「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」               (ヨハネによる福音書1027,28

 エルサレム神殿で、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24)と迫った。この言葉には、ローマの支配のもとにある現状を打破してくれるメシアへの期待と、主イエスを、神を冒涜する者として訴える口実を得ようとする敵意の両面の思惑が反映している。私たちにも、現実に困っている様々な問題を早く解決してほしいとの期待と、他方では、主イエスが自分たちの生活にまで立ち入って支配してほしくないとの思いの両面があるのではないか。
 そのような者たちに対して主イエスは、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」(25)と言われる。主は、あからさまに「わたしはメシアである」とは言われないが、神の許から来られたことを何度も明言され、様々の御業によってメシアであることを証しされたが、人々は受け入れなかった。それは、彼らが「わたしの羊ではないからである」(26)と言われ、羊であれば、羊飼いである主との間に、互いに知り合える関係がある筈だとされる(35,14,27節)。では、私たちはユダヤ人と同じように、羊とはなり得ないのか。
 そうではない。主は標記のように述べられて、羊でない者を羊にしようと招いておられるのである。私たちが訓練されたり、努力して羊になれるのではない。私たちは囲いの外へ迷い出てしまう羊であり、盗人や強盗によって奪われる弱い羊であるが、羊飼いである主が、自分の身を捨てて十字架に架かって下さることによって、誰にも奪われないようにされ、死の墓より復活して下さって、私たちにも永遠の命を保証して下さるのである。
 これらのことを語られたのは神殿奉献祭の時であった。それは、かつてギリシャの神を祀る場所とされていた神殿を奪還して、再び真の神を礼拝する場所として再奉献したことを記念する祭である。今、私たちの驕りと不信仰によって汚されていた礼拝が、もう一度、主イエスの血によって清められて、真の礼拝が回復されるのである。

 米子伝道所主日礼拝説教<要 旨>     2009年5月24日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書10:22−30
 説教題:「決して滅びず」
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