかを顧みる必要があります。

・だからこそ、5節でこう勧められています。そうではなく、わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。――「そうではなく」というところは、口語訳聖書では、「それを望まないなら」と訳されていました。その方が分かり易いと思います。つまり、<神様によって焼き尽くされることを望まないならば、わたしと和解しなさい>と言われているのであります。和解を必要とするのは、信仰の不十分な誰それではなくて、私たち自身なのであります。

・では、神様と和解するとは、どういうことでしょうか。ここの「和解」という言葉の原語は「シャローム」、つまり「平和」「平安」という言葉であります。神様との「和らぎ」であります。それはどうして得られるのか。――1節では、神様御自身が「常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼も見守る」と言われていました。リュティという人は短い説教の中で、ある植木職人の話として、こういうことを言っております。「自分が知っている最良の肥料は土を耕すために流す汗だ」と。植木職人と同じように、神様自身が汗水を注いで下さったからこそ、神様との「和解」が得られるのであります。リュティは更に、ある屠殺場の経営者の次のような言葉を引用しています。「私の畑に、このあたりで一番の大きなキャベツができるのは、血をこやしにするからですよ。血が収量の一番多い土壌を作ってくれます。」――神様も、ぶどう畑に、小羊である主イエス・キリストの血をこやしとして施されたのであります。このように、神様が汗も血もこやしとして注いで下さったからこそ、和解が成立し、酸いぶどうではなく、本当のぶどうが実るのであります。

・今日は聖霊の働きを覚える日ですが、聖霊の働きとは、神様の不思議な力が電波か何かのように私たちに届くことではありません。聖霊の働きとは、神様と主イエスの汗と血が注がれることであります。私たちが、そのような汗と血を注いで戴かなければならない者であることを認めて、そのことを感謝して受け入れること、それが神様と和解する、ということであります。

6節では、時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす、と言われています。「時が来れば」というのは、「その日」と同じく、終末の時でありますが、その時は、主イエスが来られたことによって、既に始まっていて、最終的には主イエスの再臨の時に完成します。「ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ・・・」というのは、選ばれた民がぶどう畑で、もう一度新しい命を得て、芽を出し実をつけることであります。主イエスによって建てられ、聖霊を注がれた教会において、もう一度新しい選ばれた民の芽が生え出て、この地上が良いぶどうの実で満たされるのであります。

3.祭壇の石は、砕けた石膏のように/都は荒れ野に

7節、8節で「」と言われているのは、イスラエルの民のことであります。「彼を撃った者」とか「彼を殺した者」というのは、イスラエルを攻撃した国々のことであります。それらの国々は、イスラエルの罪に対する刑罰として、神様に用いられて攻撃して来たのであります。しかし、それらの国々は役目が終ると、神様によって滅ぼされてしまいますが、イスラエルに対する刑罰はそこまで行かず、限度があるのであります。8節は、イスラエルに対する刑罰のことを言っているのですが、「追い立て、追放された」とか、「東風の日に、激しい風をもって、吹き払われた」というのは、アッシリアなどによる捕囚のことでありましょう。

9節では、その捕囚も終わる時のことが預言されています。捕囚という刑罰を受けた後は、ヤコブの咎はこのようにして贖われ、罪が除かれると、その結果は・・・祭壇の石はことごとく砕けた石膏のようになり、アシェラの柱や香炉台は、再び建つことがなくなる、と言われています。捕囚の間に祀られていた異教の祭壇は砕かれて、もはや再建されることはなくなる、というのであります。

ここに述べられていることは、神様によって異教の国の支配から解放されることの預言と受け止められますが、同時に、偶像礼拝との戦いは、終わりの日までに続くイスラエルの課題であり教会の使命であることが述べられているとも受け取ることが出来ます。偶像礼拝との戦いは、今も続いています。偶像礼拝は、教会が地域に根付いていくときに、避けられない問題であり、私たちの家庭にも残っている問題であり、私たち自身の中からも払拭し切れない問題であります。しかし、終わりの日には、偶像はことごとく砕け去るのであります。

10節には、城壁に囲まれた都は孤立し見捨てられて荒れ野になる、と言われ、11節では、造り主は憐れみをかけず、・・・恵みを与えられない、と言われています。これはイスラエルを苦しめて来た国の滅亡のことを言っているのか、北イスラエルの都サマリアのこと、或いはエルサレムの都そのもののことを言っているのか、色々な解釈がありますが、いずれにしろ、人間が造り上げた都は、いかに堅固な城壁で囲んだとしても、荒れ野にならざるを得ないのであります。教会もまた同様であります。外形をどんなに立派に整えたとしても、また、人間的魅力や、音楽など文化的な装いで飾ったとしても、人間を頼みとしている限り、造り主は憐れみをおかけにならず、恵みを与えられないのであります。

4.ひとりひとりが拾い集められる

・そのような「城壁」で象徴される人間が造り上げた都とは対照的に、12節には、主なる神御自身がイスラエルの民をエルサレムに集められることが語られています。

その日が来ると、ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで、主は穂を打つように打たれる。――「ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで」というのは、ダビデ王国の領土で、イスラエルの理想的な国境を指し示す表現であります。「穂を打つ」とは、原始的な穀物の収穫では、穂を摘み、それを打って実を集めたことを言っているのでありましょう。そのように、主なる神様は、散らされて異邦人の中に混ざり合っていたイスラエルの人々を、ひとりひとり拾い集められる、のであります。十把一絡げの救いはありません。かつて50年余り前に、ビリー・グラハムという人によるクリスチャン・クルセードというのが大々的に行なわれました。大きなホールに大勢の人を集めてイエス・キリストの話をし、一日で何百人という人が救われたというのであります。来年、その息子のフランクリン・グラハムが来て、大阪城ホールでフェスティバルをする計画が進められています。このような大掛かりな集会で、救いのきっかけを掴む人もいるかもしれません。しかし、救いは皆が行くから自分も行くという形では行なわれません。一人一人が御言葉に向き合うことによってしか与えられません。神様が「ひとりひとりを拾い集められる」のであります。十把一絡げの救いはあり得ないのであります。

先ほど、マタイによる福音書20章の「ぶどう園の労働者の喩え」の箇所を朗読していただきました。ここには、ぶどう園で働く労働者を雇うために、家の主人が夜明けの頃から出かけて行って、労働者をひとりひとり見つけ出して、ぶどう園に送り込む様子が語られていました。十二時頃にも、三時頃にも、そして五時頃にも出かけて行くのであります。これが、人を救う神様のやり方を示しているのであります。神様は、私たちのような者をも見つけ出し、出会って下さって、救いへと送り込んで下さるのであります。ですから、私たちの伝道のやり方も、これと同じでなければ成功しません。私たちの周りのひとりひとりを大切にして、ひとりひとりのために祈りながら、お誘いする以外に、効果的な方法などあり得ないのであります。

結.角笛が吹き鳴らされ

13節には、もう一度、その日が来ると、という書き出しで、終わりの日における礼拝のことが語られています。大きな角笛が吹き鳴らされ、とあります。「角笛」は「ラッパ」とも訳されますが、イスラエルにおいて、警告の信号として、あるいは戦闘における攻撃の合図として鳴らされましたが、また、祭儀的集会への召集のためにも用いられました。詩編81編では、

 わたしたちの力の神に向かって喜び歌い、ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし、琴と竪琴を美しく奏でよ。角笛を吹き鳴らせ、新月、満月、わたしたちの祭りの日に、(詩編8124)と歌われています。

・旧約聖書では、角笛はまた、「ヨベルの年」と呼ばれる、五十年目ごとの奴隷解放の時を告げるものでもありました。レビ記にはこう記されています。あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。(レビ25810

・その解放の角笛が、ここでは終わりの日の礼拝を告げるものとされているのであります。アッシリアの地に失われて行った者も、エジプトの地に追いやられた者も来て、聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す。礼拝は罪に囚われた者が解放されるときであり、新しい命に甦るときであります。主イエスも再臨の日のことをマタイによる福音書24章で、こう言っておられます。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパ(角笛)の音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。(マタイ2430,31

・パウロも、ラッパ(角笛)が鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。(Tコリント1552)と言っております。

・終わりの日に、主は、すべての国に散らばっている救われた者たちを、ひとりひとり呼び集められるのであります。そして神様を賛美する礼拝が捧げられるのであります。私たちの主の日ごとの礼拝は、その先取りであります。私たちの伝道所では、礼拝の前に鐘が打ち鳴らされます。それは、角笛に代るものであります。この鐘の音によって、週日の間、それぞれの場に散らされていた者が呼び集められるのであります。主がひとりひとりを拾い集めるようにして、呼び集めて下さるのであります。そこには主の聖霊の働きがあります。聖霊の働きとは、先程も申しましたように、主イエスが汗と血を流して私たちを拾い集めて下さる働きであります。私たちは、その恵みを思い、心躍らせながら、主の日ごとに、礼拝に集う者とされたいと思うのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・憐れみ深い父なる神様!

・この世の中に埋没している私たち一人一人を探し出して、ここに集めて下さり、あなたを礼拝出来ましたことを感謝いたします。

・どうか、終わりの日まで御言葉を聴き続け、主の御許にひれ伏す者の一人とならせて下さい。どうか、この地上の礼拝がその日に向けて、絶えず聖霊の働くところとして下さい。
・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所ペンテコステ礼拝説教<全原稿>2009年5月31日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書27:1−13
 説教題:「ひとりひとり拾い集められる」
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